第2話

 月の明るい夜だった。しかし寒い。道端の所々には、まだ先日の大雪の名残が詰まれている。人目に付きそうな大路の東洞院は避け、そんな高倉小路をを業平は供二人だけを連れて馬で下がっていった。胸は高鳴っているが、あとのことは考えられない。むしろ、わざと考えないことにしていた。

 灯火をあまり照らすと盗賊などへの目印になってしまうのでなるべく抑え、月の光のみを頼りにして進んだ。やがて小路の右側に、東五条邸の築地塀ついじべいが見えてきた。

「ここまででよい」

 業平は馬を下り、それを従者に託した。

「今宵は遊べ」

 地に砂金の袋を投げてやる。従者は満面に笑みを浮かべ、それを拾った。この界隈は遊女の宿も多い。下賎は下賎の楽しみをすればよいと馬を渡すと、業平は一人徒歩で東五条邸へと向かった。

 まさか門からは入れまい。ところが、どんな高貴な貴人の屋敷とて、築地の破れはあるものだ。屋敷が大きければ大きいほど手入れが行き届かず、またその破れが多数あっても目立たない。もちろん、そこから侵入してもだ。屋敷の政所の家司とは、封建的主従関係とは違う。たとえ自らが仕える屋敷の築地に破れがあっても、命じられない限りは何もしない。

 こことて例外ではなく、築地の破れは容易に見つかった。月が明るいだけに、行動に不自由はない。しかしその分、人に見られる危険性も高い。屋敷の敷地内に入った業平は、息を押し殺して対の屋の簀子の下まで進んだ。当然のこと、格子はすべて下ろされている。ただ、中から微かに明かりが漏れているのは分かった。

 彼は一つ、咳払いをした。妻戸が静かに、ほんの少しだけ開くまで、結構時間がかかった。

「何者でおじゃる!?」

 年増の女の声だ。業平は、もう一つ咳払いをしてから言った。

「皇孫在原朝臣、夜這いて参りました」

 つても何もなく、ふみすら届けずにきた。ここで右近将監などと名乗ったら、妻戸は閉じられるに決まっている。

「おお、先日のひじきの」

 わずかに開いた戸の向こうから、同じ年増の女の声だけがした。

「はい」

 それだけで、業平は嬉しかった。だから声も弾んだ。

「姫君よりのお返しを、日ごろ待ちつづけておりました。しかし、待ちかねて今宵は……」

 沈黙があった。胸が苦しい。だいぶたってから、また年増の女の声だ。

「いずれあらためまして。内司の君への婿殿へは、礼を尽くしましょうぞ。今は何分、夜分ゆえ……」

「今宵は、右大臣家の婿として参ったのではござらぬ。ひとりの男として……」

 また、沈黙があった。業平の胸は、苦しいくらいに締め付けられた。しかしもう、後戻りはできない。それで、意を決して言った。

「姫君にお逢わせ下さい。いや、せめて物越しにでもお言葉を! 簀子をお許し頂けませぬか」

「おひかえあれ。ここは太皇太后宮の御所にておわしますぞ」

 きつい言葉だった。だが、すぐに同じ人の言葉が、口調が変わって続いた。

「しばし、お待ちあれ」

 妻戸は閉じられた。長い時間が経過した。寒い。しかし、それは体だけで、心は火傷をしそうに熱かった。

 しばらくして、妻戸が少し開かれた。瞬間的に業平はその方を見た。

「姫君はお体がすぐれず、今宵は伏せっておいでになりますれば」

「では、また明日にでも。明日はぜひ、お声を聞かせてくだされ」

 返事も聞かずに、業平は踵を返した。「もう来て下さいますな」と言われるのが恐かったからである。

 いずれにせよ、計画は一歩進んだ。入ってきた時と同じ築地の破れから路上に出たとき、業平の心は達成感と充実感に満たされていた。今宵は姫に会うことはできなかったが、はじめからそううまくいくはずはないと割り切っていただけに、取り次ぎの女房と話ができただけでも思いがけない前進だった。あとは足繁く通って、押しの一手があるだけだ。今日は歌も詠めなかったが、歌で押していくてもある。

 ――歌とは純粋な心の発露で、何かのためという目的があってはならない……今までの業平ならそう思っていたが、今はもうどうでもよい。

 一人で月明かりの高倉小路を、灯火もつけずに歩いた。歩きながらも、彼の頭の中には豊明の節会のときの姫の顔が、こびりついて離れなかった。

 あの時は見ていただけだが、今日は間接的ではあったが接近した。とにかくいとしい。そのあとの気持ちは分からない。体が欲しいとも思わないし、妻にしたいとまでも考えていない。ただあの顔が笑顔になって自分の胸に飛び込んできてくれたらと、まるで少年のような想いが、寒空の下の彼の心を春の花園にしていた。


 一日をただボーっとして、彼は過ごした。夜が来るのが待ち遠しい。しかし、恐くもある。そしてまた、苦笑ももれる。恋愛を自分たちの専売特許のように思っている若者たちよ――この年になったおじさんだって、君たちと同じ想いになることがあるのだよと、業平は心の中でつぶやいていた。対象も、若者が恋の対象とするのと同じ年代の少女だ。

 夜になった。今度は供もつれず、一人馬で行く。昨夜同様、月がきれいだ。

 東五条邸に着いた。昨日と同じ築地の破れから中に入り、馬は入ってすぐの木につないでおいた。今夜も息を殺して、静かに西の対に近づく。そして、また咳払いをする。しかし、建物に変化はない。業平は、何度も咳をしてみせた。それでも反応はなかった。しかし下ろされた格子の向こうからは、明らかに明かりが漏れている。

「在原朝臣、参りましてございます」

 焦った業平は、小声で呼んでみた。それでも反応はなかった。ただ、少し慌てたような様子の衣擦れの音が、微かに聞こえてきた。

 こうなったら、粘りと根気しかなかった。明らかに自分は受け入れられていない。彼女は間違いなく中にいる。高貴な姫がそう安々と居所を変えるはずがない。

 業平は、簀子の下の地面に座り込んだ。目の前の空に月がある。それをじっと見つめた。そしてまた、五節の舞の時の姫の顔を思い出す。その姫が今、今自分が背にして座っている建物の中に、確実にその姫はいる。

 寝ているのか起きているのかも分からない。距離的には近くにいても、業平と姫の間は、格子、御簾、几帳などで隔てられている。塗籠の中で寝ているのなら、壁までもが二人の間の遮蔽物だ。それでも業平は、胸が高鳴っていた。遮蔽物があっても、距離的に近くにいる……それだけで満たされていた。ゆっくりと位置を変えていく月を見ながら、冷たい空気とは別に、心の中が暖かくなっていくのを感じた。

 彼女への想いはますます募り、また胸が苦しくなる。彼女がいる部屋を支えているのがこの柱なのかと思うと、それに触れるだけでも興奮する。これではまるで、はじめて恋をする若者そのものだなと、業平の中で年齢相応に冷めている部分が苦笑していた。

 月はゆっくりと、移動していく。その間に何度も咳をして、自分の存在を主張した。そのうちに、格子の中の明かりも消えたようだった。

「丑ーッ、二ツーッ!」

 拍子木の音ともに、若者の声がする。それが、こちらへ近づいてくるようだ。まずいと業平は思った。今夜はこれで、引き揚げ時のようだ。だが、これであきらめたわけではない。まだ明日の夜がある。


 その明日の夜になったとき、まだ東五条邸に近づく前から異変に気がついた。篝火が塀の外でたかれている。そして昨日まで忍び込むのに通っていた築地の破れの前で、複数の衛士えじが警護していた。

 やられた――と、業平は思った。衛士たちが警護している相手は、自分にほかあるまい。それでもあきらめきれずに道をはずして迂回しつつも、業平は屋敷の周囲を巡った。築地の破れは一ヶ所ではないだろうと思ったからだ。

 ところが東西南北のどの面にも、篝火とともに衛士はいた。すべての築地の破れを護っているらしい。あの年増の侍女が太皇太后か太政大臣に、自分の来訪を告げ口したに違いないと、業平は馬上で何度も舌を鳴らした。最悪の事態として、姫の兄の国経や基経の知るところとなった可能性もある。

 しかし、ここで引き下がるわけはいかない。屋敷の遠くで馬から下り、様子をうかがった。夜も更けてくれば、衛士たちも退散するかもしれないと業平は思ったのだ。そのあとで、忍んでいけばいい。彼の目的は、何も殿上に上がりこんで姫と肉体的に結ばれることではない。たとえ会えなくても自分の来訪をアピールし、それの積み重ねで彼女の心を開こうという作戦だ。

 業平は小路の上に座り込んだ。寒い。しかし、ここが根性の見せ所だ。衛士はいつまでたっても退散の様子がなく、動きがあったと思えばほかの者との交代だった。ところが業平は、ほかのものと交代することはできない。そのうち空も白んできた。今日は、彼のほうが退散するしかなさそうだった。


 翌日も状況は変わらなかった。そしてさらに翌日も、同じ状況だった。業平は一晩中、東五条邸を遠くに見る小路で様子をうかがっているのだから、自然に朝になって帰ったら寝て夕方起きる生活になってしまった。

 しばらく我慢して、ほとぼりが冷めたら警護もやめるのではないかと思ったので、五日間をあけて行ってみた。だが、状況は同じであった。そんな時にまた、業平の頭に歌が浮かんだ。


  人知れぬ 我が通ひ路の 関守は

    夜夜よひよひごとに うちも寝ななん


 関守……衛士よ、寝てしまってくれ――そんな心の叫びが歌となって現れた。こうなったらこの心の叫びでもって、彼女の心を動かすしかない。だが、この歌を、彼女に届けるすべは見つかりそうもなかった。

 そこで業平は、昼間に東五条の屋敷に行ってみた。そして、昼は衛士がいないことに気がついた。昼間は宮中に出仕しているという官人の常識を覆し、近衛府での勤務もほとんど怠っているという特権を生かしての、業平の昼間の来訪だった。

 昼と夜が逆転し、昼寝て夜起きている生活になってしまった業平にとって、昼間は普段なら寝ている時間だ。だから眠い目をこすって、業平は東五条邸に向かった。夜は強いが、昼はからきしだめになっている。

 昼間は明るいだけに警護はなく、難なく入り込んで西ノ対に近づくことができた。格子は上げられている。そこへ例の歌を庭から御簾の中へと投げ入れ、反応は見ずにその場をあとにした。昼間だけに、もたもたしていたら誰が来るか分からない。反応は、自邸に使いが来るはずだ。

 ところが、数日たっても梨のつぶてだった。


 そのうち、年が明けた。

 貞観二年――朝賀は雨のため中止となった。それでも業平は正月の行事に借り出され、さすがに逃げることはできなかった。

 一連の行事も終わって落ち着いたのは、新しい年が明けてから十日もたってからだった。東五条邸が気になって任務どころではない。それに今まで、昼夜が逆転した生活をしていた業平だ。生活のリズムを変えるのが大変だった。それも一段落ついて、ずっと悶々としていた気持ちをいよいよ晴らすためにも、早速東五条邸に行ってみた。

 夜であったが、もはや衛士はいなかった。幸運を感じたのと、予想が当たったとの思いが交差した。今日も難なく庭に入り込む。本当に久しぶりだ。前と同じように、息を殺してゆっくりと西ノ対に近づいていく。

 ところが、何かがおかしかった。夜なのに格子は上がっている。そのくせ、御簾の中に灯火はない。春とはいえ、格子を上げたまま寝静まる人はいない。不審に思った業平は、一つ咳払いをしてみた。何の反応もなかった。

 思い切って、簀子に上がってみた。そして、妻戸をも開けてみる。そこに人の気配はなかった。半月よりも少しふくらんだ月の光が入り込み、そこが全くの無人であることを照らし出していた。

 業平は簀子に出て、力なく座り込んで肩を落とした。

 とうとう恐れていた事態が起こった。しばらく来ないうちに、姫はよそに移されてしまったのだ。太皇太后にか、あるいは皇太后にか、もしくは養父の太政大臣かそれとも兄の国経や基経にか……

 ただ、何のためにという問いには、しっかりとした答えが見出せる。それは自分に対してのことだと業平は悔やまれた。

 月の光を浴びながら、しばらく呆然と業平は座っていた。これからどうしたらいいのか、すぐには思い浮かばない。ただ長い時間をかけて、このまま引き下がるわけにはいかないという決意にたどり着いた。

 月の光の中で、梅のつぼみもふくらみかけているのが見えた。

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