第2話

 そして、とうとう機会が訪れたのは、九月になってからだった。重陽ちょうようの節句は地震のため中止となり、右近の陣で群臣に菊酒がふるまわれることになった。

 この時だ、と業平は思った。

 右近衛将監として欠勤は許されぬ日に触穢と偽って欠勤の符を提出した業平だったが、その当日に実は大内裏のそばにいた。そして、帝が内裏へと出御されてお留守の御在所へと、こっそりと近づきつつあった。

 今日の警備は、ほとんどが右近の陣にまわっている。業平は右近衛将監だ。御在所に近づいても怪しまれない。堂々と門から入ることができる。それに彼は、五位の殿上人でもある。その特権で、御在所に上がることも許される。

 彼は夜ではなく、白昼堂々と忍んで行った。これとて、怪しまれないための手立ての一つでもある。

 まずは庭から殿舎をうかがう。女たちも晴れの日に心を許してか、ずいぶんと端近に出ていた。業平は御在所の東宮直曹のまわりをひとまわりした。裏手がちょうど、清涼殿でいう台盤所のような機能を持つ所だと思われる。

 格子は上半分だけを外側に上げる貴人の邸宅のような半蔀はじとみではなく、しとみ全部が内側に上げられ、御簾だけが下がっていた。

 風が吹いた。御簾が上がる。そこにはまぎれもなく、あの舞姫がいるのが見えた。しかも、部屋の中は彼女一人だった。またとない機会だ。

 業平はくつを脱いで殿上に上がり、簀子を歩いて姫のいる部屋に近づいた。その時の彼の胸は苦しいばかりに暴れ、呼吸すら困難であった。今にもその場に倒れそうだ。

 ついに、姫の部屋の前に来た。部屋と簀子との間は壁もなく、戸もない。ただ御簾が下がっているだけだ。その前に彼は畏まった。

 まずは一つ、咳払いをした。中で人が動く気配がする。御簾の内と外では、昼間なら中から外を見る方がよく見える。中の女は驚いているだろう。朝服が動きやすかった時代だ。女とてまだ重たい女房装束を着しているわけではなく、唐風の礼服らいふくだ。従ってたいした衣擦れの音はしないので、互いに気配で存在を感じ合うしかない。

 御簾の中からは、沈黙だけが流れてきた。業平は意を決した。

右近衛将監従五位下じゅごいのげ在原朝臣にてございまする」

 返事はなかった。もしかして中には誰もいないのではないかという気さえした。しかし、そのようなはずはない。

「前に、ひじきを……」

 やはり何も、返事はなかった。

「再三夜分におうかがいしましたが、今日こそは人づてではなくせめて物越しからでもお声をお聞かせください」

 返事がないという状況に変わりはなかったが、業平の心は突然熱くなった。このまま、突き進むしかない。

「御免!」

 ひと声かけて、業平は御簾をめくった。女はいた。慌てて顔を領巾ひれで隠し、几帳の向こうに入ろうとした。その袖を業平はつかんだ。

「あなたがいけないのです。お返事を下さらないから。しかし、これ以上の狼藉は致しません。せめて、お顔をお見せください。お声をお聞かせください」

「放して。放してください。人が参ります。見られます」

 はじめて聞く姫の声だった。その声に業平は一瞬だけ恍惚感を味わった後すぐに興奮し、手を放すどころか几帳の向こうに入りかけた姫の身を力いっぱい引いた。そしてその顔を、自分の方に向けた。

 まぎれもなく豊明の節会の日に見た舞姫の顔がそこにあった。姫は怯えきって、小刻みに震えている。

「乱暴は致しません。私の歌はご覧になっていただけたでしょう。どうかこの胸のうちを……」

 太政大臣の養女とはいっても、お高くとまって業平を下郎扱いしたりはしない。

「お許し……下さい……」

 か細いその声は、懇願しているようでもあった。伏せられた瞳には、涙すら浮かんでいた。

 姫の弱々しいしおらしさにいとおしいという思いが倍増した一方で、業平は申し訳ないことをしてしまったとも感じた。さらには無言の圧力をも感じて、業平は手を放してしまった。

 姫は素早く几帳の陰に隠れ、その下半身を巻いていただけがその外に出ていた。

 業平は無我夢中になっていてすぐには気づかなかったことに急に気づき、ただ唖然とした。彼女の背子からぎぬは紅の綾織物――すなわち禁色であった。これは帝の勅許がないと着用は許されないはずだ。しかし帝はまだ御年十歳で、しかも姫はまだ帝のもとに入内したわけではない。それが、禁色を許されている……それは養父の太政大臣良房の力以外の何ものでもないはずだ。

 それが、業平をして手を放させた無言の圧力だったのかもしれない。つまり業平が、禁色に気がついたときに圧力は生じた。あどけない十代の姫の背後には、太政大臣良房という巨大な存在があるのである。だから業平は、思わず臆してしまった。

 しかし、だからといって、今までの心の暴走は止まるものではない。すると几帳の向こうから、姫は言った。

「見苦しうございます。御身おんみも滅びましょうぞ。このようなことをなさっては……。お願いですから、もうおやめください」

 弱々しい懇願ではあったが、業平ははっとした。そこにはことわりがあった。禁色を許された姫にこれ以上言い寄れば、確かに身の破滅があるかもしれない。

 時の太政大臣が后がねとして秘蔵してきた養女なのだ。彼女自身、若いながらも十分それを意識しているらしい。

 業平の背中に、さっと冷たいものが走った。そんな理性よりも情愛の炎は強かったが、わずかな理性のまき返しがあって業平は動きを止めた。

 だが、あきらめたわけではない。他日を期してということである。

 しかし、ただでひき下がるわけにはいかない。三十六の男が十代の娘に諭されて引き下がったとあっては、どうにもばつが悪い。そんな気持ちを告げてからでなければ、帰るに帰れない。

 業平は歌を詠んだ。得意とする武器だ。歌は頭の中で、たちどころに組み立てられた。自分の正直な気持ちを、その三十一文字にこめた。

 

  思ふには 忍ぶることぞ 負けにける 

    逢ふにし替へば さもあらばあれ


 吟じても、返事はなかった。そこでちょうど部屋の中にあった文机の紙にこの歌を書き付けて、几帳の向こうに差し出した。

 そのまま御簾を上げて、業平は簀子へと出た。ちょうど向こうから侍女が二人ばかり歩いてきて業平の姿を見て驚いていたが、業平の気持ちは歌のとおりで、さもあらばあれ――ええい、どうなってもよい……という状況だった。

 呆気にとられている侍女たちを無視して平然とすれ違い、業平は足早に沓を脱いだ所まで歩いていった。

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