第22話 次があったら

 そして、今日も主人は家を出て行く。会社へ出勤するために。

 私はその後姿を見送る。

「行ってきます。」

 低く呟いた夫はそのまま玄関のドアを開いた。

「気を付けてね。」

 そう告げて、施錠した。

 梨華は小さくため息をつく。

 エプロンの裾で軽く両手を拭い、キッチンへ戻ろうとした途端、玄関の鍵があいた。

 大きな音を立てて扉が開く。

 それにびっくりして、梨華は目を見開いた。

「ど、どうしたの、忘れ物!?」

 頼人は駅までの道から引き返してきたのだろうか、少し息が上がっている。

 さっと右手を差し出す。

「・・・?何?」

「今夜は定時で帰ってくるから、日本酒を付けといてくれ。」

「・・・あ、ハイ。わかった。」

 答えても、何故か手をおろさない頼人。

「あの、後、何?」

「・・・あ、握手してくれ。」

 梨華はまたも眉毛を上げた。

「まだ、俺を許せないだろうけど、触りたくないかもしれないけど・・・、頼む。手を握るだけでいいから。それだけで俺は一日働いて来られるから。」

 なんだか、アイドルにでも言っているみたいに。

 手を差し出して、懇願する頼人はおかしいほどに必死だった。

 水仕事で手荒れしている自分の手など、触って何が面白いのだろうと思いながら。

 もう一度だけエプロンの裾で両手を拭ってから梨華は夫の手を軽く握った。

 恥ずかしそうに俯きながらも、頼人の手が力を込めて梨華の手を握る。ほんの、一分にも満たない程の時間だ。

 ゆっくりと、やさしく手を放して、頼人は照れたように笑って見せた。

「ありがとう。今度こそ、行ってきます。」

「行ってらっしゃい。」

 握手した手を軽く振りながら、梨華は夫を送り出した。

 それから自分の手をじっと見つめる。きめの粗い、日焼けした、ささくれの多い自分の手だ。水仕事のために荒れ放題の、かさついた手。こんな手を、何故か頼人は嬉しそうに握っていった。

 触るなと言われて傷ついていたのは、本当だったらしい。


 昨夜、頼人を怒らせてしまったと思った。無理して頼人と一緒に食卓に付いたのだが、長い事まともな食事をしていなかったので、胃腸が普通の食事を受け付けない。昨夜のメニューは煮魚と肉じゃがだった。煮魚は子供達は好まないが、頼人の好物だ。しかし、食べられなかった。とりあえず、ご飯は少しだけ胃に収めたけれど、後食べられたのはサラダくらい。

「食べられないのか?」

 頼人は心配して言ったのだろうが、その言葉が引き金になった。

 とたんに吐き気が襲ってきて、梨華は席を立たずにいられなくなる。

 呆気にとられたように洗面所へ行った妻の後姿を見ていた頼人は、思わず箸をおきたくなる。

 いくら好物が並んでいても、一緒に食事する人間がああでは食欲も失せようと言うものだ。それほどに、梨華は頼人と向い合せで食事するのが嫌なのか。

 戻ってきた梨華が、涙ながらに呟いた。

「ごめんなさい・・・。食事中にこんなの、失礼よね。わかってるの。わかってるんだけど、止められないのよ・・・。」

 立ったまましくしくと泣き出した梨華に、頼人はかける言葉が見つからない。

 余り泣きごとを言わない妻の弱気な姿が頼人の頭を冷やした。彼女が食事中に席を立った無礼を責めようと思ったことも忘れた。

 置こうとした箸をもって、煮魚をつつく。できるだけ穏やかに言葉をかけた。

「梨華の飯は美味いな。・・・今日は俺の好きなおかずにしてくれてありがとう。」

 食欲は失せていても箸を止めずにぱくぱくと食べる。それしかないと思った。頼人が今できることは、そのくらいだ。

 泣いていても頭を撫でたり抱きしめたりは出来ない。だから、頼人は、今出来ることをした。それが、彼女の作った食事を、美味だと称賛して食べる事。

 ご飯粒一つ残らず綺麗に食べ終わった夫が、食器をシンクへもっていく様子を、ぼんやりと見送っている。

 その時には、梨華の涙も吐き気も止まっていた。



 頼人は弁護士から通達された梨華の『離婚しない条件』の全てを飲むと言ってきた。

 そのことに、岩崎も梨華も狼狽せざるを得なかった。

 梨華が出した条件は、項目だけでも50を超えるほど多岐にわたり、細かい内容だったのだ。その全てに一切手を加えることなく、受け入れると申し出てきた。

 さすがの岩崎も、

「これだけの条件を受け入れる男は、いませんよ。ちょっと条件が多すぎやしませんか。これ全部公正証書にするのかぁ・・・大変だぁ・・・。」

 と言って頭を掻いていた。

 最初は、夫がやらかした不倫について。

 相手女性の実家まで足を運び謝罪し、彼女に請求した慰謝料の全てを頼人が肩代わりする。その時には梨華も同席することが条件だった。

 初めて会った不倫相手は、少しだけ梨華の若い頃に似ている気がしたのは気のせいだろうか。

 永原杏奈はほとんど顔を上げることもなく、会社を辞めることを告げてきた。彼女の両親は神妙な面持ちで、静かに梨華に頭を下げる。

「どうか、他言無用でお願いいたします。慰謝料の方は一括で振込いたしますので・・・。」

 世間体を気にしているのか、杏奈の母親がそう言って何度も頭を下げていた。

 頼人もずっと暗い顔で相手の親に頭を下げ続けていた。そして、慰謝料は責任をもって杏奈の分も頼人が支払うからいいのだと、断った。

 本当は不倫相手ともその親とも顔など合わせたくなかった。それは多分向こうだってそうだろう。なのにわざわざ梨華が一緒に行ったのは、頼人がきちんと相手先で頭を下げるかどうかを見極めるためだ。

 仮にも家庭を持つ男が、独身の女性を弄んだ。同意の上とは言っても、彼女の両親の立場からすれば、娘を傷物にされたとしか思えないだろう。

 会社を辞めた後、杏奈はすぐに見合いをさせられ、すぐに結婚したと聞いている。

 その後の彼女がどうなったのか梨華は知らない。ただ、彼女も自分と同じ立場になってはじめて、自分の犯した罪の重さを知る事になるだろうと思った。不倫された配偶者の苦悩がどんなものか、知らずに済めばこんないいことはないけれど。自分を苦しめた彼女が知らないままでいるのはなんとなく許せない気もする。

 そして梨華は夫の頼人にも慰謝料を請求した。慰謝料以外にも、様々な制約を求めた。

 まず、頼人は自分の給与振り込み通帳をはじめとして、あらゆる銀行のカードを全て梨華へ預けること。入っている保険の証書もすべて開示し、梨華へ預ける。

 持っている携帯電話にはGPSを起動させ、常に居場所がわかるようにセットしておくこと。

 彼は自分の電話の通信履歴が子供たちや梨華に筒抜けであることに気付いていない。なのでそれは何も言わずにそのまま放っておくことにする。

 不貞は勿論、それを推測させるような行動を一切とらないこと。

 梨華が頼人の過去の不貞を責めたとしても、それを受け入れること。

 そして、梨華に対して、夜の生活においても絶対に無理強いをしないこと。暴力を振るわない事。一日の行動を報告すること。

 何より重要だったのは離婚届に記名捺印をし、梨華に預けておくことだった。

 細々とした制約条件を全て公正証書として公にする。この制約を一つでも違えた場合は、梨華の言う条件で離婚することも認めさせる。

 頼人は、すべての条件を飲み、離婚を回避することを望んだ。

 慰謝料は、やっとローンが終わったばかりの自宅を担保に借金をして、梨華に支払う。その返済は、彼が梨華に与えられる小遣いからすることになる。

 支払いが滞った場合は給与差し押さえをする。そうすれば会社に全てが知られてしまう事になる。そうなった時は、頼人も遠くの支社へ飛ばされることになるだろう。

 署名捺印入りの離婚届を手に入れた梨華は、その気になればいつでも離婚できるというわけだ。しかも、自分の出した条件で。

 離婚届に署名捺印することだけは渋った頼人だったが、ならば調停に移行すると言い切った弁護士に逆らえず、イヤイヤながらも従ったそうだ。

「・・・この細かい制約を、完全に守れるかって言ったら、多分多少は守れない所も出て来てしまうでしょうけどね。」

 給与振込口座の通帳もカードも預けてしまえば、頼人が自分で管理できるお金は梨華から与えられる小遣いのみだ。そのほとんどは慰謝料に消えるだろう。

 お金が無くては、まず女遊びは出来ない。まして、GPSで行動を見張られていては、不可能に近いことだろう。それでも浮気をしたいというのならば、離婚するまでである。

 離婚を嫌がる頼人。ならば、離婚届は梨華にとってお守りにも切り札にもなる。どちらにもならない時こそ、離婚すればいい。

 梨華に対し暴力やセクハラ、モラハラでもしようものならば、それも離婚へ繋がる。

 頼人は、この八方ふさがりとも言える条件を飲むと言ったのだ。

 浮気どころか、自分の妻にも触れないかもしれない。この不利な条件の全てを黙って受け入れると。

「結局は、離婚しない方向に行きましたね。・・・まあ、これはこれでよかったんじゃないですか。いい条件だと思いますよ。」

 岩崎が公正証書にする文書を清書して見せると、梨華は一枚一枚に目を通し頷いた。

「今、エスプレッソをお持ちしますね。」

「いや、今日はお勧めのコーヒーもらおうかな。なんだっけ。きょうはカプチーノ?」

 弁護士の言葉に目を丸くした梨華は、バイトの女の子を呼んだ。

「カプチーノとレモンティー、あと、サンドイッチを。お腹空いてるでしょう?岩崎さん。」

「や、なんでバレたの。助かるなー、朝からなんも食ってなくて。」

 少しだけ安堵のため息をついた岩崎が陽気に言う。依頼人が、今日は水では無く味のついた液体を頼んだ事に、気を良くしたからだ。

 空いた店内には他の客が一組、離れたテーブルにいるだけだ。バイトの女の子は快く注文を受けてくれた。

「報酬の方は今週中に岩崎さんの銀行口座へ振込します。確認してくださいね。」

「はいはい。ありがとうね。これで一応決着ついたことになるかな?」

「はい。お陰様で。・・・本当に、本当にありがとうございました。岩崎さんがいてくれたから、ここまで来られました。」

「そうですか。じゃあたくさん感謝しておいて。俺、ありがとうって言われるの大好きだから。」

「子供たちの事も、ありがとうございました。」

 梨華がそう言うと、ぱちくりと目を瞬いた弁護士が、両手をテーブルに置く。

 そんな岩崎を見て、梨華は苦笑する。

「今まで気付かなかったのが不思議なくらいです。・・・これで海斗と陸斗があの時私を助けてくれた理由が納得いきました。」

 中学生が経済DVなどと言う言葉を口にするなんて、おかしいと思っていたのだ。

 父親を言い負かすほどの言葉や命令口調の大きな態度。本来はそんな子達では無かったと思う。父親に面と向かって逆らえるような子達ではなかったはずなのだ。

 それなのに、あの時。母親を守ってくれた時の海斗と陸斗は。きっと、誰かに入れ知恵されていたに違いない。

「なんのことかな?」

 そう言ってとぼける。とぼけてはいるが、もう通じていないこともわかってるようだ。

 バイトの女の子が持って来てくれたサンドイッチに指を伸ばした岩崎は、軽く背を椅子に凭せ掛けて人妻を見つめた。

「村島塾長の息子さんですね。・・・この間、弟さんに会って、やっとわかりました。」

 陸斗と海斗が長く通う塾長は年配の女性だった。代替わりして、責任者の名前が変わった事で梨華がずっと疑問に思っていたことにつじつまを合わせることが出来た。

 母親と息子の姓が違う事に気付いて、その理由に思い当たる事は、親の離婚。母親は旧姓に戻したが、子供の姓は別れたダンナのままと言う事もあり得る。あるいは、母親が再婚した場合、子供がある程度大きければ違う姓となることもあり得る。岩崎の放してくれた生い立ちと一致するのだ。あの領収書を見なければ気付かなかったかもしれない。

「あ、そうか。ウチに来たのね?だからわかっちゃったのか。・・・海斗や陸斗が中学生になってから送迎もないから、まあバレないかなって思ってたんだけどね。」

 弁護士は、隠す気も誤魔化す気も失せたのか、あっさりと認めた。

「随分前から、子供たちの異変に気付いていてくれたんですね。」

「んー・・・小学生は弟の勇人、中学生は俺が見てるんスよ。俺が直接教えるってことはもうほとんどなくなったんですけどね、ずーっと、あの二人様子がおかしかったから、去年くらいに聞いてみたんス。そしたらね、親父さんの携帯、見ちゃったんだってサ。そんでね?お母さんがすっげ痩せちゃって、具合悪そうでって言うから・・・二人には悪いけど、もう浮気してるとしか思えなくて。まあ、弁護士の勘って奴?」

 口調が、昔の岩崎に戻ってしまっている。

 それもまた、なんだか楽しくて、梨華は笑った。

 まあ、市役所の法律相談で再会したのは、全くの偶然だったのだそうだが、そこで会わなくてもどうにか会うように段取りをつけるつもりだったのだという。

「久しぶりに見た梨華先輩、・・・痩せちゃっててさ。マジ驚きました。」

「はは・・・、ダイエットというには無理があったかな。」

 はむはむとサンドイッチを口に運ぶ岩崎は、それをカプチーノで流し込んだ。

 正直そんな飲み方をされたくない程度には、手間暇かけて淹れているコーヒーなのだが、梨華はなにも言わなかった。

「まあ、離婚しない方が、子供にとってはいいってことですよ。それに、これだけの条件を飲むダンナさんだ。・・・愛されてますねー先輩。」

「愛されてたら浮気されてないでしょう。」

 それには岩崎は答えなかった。

 食べ終わると、テーブルの上の書類を片付けてバッグへ詰め込む。

「まあ、また連絡しますよ。万が一にも、また不倫するようなダンナだったら、今度こそぎゃふん、です、奥さん。」

 今回の件で、結構頼人はぎゃふんとさせられていると思わないでもないが。

 それでも、梨華や子供たちが受けた傷が癒されるわけではない。

 これから長い時間をかけて、頼人は、梨華と、海斗と陸斗の信頼を取り戻して行かねばならないのだ。

 それには、想像を絶する忍耐が必要になるだろう。それを、岩崎は自分が子供時代に受けた傷があるから、よく知っている。知っているけれど、あえてそれを口にはしなかった。

 すっかり馴染んでしまったコーヒーショップを出て、かるくげっぷをした岩崎は、小さく呟いた。

「万が一にも、今度があったら・・・次は、俺も遠慮しませんからね、梨華先輩。」

 手を振ってくれている依頼人を振り返る。

 梨華は、太っていても、痩せていても、可愛い人だった。

 少なくとも、岩崎はそう思う。だから、力を貸したのだ。弁護士としての職務を大幅に超えてまで。

 バイト生活だったあの頃の、憧れの人。

 誰にも可愛がられていて、人気者だった梨華先輩。そんな彼女と付き合えた果報者は、やがて結婚して、梨華をあれほどに傷つけた。

 真面目そうな男だと思っていたから、岩崎は何も言わなかった。彼女をこんなひどい目に合わせる奴だと知っていたら、きっと『ちょっと待ったぁ!』と声を上げていただろう。

 恐らく、チャラかった自分には脈がないと知っていても。

 梨華の出した条件は、岩崎の、弁護士としての経験上でもっとも厳しいものだった。正直見たことが無いくらいである。こんな条件を飲むような男はそもそも、不倫などしないのではないか、と思うくらいに。

 多額の慰謝料を支払い、金もなく行動の自由もない。そして、離婚届を握られている。それこそ、頼人は梨華の言いなりだ。あれでは当分の間、妻ともよその女ともヤルことは出来まい。妻に構ってもらえなくて寂しさの余り浮気するような男にとっては、ヤレないという事実がとてつもなく負担だろう。

 梨華は気丈だから泣き言を言わないだろう。それでも、フラッシュバックが起こることもある。すでに過去になった事でも、浮気されていたという過去が脳裏に浮かび心の均衡を保てなくなるのだ。それを受け止めるのが、不倫した夫にとって中々にキツイ仕事となる。過去の過ちを責められ続けるのだから。

 あの甘ったれな男が、どれほど耐えられるだろうか?





 

 

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浮気者、ヤルべからず ちわみろく @s470809b

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