第2部 都 鳥

第1章 ようなきもの

第1話

 業平は孤独だった。世の中は自分ひとりを取り残して、勝手に動いているようだ。何もかもが自分とは無関係の存在であるかのように思われ、その中で彼は一人ぼっちであった。ことごとく、自分は無視されていると思う。

 自分はこの世に生きていても仕方がない存在なのではないかと、ひしひしと感じる毎日だ。世の中にとって、そして宮中にとっても、自分は必要のない人間だととことん落ち込んでいく。

 なぜ生まれてきてしまったのかとさえ思うこともあり、また時には世の中が自分を必要としないのなら自分も世の中に背を向けてやろうという気にもなる。


 しかし、彼の心情とは全く無関係の様相を呈しながらも、季節は勝手に移ろいゆく。冬はますます深まっていき、どこまでも果てしなく寒くなっていくようだ。やはり自分は流れの外に置かれていると、つくづくと感じる業平だった。

 時には昼でも、格子を上げないこともあった。もう何十日も、彼は日光というものを浴びていない。家司や侍女たちとも、必要最低限の会話しか交わさなくなった。

 毎日を行者のように無言で、薄暗い部屋の奥に業平は座っている。昼頃起きては食事をし、そのまま何もせずに一日を過ごす。

 時には書見もするが、そのまま横になってしまうことも多い。気が向いた時だけ格子を上げさせて庭も見ても、それで何かのおもしろみを感じるわけでもない。風情のない庭である。

 夕方に食事が運ばれても、給仕の侍女は心得ていて、必要以外のことで主に声をかけることもない。その後は、酒だけが友だ。

 ここ最近は、歌すら詠む気がしない。そのような気にならないだ。ただ何となく存在し、何となく同じような毎日が過ぎていくだけだ。外出もしないし、訪問客が来ても会うことはない。もっとも、訪問客自体がめったに来ない。

 室内の調度は母の喪中ということで、鈍色にびいろに統一されている。それがまた気が滅入る一因でもあった。彼自身もまだ喪服を着ている。それは世の常で、宮中の出仕がそれで妨げられるわけではない。だが彼はもとどりが結えない。国経たちに切られて以来、彼の髪はまだ伸びていない。いわば女童の尼そぎのようなおかっぱ頭の状態で、これでは冠をかぶって出仕などできるはずがない。

 だいいち彼は服解中で官職がなく、宮中へ行っても行き場もなければ仕事もない。服解は形式上のもので、そろそろ呼び出されて復任の沙汰が言い渡される頃だが、その気配も全くない。

 しかし業平は、それでいいと思っていた。宮廷という閉ざされた社会の持ち駒の一つに心までがなりきってしまうのは真っ平ごめんだった。

 自分は宮中で飼われている家畜=いわゆる宮畜ではない。働く犬ではなく人間なんだ。そう思うと少しは嬉しい気もするが、果たしてこんな生活で本当に人間なのかとさえ思ってしまう。

 そのまま貞観四年の暦の上だけの春を迎えたが、季節はまだ寒さの真っ只中であった。


 春の除目じもくでも、一向に業平には声がかからなかった。

 ただ乳母子めのとごで今はこの屋敷の政所を預けている忠親が伝えた情報では、兄の行平が信濃守のポストを手に入れ、受領ずりょうとしてすでに下って行ったという。

 国司というのは身分は高いとはいえないが、受領として下れば莫大な富を得て戻ることになる。兄は業平とは母が違うから今は喪中ではない。

 兄め、地位から財力へと野望の鉾先を変えたのかな――業平はそう思うが、その両方ともが彼にとって無縁のものだった。だから彼は、苦笑するだけだった。しかしどんな名目にせよ、都を離れる兄が羨ましかった。

 兄はとうに出発したはずだ。もちろん、業平のもとへ何の挨拶もない。それは当然で、今や業平は落ち込みきっている。母の死もそうだが、あんなに恋い焦がれた姫との仲が完全に断ち切られた。もう、二度と会えまい。

 業平自身は自分を悲劇の主人公にして落ち込んでいればいい。だが、世間が彼を見る目は違っているはずだ。一介の殿上人の分際で、こともあろうに摂政太政大臣家の養女で将来の后がねの姫をしつこく追いまわし、付きまとってまとわり付いた挙げ句、拉致したのである。

 立派な犯罪だ。それなのに、ことが公にもならず律による刑部の断で処罰もされないのは、この事件を公表すると姫の将来に傷がつくと太政大臣良房が判断したからであろう。

 だから髻を切られ、官職を失っただけで済んだ。しかし、そのような犯罪者の弟のもとへはあの兄が寄り付くはずもなく、絶縁状が届けられていないだけでもましだった。


 業平にとって気がかりなのは、二人の妻だった。

 ただ、紀家の妻の方は自分の息子の母親であるというだけの存在だ。本当に気がかりなのはその父で業平の舅である紀有常の方だった。妻よりもむしろ意気投合し、人のいいこの舅がいたので紀家にも出入りしていたのである。有常の方も自分に男子がなく、また男兄弟もないので、業平を本当の息子か弟のように思っていたようだ。

 結婚は別に法的なものではないから、妻の家に三年以上も通わなくなったら離婚ということになる。だが、業平は紀家と、少なくともあの舅とは縁を切りたくはなかった。

 また息子がいる以上それもまたかすがいとなって、縁が全く切れてしまうはずはなかった。それでも業平は、今の状況ではとても紀家を訪ねる気にはなれなかった。

 もう一人の妻、すなわち右大臣良相の娘の直子だが、はじめはその兄の常行が例の事件をどう思っているかと思うと、業平はその存在を思い出したくもなかった。心の中で触れるのが恐かったのである。

 それに、あの情報通の妻だ。事件のことはとうに知っていよう。おそらくは自分を軽蔑しているだろうと思うと、業平は顔向けすらできないという心境になった。

 ところがしばらくすると常行からたびたび慰問のふみが来るようになり、そこに妹が待っているという旨が書かれてあったりもした。何しろ常行の妹――業平の妻は業平が拉致した太政大臣の養女の高子とは従妹いとこである。ただ、父親同士が兄弟でありながらも政敵であるということが、少々状況を楽観視できる要素ではあった。

 それでも業平は、腰を上げようとはしなかった。直子が嫌いなのではない。直子はすべてを彼に委ねきっている。紀家の妻とは違い、あくまでも謙虚だ。それを思うと憐れにもなり、またいとおしくもなる。

 だが、今はそれどころではないというのが現状だった。


 ところがある日、とうとう常行の方から業平邸を訪ねてきた。基本的に訪問客とは会わないことにしていた業平だが、この男の場合はそうはいかない。職を失った今はもはや職場の上司ではないが、年下でも義理の兄であることは変わらない。

 慌ただしく格子を上げさせ、ようやく客人を迎え入れる準備ができた直後に常行は入ってきた。

「いやあ、将監殿」

 今でも常行は、業平をこのように官職で呼んだ。平服での来訪だった。

 この上機嫌な男盛りの若者の前で、業平は取り澄ました顔でいた。いくら慰問の文をたびたびくれたといっても、やはり面と向かうと、自分のことを内心はどう思っているのかについて一抹の不安がある。さらにはその妹の自分の妻が、自分をどう思っているのかも心配である。

 業平は常行を、一応は上座に据えた。

「将監殿、春たけなわですぞ。このようにお屋敷の中でくすぶっておられては……」

 それでも業平はにこりともせず、黙ってうなずいた。常行はまっすぐに業平の背後の庭に眼を向け、それとは垂直に業平は横向きに座っていた。

「お気持ちは分かるが、そうふさぎ込まれることもござるまい。実はわが父は」

 常行は声を落とした。

「父の右大臣は、昨年の将監殿のなされたことを、ひそかにもろ手を打ってほめ称えておる」

 この言葉は意外だった。自分は世間全体の顰蹙をかったとばかり思っていた業平である。しかし、それを歓迎する人もいたのだ。自分が盗んだ姫の父親の政敵なら、あるいはそうかもしれない。その対立はどちらが自分の娘を入内させるかという後宮争いで、つまり業平は常行の父にとって敵である相手の持ち駒をつぶそうとしたことになる。

 常行の本心は知ることができた。しかし、業平は嬉しくはなかった。彼にとって、そのような政治的なことはどうでもいい。ただひたむきに高子に恋をして、その正直な心の発露として高子を盗み出したのだ。そして今や、その恋は断たれた。だから何も答えず、ただ黙って目をそむけていた。

 そのうちに、急に話題が変わった。

「妹が、淋しがっておりますぞ」

 そうは言われても、やはり今も妻には顔向けできないと業平は思っている。しかし、そのような気にはなれないと言ったところで、義兄は理解はしてくれないだろう。ただ、右大臣家の中で自分は疎まれてはいないことだけは分かった。

「時に将監殿、将監殿はこのたび五位に復されてござる」

「え?」

 業平は驚きのあまり、やっと顔をあげて常行を見た。

「しかも、従五位上への叙位でしてな」

「従五位上?」

 復されたというどころか、六位に落とされる前の従五位下よりも一つ昇進したことになる。

「今日は、そのことをお知らせに参ったわけで」

「従五位上」

 と、もう一度業平はつぶやいた。これで地下じげではなく、再び殿上人となるための資格を業平は得た。

「復任も近いでしょうな」

 常行はしたり顔で、笑んだままうなずいている。

 その裏は丸見えだ。業平の叙位はおそらく太政大臣サイドの猛反対を押し切って、常行の父の右大臣が推し進めてくれたものだろう。自分にはまぎれもなく、右大臣家の後押しがついている。

 しかし、それも少しも嬉しくはない。彼が兄の行平のタイプの人間なら、身に余る光栄と感じるであろうが……

「いろいろと恐れ入る」

 業平はそう言って、とにかく頭は下げておいた。


 その後、朝廷からの正式な使者も来た。それでも業平は、宮中に出仕しようとはしなかった。口実はある。まだ髪が伸びきっておらず、髻を結えないということだ。

 彼はその後も外出しようとはせず、右大臣家の西三条邸にも行こうとはしなかった。本来ならすぐ右大臣のもとに駆けつけて慶申よろこびもうしをし、馬や絹などの進物をするという礼を尽くすのが本筋だが、業平はそのようなことも全くしなかったのである。ましてや宮中になど行きたくもなかった。

 宮中に行くどころか全く方向の違う考えが、実はこの頃から彼の頭の中に生じはじめていたのである。

 その考えは春が進むにつれ、ますます彼の中で大きくなりつつあった。自邸に閉じ困ったままの生活にも、いいかげん息が詰まりそうになっていた業平だった。

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