第3話

 このまま手ぶらで母のところへ行っても仕方がない。

 そこで業平は、とりあえず自邸に戻ることにした。のこのこと捕らえられに帰るようなものだが、姫が死んだ以上はもうどうなってもいいという感じだ。

 何もかもが後悔の中だった。なぜあそこで居眠りなどしたのか……魔がさしたとしか思えない。居眠りなどしていなければ、鬼に喰われるときの姫の悲鳴で助けられたかもしれない。

 もっともあの激しい雷雨だ。雷の音に、悲鳴はかき消されていた可能性もある。

 そんなことを考えながらも、自邸に着いた。とにかく疲れた。今は横になりたい。そう思って門を入った途端、業平は異変に気がついた。

 門の中は検非違使けびいしの役人であふれていた。それが業平をさっと囲んだ。そして、恐るおそる馬から下りた業平の目の前に、歩み寄ってきた二人の若者がいた。国経と基経だ。まだ二十代の基経が、いきなり業平の胸座むなぐらをつかむ。

「貴様ーッ!」

 鉄拳が飛んだ。ただ呆然としていた業平は、いきなりそれをくらって倒れた。

「立てい!」

 また胸座をつかまれて引っ張り起こされ、もう一発見舞われた。

「待ってくれ。高子殿は……」

「人の妹の実名を、気安く呼ぶな!」

 今度は倒れている業平の脇腹に、蹴りが入った。業平は苦痛にうなった。

「鬼が……鬼が……」

「鬼ィ?」

 そのとき基経は、笑みさえ浮かべていた。わきで国経も、薄ら笑いを見せている。

「いい年をして、恥を知れ!」

「しかし、その姫が、鬼に……」

 基経の笑みは、ついに声を上げての笑いに変わった。

「妹は染殿におるわい。鬼とはなあ、俺たちだよ。ではなくてだよ。おまえが小屋の外で居眠りしている間に、取り返しただけのことだ!」

 業平は、どのように反応していいのか分からなかった。頭の中が、真っ白となった。

「こうしてくれる」

 今度は国経が、業平の衿を引き上げた。冠が弾き飛ばされる。そうしてあらわになったもとどりを、国経は小刀でばっさりと切った。パラリと髪が広がり、業平は散切り頭となった。


 しばらくは何も考えたくなかった。考える力もなかった。姫は死んではいなかったという事実がせめてもの心の慰めだったが、姫への恋はこれですべてが終わりを告げた。もう二度と会えない。

 その上、業平は出仕できなくなった。何しろ散切り頭では、冠をかぶることもできない。冠がかぶれなければ、出仕は無理だ。それどころか、外出さえもできない。

 ずっと自邸にこもりきりで、業平は何もすることなく日々を送っていた。自分のしたことに言いわけはしたくなかったし、今さら悔やんでも始まらないと、彼はむしろ淡々とした気持ちでいた。

 

  往昔いにしへの しづのをだまき 繰り返し

    昔を今になすよしもがな


 だが、過ぎ去った時間は永遠に戻らない。

 業平は昼間の多くを、ただひたすら眠って過ごした。それだけが、現実からの逃避であった。母のもとへも、当分は行かれない。

 その母が、秋も終わりに近づいた頃に他界した。もはや何も考える力もなくなるほどに、業平は打ちのめされた。

 思えば昨年の暮れ、


  老いぬれば らぬ別れの ありといへば

    いよいよ見まく ほしき君かな


 そんな歌が母から届けられた。いつ死ぬか分からない身だから、とにかく会いたいと母は言ってきた。

 業平は父にとっては五男でも、母にとっては一人息子なのだ。

 ところがその頃の業平は姫のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったのである。

 

  世の中に らぬ別れの なくもがな

    千代もと祈る 人の子のため


 あの頃は本当に、母は千代も八千代も生き続けるはずで、避けられない別れである死別など当分ないと思っていた。だが、父が死に、そして今は母が死に、ついに業平は両親を失った。だがこの散切り頭では、葬儀に参列することもできまい。

 今の彼には、ただひたすら泣くことしかできなかった。これで母の喪ということで官職は服解ぶくげということになり、右近衛将監の地位も失う。服解は一応の形式で数ヵ月後には復任するものだが、業平はもう復任しなくてもよいと思っていた。

 自分にとって、そのような官職はいらない――そこまで考えたとき、ふと逆に、この世間にとって自分こそいらない人間なのではないかとまで思ってしまう業平であった。

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