第2章 東下り(あずまくだり)

第1話

 なにしろ全員が、初めての土地である。街道などはなく、道に迷いながらの旅であった。峠を何日もかかって越えた後、行く手に海のきらめきが見えた時、一同は馬上で胸をなでおろした。

 これで盗賊の心配も、少しは薄らぐと思われたからだ。彼らはすでに甲賀、伊賀の里を過ぎ、ようやく伊勢の海が見えるところにさしかかっていたのである。

「遠くに来ましたなあ」

 紀継則が馬上で、業平に話しかける。

「いや、まだ先は長い。ここはもはや東国だが、私が考えている東国というのはもっともっと先だよ」

 自然と業平はよくしゃべる。愛想もいい。もはや、都でくすぶっていた頃の彼ではなかった。

「間もなく尾張の国ですよ。大きな川を渡ったら、そこが尾張です」

「そうか、そなたがよく話していた尾張か」

 業平の次に饒舌になっていたのは、安倍貞行であった。

 尾張守も尾張介も、実は彼の一族である。そのつてで、業平たちも今夜は久しぶりにまともな邸宅に泊まれるかもしれない。なにしろ今までは泊まる豪族の屋敷を探すのが、旅そのもの以上に難事であった。

 まずはそれを探し、見つかっても一夜の宿としてくれるかどうかの交渉が待っている。業平たちには見返りになるようなものが何もないから困難であった。あとは皇孫であることの威を借りるしかない。だが、それがかなり効いた。

 それでも屋敷自体が見つからずに、行けども行けど山野や森林という日もあり、むしろその方が多かった。屋敷があってももぬけの殻であったり、主人不在ということで断られたりもした。庶民の民家はあっても、やはり彼の自尊心から床板のある建物に寝たかった。だが、現実は野宿する日も多かった。

 幸い、季節は夏である。寒さの心配はなく、夏といっても初夏なので蛇や狼、熊などの猛獣や毒虫の心配も、ないことはないがそれほどでもない。

 それでも一応野営のときは盛んに火を焚き、見張りが交代で起きていた。火を焚けば焚いたで山賊に警戒しなければならないが、山賊に襲われたところで盗られる物は何もないから、猛獣に対する用心の方が優先となった。

 そんな苦労も、尾張の国へ入れば、少しはやわらぐはずだ。しばらくは、道は海沿いに続く。海がよく晴れた空を反映して、青く光っている。その向こうには、岬が横たわる。

 生まれてはじめて見る海――今までは絵画でしか見たことがなかった海が、首をひねればはるばると見渡せる。その風景を、彼は今一人で見ていた。供の三人もいるが、本当に共に見たいという人が一緒にいないという意味で、彼は一人だった。

 愛想がよくなった業平ではあったが、時にはふさぎ込むこともある。今同じ馬上に姫がいたら……どんな会話をかわしただろうか。いかに感動を二人で分け合っただろうか……すべてが夢である。

 波は白いしぶきを見せ、音を立てて打ち寄せ、そして確実に自分が来た方へと返っていく。

 羨ましい……と業平は波を見て思った。この身は返るどころか、歩けば歩くほど都から遠ざかり、そしてどこへ行くのかあてもない。自ら捨ててきたはずの都なのに……


  いとどしく 過ぎ行く方の 恋しきに

    うらやましくも 返る波かな


 旅に出て初めての、業平の詠歌である。忠親が馬上ながら、必死でそれを書きとめていた。


 思った通り貞行のつてで、尾張では国府での歓待を受けた。だが、長居はできない。さらに東へ向かって旅は続く。ますます都から遠ざかる。

 生まれて初めて接する風景や初めの経験に、次第に都での生活が遠いものに感じられてくる業平であった。自分がすっかり別人になってしまったように感じられる。

 そして、あの出来事も遠い昔のことのように思われ、また冷静に振り返ることもできるようになった。結局は一時の熱病に犯されていたのではないかと思う。

 そして高子姫が業平の心を占拠していた割合が減るにつれ、どっと流れ込んでくるのが別れも告げずに置いてきてしまった妻の直子のことであった。かわいそうな残し方をしてきてしまったと思うにつけ、胸が苦しくなる。

 いますぐ取って返して、邪険に扱った詫びを入れたいとも思う。怨んでいるだろうか、ただただ悲しんでいるだろうか……

 ひどい夫だった。会いもしないで歌だけを残し、その返歌も聞かずに旅立ってきてしまったのである。何か取り返しのつかないことをしでかしてしまったような気にもなる。

 自分にはもったいない妻だったと業平は思う。だが、今さらそう思っても、ここから引き返すには遠くに来すぎてしまっていた。そのようなことは、供の者たちとは話題にできない。だからそれを考えている間だけ、業平は寡黙になってしまうのであった。

 ここからは道に迷うことはない。海と丘陵との間のわずかな平地を、海に沿って東に行けばいい。

 やがて彼らは、巨大な大河に出くわした。川幅は広くはないが広大な河川敷があり、その中を川は幾筋もの流れとなって蛇行している。そのそれぞれに小さな木の板の簡単な橋が架け渡してあり、橋は全部で八つあった。

「ここで休もう」

 業平のひと言で皆馬を止め、河原の木陰に腰を下ろした。腹も減っている。

 昨夜宿を借りた郡司の家人が彼らのために干飯ほしいいを持たせてくれていた。これを食べるには水がないとまずい。乾燥している飯を水につけて、戻して食べるのである。だから川のほとりで休むことにしたのだ。

「これはかきつばたですな」

 ちょうど背後の木の下で開きかけている花を見て、貞行が言った。ちょうど、その季節だ。その時、忠親が業平を見た。

「どうです、殿。また歌心を発揮なさっては」

「歌か……」

 ちょうどまた、直子のことを考えていた時だ。

「かきつばたを折り込めますか。それで旅の心を」

 できないとは言えない。歌はすぐに浮かんだ。

 

  唐衣 着つつ馴れにし 妻しあれば

    はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ


「おおっ!」

 三人が一斉に声をあげた。各句の最初の文字を縦読みすると「かきつばた」になる。

「何だか泣けてきましたよ」

 継則などは、本当に泣いていた。誰もが妻や子を都において、自分の供をしてくれているのだと業平は実感した。そこへ忠親が口をはさんだ。

「そんなに泣くと、涙で干飯がふやけてしまいますよ。水につけなくても」

 これには泣いていた継則をも含め、皆が笑った。笑いながらもそれぞれの目には、涙が浮かんでいた。

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