第5章 月やあらぬ

第1話

 季節は夏を迎えた。東五条邸の西ノ対は衛士がいなくなった代わりに、いつ行ってももぬけの殻のままとなった。

 姫が移った先は、すでに業平には分かっていた。姫は今、右大臣良相の西三条邸の東ノ対で、従姉の染殿の后――皇太后明子あきらけいことともに暮らしている。居場所が分かっていても、とても通っていけるようなところではない。

 同じ屋敷の西ノ対は業平の妻のいる所で、自分も「お帰りなさいまし」と迎えられる場所だ。しかも、姫がこの屋敷にいるということは、皮肉にも妻の直子なおいこの口から聞いたのだ。もちろん妻は、業平の姫に対する心の内など微塵も知りはしない。

 その頃、皇太后明子が本来の里である東五条邸に戻ったという情報を、業平は右大臣邸で得た。業平の心は騒ぐ。もしかしたら姫も、明子とともにあのもとの屋敷の西ノ対に戻ったことも十分に考えられる。だが、家人けにんに調べさせても、そのような気配はなさそうだった。

 西三条邸に残っているのなら、状況のまずさは変わらない。いくらこの屋敷は寝殿と対の屋がつながっておらず独立して建っているとしても、妻のいる屋敷の同じ敷地内にいる別の女のところに通うわけにはいくまい。


 業平の悶々とした心に呼応してか、この年の梅雨も長かった。五月以来、都にほとんど日は差していない。それが余計に業平の心を沈みこませてしまう。六月に至っては、それまで降り続いた雨がついに洪水となって都を襲った。


 明るい話もあった。ただし業平の身の上ではなくその兄にとっての話で、行平は播磨守から内匠頭たくみのかみになった。業平は右近衛将監に据え置かれたままで昇進の音沙汰はないし、本人もそれを望んではいなかった。今ある官職さえ、鬱陶しくなることもある。

 本来右近衛将監は六位の地下の官職であるが、業平の場合は先代の帝の五位の蔵人であり、今は蔵人からははずされているが五位の位階はそのままで、依然として殿上人であった。そのせいで面倒なことに、たびたび宮中の宿直とのいを命じられる。

 業平が宿直となったその夜も、雨が降っていた。清涼殿殿上の間には業平と、その義兄である常行の二人だけだった。帝はまだここにお住まいではない。ご幼少であらせられるので、皇太子時代と変わらず大内裏の陽明門外の東宮御在所においでだった。

 だからここの宿直も少なく、警護も手薄になっている。だから、本来なら考えられないことだが、彼ら二人は帝が内裏にお住まいではないという特異な時代にあって夜更けの清涼殿で杯を交わしていた。

「のう、将監殿」

 雨の音が屋根をうがつ。姫のことが頭をよぎってふと黙り込んでいた業平の顔をのぞきこむようにして、赤い顔の常行は語りかけてきた。

「あの五節の舞姫を覚えておいでか」

「え?」

 いきなりの常行からの話題の提起に、業平は全身の動きを止めた。

「覚えておいでであろう」

「はあ、いささか」

 本当はいささかどころの騒ぎではないが、常行は何も知らない。だから業平は、あえて狼狽の心を読み取られぬようにと、平静さを装おうとした。

 だが、そう努めるとなおさら、胸の鼓動が高鳴ってしまう。

「あの、我が従妹の姫はね、東宮御在所におる」

「え? 東宮に?」

そこが今は帝の御在所である。

「帝のおそば近くに仕えておいでだ。こうなると、伯父御の太政大臣殿の魂胆が丸見えではござらぬか」

 常行の顔は曇っていた。いつになくよくしゃべる。

「帝の御加冠の折にと、狙っておいででござろう。それが困るのだ。まろにとっても、まろが父にとっても……。父は、帝の添伏には我が妹をと考えておられるからな」

 つまりは太政大臣と右大臣との間の、兄弟による皇宮での覇権争いだ。

 だがそれ以上に業平にとって深刻だったのは、あの姫が太政大臣の目論見通りになると、姫は后がねとなり手の届かない人になってしまう。

「我が妹が入内となれば、まろも婿である将監殿も帝の義理の兄弟となれますぞ」

「困りますな。あの五節の姫に入内されては、本当に困りますな」

 業平はわざと穏やかに言ったが、目は真剣だった。

 常行とその父の右大臣が考えている常行の妹の入内が実現すれば、その妹とは自分の妻の妹でもあるわけだから、常行の言うとおり自分は帝の身内となる。しかしそのようなことは、業平にはどうでもいい。彼の言わんとする真意を常行は知らないので、

「で、ござろう」

 と、軽く受けた。

「なに、心配は無用だ。我が伯母君の太皇太后宮は、同じ兄弟はらからでもご自分の兄の太政大臣より弟である我が父右大臣と入魂じっこんでござる」

「それはお心強い」

 ふと業平は、ほかのことを考えた。

 五節の姫の入内を阻止するために、目も前の若者はもっとすごいことを考えているのではないかということだ。それを思うと、全身が凍りそうになった。もしかしてこの若者は、あの五節の姫が入内できなくなるよう、その前に自分があの姫に手をつけてしまおうとしているのではなかろうか。

 そうなれば姫の入内は不可能となり、妹の入内が成就する。常行なら、あの姫との年齢さも業平ほどではない。

 それはもっと困る……と、業平は切実に思った。

 常行はもう何も言わず、酒を口に運んでいる。その口元に、薄ら笑いが浮かんでいるように業平の目には見えた。この一族のものならやりかねないことである。

 ――だったら俺が……と、業平は言いたかった。常行は別にあの姫がほしいわけではなく、ただ姫の入内を阻止するために姫を自分のものにしようとしている。そういう目的ならば姫の相手は常行ではなく自分でもいいはずだし、常行も協力してくれるだろうと、業平は思った。要は姫の入内を阻止できればいいのだから……。

 これは妙案で、状況が許すのならば業平はすぐにでもこれを提案していただろう……目の前の常行が自分の妻の兄でさえなければ……口惜しいが業平はこの案を口にすることなく引っ込めた。

 翌日、業平が宮中を退出した時も、雨は降り続いていた。

 先手必勝だとも思うが、業平は本来が歌詠みであって策士ではない。政治的陰謀にも嫌悪感を抱きつづけてきた彼だ。いい手立てなど、思い浮かぶはずもなかった。


 本格的な夏を迎え、そのまま暦の上でだけ秋を迎えた頃、かなり大きな地震が都を襲った。そのあとも余震が続き、一ヶ月近くも小さいながら揺れることが多かった。さらには大地を照らすほどの流星すら、夜の都の上空を北東から西南の方角へと飛行した。

 そのような異常な状況だけに、宿直として業平が宮中に召される日も多かった。

 姫は大内裏の東に隣接する東宮御在所にいる。だからといって、どうともなるわけではない。忍んで行こうにもそこは今は帝の御在所となっているから、畏れ多いこと限りない。ほかの侍女や蔵人とて、多数いるはずだ。

 近くにいて、ままならぬ恋……恋、このような言葉と再び縁があろうとは、業平は思わなかった。

 しかし、何をどうすることもできないである。もし常行が前に言っていた通りに太皇太后の順子にでも取り入ったら……

 ただ、ひとつだけの安心できるのは、姫が皇太后明子の庇護のもとにあることだ。明子は太政大臣良房の実の娘だから、その自分の庇護下にある姫を父の政敵右大臣の息子の常行の相手として許すはずはない。

 だが、業平自身の状況はもっと厳しい。年齢差もある。この恋を捨て去ることができたら、どんなに楽かとも思う。しかし、それはできそうもない。

 もし自分が姫を手に入れることができたら……と、時には楽観的な妄想も業平はする。少なくともその時間だけは楽しかった。だが、常行の反応も気になる。自分の妹婿に狙っている姫を取られたときの彼の気持ちはどうだろうと考える。

 しかしそんなことを考えていたらきりがない。一か八か当たって砕けるしかないのではと、業平は思った。

 砕けても自分は、何も失うものはない。砕けてあきらめがついて、この辛い恋から解放されればそれもいい。万が一手に入れば、これまでの二人の妻以上の愛妻となろう。

 それにしても、つてがなさすぎる。それだけに、自ら当たるしかなかった。


 業平はここのところ、人が変わったようによく出仕した。しかし実は、宮中の動きをうかがうためであった。そして機会の到来を待ち続けた。

 まずは、帝が御在所とは別の所へお出ましになり、御在所が手薄になることだ。だがその機会は、なかなか訪れなかった。その間に、業平の妻の従妹である恬子内親王が鴨川でのみそぎを終え、野の宮に入った。また、兄の行平が左京大夫となった。しかし、業平の身には何の変わりもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る