第2話

 季節は夏を迎えた。更衣ころもがえが過ぎてもまだ喪服のままであったし、髪も伸びない。だが、久しぶりに格子を上げて端近に立ってみると、東山の上の空はまぶしいくらいに青く輝いていた。

 ――もう、こうしてはいられない。

 これが実感だった。生まれてこの方、彼がこの盆地から出たことは数えるほどしかない。それも、一番遠くても奈良の春日野だ。それ以外のこれまでの三十八年間の喜怒哀楽のすべてを、都の周りを囲む山に見守られつつ過ごしてきた。そして今振り返ってみると、辛い思いの方が多かったような気がする。

 業平は庭を見ながら、座っていた。春日野の女の幻を追いつづけていたのも、高子と出会ったのもこの都であった。この歳でその若い姫に焦がれるような恋心を持ち、それを実践し、そしてすべてを失ったのもこの都でである。

 もしあの時に姫を盗み出すことに成功していたならと、ついつい女々めめしく考えてしまう。あの時雷さえ鳴らなければ……過去は戻らない。ただ言えるのは、もしことが成功していたなら姫とともに東国に行くという計画が実行され、今彼はここにいなかったはずだ。

 業平は目を上げて、首を左にひねって東山を見上げた。そしてここ数日間頭の中にあった、宮中への出仕とは全く方向の違う考えをまた思い出した。

 山の向こうは、山科はまだしも、さらにその先はどのようになっているのか全く分からない。都人にとっては都城の中だけが全世界であり、川向こうすら未知の世界だ。ましてや山の向こうなど……

 だが、兄は信濃守として、あの山を越えて任国へ赴任していった。ひと言で東国といっても、それがどのような所かは見当もつかない。まだ高麗こまからの方が、文献や絵画で接することができる分だけ親近感があった。

 それでも――東国へ行こう――と、業平はついに心を決めた。

 こんな都の、人間の間でくすぶっているよりかはずっといい。一度は姫と共にと思った土地に一人で行くのはかえって辛いかもしれないが、その辛さは最初だけであろうと思う。姫との一部始終の出来事が起こったのは都でであって、東国でではない。だから都を捨てるのである。そして姫と共に行くはずだった土地へ一人で行って、姫との想い出を純化させたい――業平はそんな気になったのだ。

 さらに彼は思う――この都では、自分は用のない人間だ。そんな人間の一人や二人消えたとしても、都はびくともしない。あるいは自分がいなくなったことで少しでも騒いでいる人がいれば、それはそれで愉快である。

 とにかく彼は、消えてしまおうと思った。蒸発という語彙も概念も彼の知識の中にはないが、それに近いことへの願望を確かに彼は抱いていた。

 業平は立ち上がった。

「政所別当、参れ!」

 久々に出す大声だ。驚いて忠親は、駆けつけてきた。それをすぐに奥に呼び入れ、業平は小声で決心を告げた。

「何と……」

 もしや業平がやっと宮中に出仕する気になったかと思っていた忠親は、始めは驚いて言葉を失っていたが、すぐに薄笑いを浮かべた。

「それがいいかもしれませんな」

 ここに閉じこもっているのは、精神衛生上よくない。思い切って広い世界に飛び出した方が、健康にもいいだろう――このような内容のことを忠親は思ったようだ。

「供はいかほど」

「二、三人でよい」

「では、この忠親もぜひ。ただ、御車でとなると、もう少し人数が……」

「車はいらぬ。馬で行く。いいか、家司たちには、それぞれの思いに任せよ。残って留守に当たりたい者にはそうさせ、暇を取りたい者にはそれも許せ」

「かしこまりました。ならば早速、陰陽師によき日をぼくさせまして」

 忠親は立ち上がった。その後ろ姿を見て、業平はふと苦笑した。

 この屋敷も、業平の官職がないだけに収入が全くなかった。しかも、五位から六位に落とされてからは位田すら取り上げられており、位禄すらなくなっていた。今はまた五位になって位田が給せられるようになったとはいえ、実際の収入は秋の収穫後だ。宮中にはほとんど出仕していないので、季禄も望めない。また彼は賜姓王族だから、父祖伝来の荘園というものも全くない。

 この屋敷の財政は底をついており、何とか食べていっていたのは紀家や右大臣家からの支援によってのみであった。

 もちろん忠親は、主人にそのようなことは言わない。だがとっくに業平は知っていて、忠親の後ろ姿を見て、これで彼らも少しは苦悩から救われるだろうと思ったのである。

 もはや一刻の猶予もできない。業平は三日後に出発することにした。

 紀家にいる息子と右大臣家にいる妻の直子とは、もう一度だけ会ってから行きたかった。

 しかしそれによって後ろ髪が引かれてはと思い、業平はどちらも訪れなかった。

 ただ、舅の紀有常と右大臣家の小舅の常行にだけは、真名書きの文を送っておいた。どちらにも同じ文面で――都には住みづらい。ここでは、この身は用なきものに思えて仕方がない。自分が住むのによい場所を求め、歌枕をも見がてら東国へと旅立つ――こんな内容だった。

 また、常行宛ての文には、直子への歌も仮名書きで添えておいた。


  忘るなよ 程は雲居に なりぬとも 

    空ゆく月の めぐり逢ふまで


 久しぶりの詠歌だ。決してそなたを捨てていくわけではないと、表面上では言っておいた。そうしなければ、あまりにも不憫だったからである。

 その文と歌は自分が出発してから届けるようにと、業平は残る家司にことづけた。返事や返歌がきて、それがしがらみとなることを恐れたからだ。常行などは、彼自身がやって来ないとも限らない。

 出発の日が来た。供は忠親と、家司で紀家とも縁のある継則、そして同じ家司で陰陽師の安部貞行の三人であった。

 四人とも馬に乗り、まだ暗いうちに出発した。

 川を渡る頃には、行く手の山の上がほんのりと赤身をましてきたが、それでも頭上には満天の星が輝いていた。月も沈みかけている。

 川向こうは草が生い茂る野の中を細い道が山の中へと続き、次第に上り坂になってどんどん山の中へと分け入っていく。

 全く心細くないといえば嘘になる業平だった。だから、ずいぶん坂道を昇った頃に、一度だけ都を振り返って見た。闇のそこに薄ぼんやりとなりつつある空の光を受けて、都はどっしりと横たわっていた。あれが、自分が生まれ育ち、今まで生活していた場だ。それを今、自分は捨てようとしている。

 だが同時にそれは、自分にとって忌まわしい場所を捨てることでもある。そう思う分だけ業平は、必要以上に感傷的にならずに済んだ。

 再び、彼らは前進した。供たちの馬は、主人の馬に完全に従って進む。やがて道はくねって、都は峰の向こうへと隠れて見えなくなる。ここが都との最後の別れの場所だ。この先何があるのか――山を下れば、まぎれもなく別世界である。

 だが同時に、何かが自分を待っているとも感じる業平だった。

 逢坂の関を越える頃は、空はすっかり明るくなっていた。そして彼らは、今度は下り坂となった山道を進んだ。やがて、湖水が朝の光に輝いて見えてくる。

 その雄大な景を見ていると、業平には都が狭く感じられ、また同時にその狭い都に閉じ込められていた昨日までの自分がなんとちっぽけだったのだろうと実感した。

 瀬多の橋を渡る頃までは、何かと都の顔をした人びとや車が行きかっていた。石山詣での人びとであろう。

 ところが唐橋を渡った後はいよいよ都の雰囲気とは決別で、本格的な旅路が始まろうとしていた。

 業平一行は、一路東へと進路を取った。

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