第21話 する条件、しない条件

 年子の兄弟が二階に行ってしばらくすると、梨華はまたダイニングテーブルの上で家計簿を付け始める。支出と収入の収支が合っているかを確認しながら、レシートや領収書を整理した。財布に溜まっていくのはレシートばかりで、これらが全て万札だったらな、などと思いつつも一枚一枚金額を書き込んでいく。

 ふと、領収書を見て気付いた。

 今日支払った塾の月謝の領収書に、違和感を感じたからだ。責任者の印刷の名前が、村島塾長の名前ではなくなっている。代替わりしたのだろうか。彼女の息子の名前と思われる印刷を見て、またも懐かしい気持ちが沸き上がる。そうだった、あの青年は確か、『勇人ゆうと先生』と呼ばれていたではないか。そして、もう一つ気付いてしまった。彼の姓が塾長と違う。塾長は『村島』だが、印には岩崎勇人、とある。

 母親と子供の姓が違うということに違和感を覚え、そして、何かが引っかかる気がした。娘ならば結婚して姓が変わる事も多いが、息子の姓が母親と違うと言うのは珍しい。

 首を傾げてる時に、玄関の鍵の音がした。

 条件反射のように身構える。夫が帰宅したのだ。開錠する音だけで呼吸が止まりそうになる。

 夫は弁護士から届いた内容証明については、あれから何も言ってこない。まあ、交渉は直接妻に言うのではなく弁護士に伝えるようにと言われているので当然と言えば当然のことだ。

 立ち上がってキッチンへ歩く。シンク台の前に立ち、先ほど洗って放置したままの皿を拭こうと紙ナプキンを手にした。

「ただいま。」

 疲れたような声でそう言ってリビングに入ってきた頼人。

 仕事にせよ不倫相手と会っていたにせよ、間もなく日付の変わる時間だ。疲れているのは事実だろう。

「お帰りなさい。」

 出来るだけ感情を抑えた、無機質な声で応える。

 キッチンに立っている妻を見て、夫は困ったように眉根を寄せる。ソファの足元にビジネスバッグを置いて、沈むように腰を下ろした。

 妻が何故キッチンに立っているかを、察しているのだろう。夫と距離を取ろうとしている事がはっきりとわかって、頼人は大きく息をついた。

 発覚以来、梨華は必ず夫と距離を取るか、すぐにでも投げつけられるようなものを手元に置いている。

 一度殴ってしまったことが響いているのだ。いつでも息子たちが駆けつけてくれるとも限らないから、用心のために彼女はそうしている。それについては、悔やんでも悔やみきれないくらいに後悔していた。殴りたくて殴ったわけでもなかったのに。

 沈黙が下りたリビングで、梨華が皿を拭く音だけが僅かに聞こえてくる。それが終わると、食器棚へ皿を戻しているのが見えた。

 頼人は妻の仕事が済むのを待っていたかのように、声を掛ける。

「・・・話し合いがしたい。」

「弁護士を通してください。」

「弁護士に言っても、離婚の条件を付きつけられるだけだ。俺は離婚したくない。」

 梨華の口元に小さく笑いが浮かんだ。

 よくそんなことが口にできるな、と思って出た笑いだった。

 頼人は有責配偶者だ。離婚するのもしないのも、言う権利など彼にはない。

 彼は梨華や岩崎が握っている不倫の証拠を見せろとは言わなかった。おそらくは言わなくてもわかっていたのだろう、梨華がここまでの行動を起こした以上、何の確証もないはずがない。彼の妻が慎重なことを良く知っている。憶測だけで動いたりはしない。勝てない勝負には出ないタイプだ。

 梨華を殴ってしまった日、もしも証拠も何もなかったらきっと彼女は堪えに堪えて、夫の不倫に気付いている事を言わなかっただろう。そのくらい、我慢強いし女性だ。三年もの間、彼女は彼女で夫を騙し通したのだから。

 そうだった。

 梨華は強い女性だ。ちょっとやそっとでその心を変えさせることなど出来るわけがない。損得で動くこともしない。

 だってそうだろう。頼人はそういう梨華の事が好きで結婚したのだ。

 辛くても泣き言も言わず、甘えることもしない。心で泣いていても明るく微笑んでいる事が出来る。

 そんな梨華に、頼人が勝てるわけが無いのだ。

 おもむろに立ち上がった夫が、キッチンのダイニングテーブルの傍まで歩いてきた。帰宅してから着替えもせず、入浴もせず、夕食も食べずに、疲れた顔で。

 梨華が僅かに狼狽し、シンク台を両手で握るが、頼人はテーブルの脇で止まった。

「別れたくない、です。どうしたら許してくれますか。どんな条件でも飲みます。出来る事ならなんでもやります。・・・親にバレても、会社にバレてもかまいません。どうか、許してください。俺が、悪かった。・・・お前の優しさにつけこんで、甘えていた。全部、俺の責任です。離婚以外の条件だったら、どんなことでもやるから、許してください。」

 振り絞るような声でそう言って、その場に両膝をつき頭を下げた。

 それは梨華にとって、雷に打たれたかのような衝撃だった。

 額を床につけて土下座をする夫の姿は、そのくらい妻を驚愕させる。

「・・・ごめんなさい。ごめんなさい。本当に、辛い思いをさせてすまなかった。気付いてやれず申し訳ない。俺は最低な男です。・・・それでも、俺は、まだ貴方が好きなんです。」

 情けない、声だ。

 夫が泣いているのがわかった。下を向いたままだが、声の震え方と呼吸音の変化で、頼人が泣いているのがわかる。

「梨華の事が好きです。ずっと好きです。どこで何をしていても貴方以外の女性を愛したことはありません。これからもありません。どんな償いでもするから。どうか、・・・別れないでくれ。頼む、お願いだから・・・!」

 それ以上はもう言葉にならなかった。

 呻くように泣いて泣いて、嗚咽するだけだ。

 そんな夫の姿を見たのは初めてで、梨華はどうしていいかわからない。ただ茫然と、丸まった背中を見つめていた。




 許しを請う姿は、母親に謝罪する小さな子供のように見えた。

 梨華を呼ぶ二人称が変わっている。頼人が自分を『お前』と言うようになったのはいつ頃からだろう。泣き伏している今、彼は妻を『貴方』と呼んだ。

 土下座をしたからと言って、本当に反省しているのかはわからない。謝罪したからと言って本当に悔いているのかまではわからない。泣いているから、口調や言葉遣いが変わったからと言って本心からかどうかは知れない。人の心は目に見えない。

 今まで見たこともない頼人の姿を見ても、梨華は不思議なほど冷静にそう思った。

 だが、心が揺れないわけでもなかった。

 海斗と陸斗の顔が浮かぶ。陸斗は、夫の通信履歴を梨華に見せて、頼人が家族の事を悪く言うことが無かったと教えてくれた。そして、今の不倫相手とも別れようとしている事も。

 どうするのがベストなのか。夫の訴えにどうこたえるのがいいのか、今すぐに梨華には判断できない。

 とても冷静に、そう考えられる自分が不思議だったけれど。

「・・・貴方の言いたいことはわかりました。」

 とてもとても低い声で、梨華は言った。

「離婚の条件と、離婚しなくてもいい条件。この両方を私から弁護士に話します。後は弁護士から聞いてください。」

 その言葉が聞こえた瞬間に、頼人が顔を上げる。

 彼は、髪を振り乱し額に板の間の痕がついていた。涙や鼻水でぐしょぐしょの顔はみっともないでは済まされないレベルの顔だ。これを見たら不倫相手も裸足で逃げ出すのではないかと言う顔だった。

 キッチンからダイニングテーブルまでの僅かな距離を置いて見ていたが、その醜い顔を見ても、何故か梨華は吐き気を覚えなかった。具合が悪くなるくらいの嫌悪感が消えている。

「お風呂に入って寝てください。・・・お休みなさい。」

 頼人の横をすり抜けてリビングを出て行く。触れそうなほどに近い距離だったが、梨華は平気だった。

 リビングを出て向かった先は寝室だ。

 洗面所でも、トイレでもない。 

 着替えて寝るだけになっていた梨華は、そのまま寝室でベッドに入った。

 ダイニングに取り残された頼人が、その後どうしたのかは知らない。知ろうとも思わなかった。今夜は薬が無くても、眠りにつける気がしたのである。



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