第15話 認めない

 父親と言うのは損なものだ。

 毎日汗水たらして働いて家族のために生きているのに、子供たちは結局母親の肩を持つ。

 海斗も陸斗も梨華の味方なのは一目瞭然で、梨華は完全に自分を拒否している。完全に悪者にされた頼人は、リビングを出ようとして歩き出した。

「どこ行くんだよ、オヤジ。」

「何を言っても全部俺が悪い事にされるんだ。もう、いい。」

「こんだけの事をしておいて、謝罪もナシかよ。」

 刺々しい口調で、年子の息子たちが父親にかぶせてくる。

「謝罪、だと。」

 頼人が足を止める。

「母さんに謝れよ。」

「二度と他の女の所なんかいかないって誓え。おふくろの気が済むまで、どこまでも謝ってどんなことでもして許してもらえ。」

 たかが中学生の子供が、倍以上も生きている父親に向かって命令口調だ。

「そんなことはお前らが言う事ではない。」

 きっぱりとそう言い切って、リビングのドアを開ける。如何にも不機嫌を示すように、大きな音を立てて閉めた。

 その音にびくっと震える梨華は、両サイドに座る二人の息子にしがみつく。

 その真っ赤な眼には涙が浮かんでいた。

 頼人と揉めた恐怖からではない涙だ。自分を庇ってくれた息子たちが頼もしくて、有り難くて、嬉しい涙だった。

 寝室のドアの音も聞こえた後には、二人が大きく声を盾ながらため息をついた。

 二人も張りつめていた緊張の糸が解けたのだろう。

「ああ~、マジで怖かった・・・。」

「俺も・・・。」

「陸斗、海斗、ごめんね、本当にごめんね。こんな思いを貴方たちにさせてしまって、本当に、ごめん。でも、母さん嬉しかった。本当に嬉しかった。」

 涙を拭きながら二人に頭を下げる。

 そんな母親を見ながら、兄弟は目尻を下げた。

 二人はまだ中学生なのだ。それなのに、こんな修羅場を見せてしまった。親として最低だ。ましてや助けられるなんて、想像もしなかったことだ。

「ありがとう。二人とも、本当に、母さん救われた気持ちだよ。ずっと誰にも話せなくて辛かったけど、二人はわかっていてくれたんだ。」

 何度も感謝を述べられて、二人の中学生はなんとも言えない恥ずかしそうな表情を浮かべる。

 そのはにかんだ顔は、昔とちっとも変っていない。

 新しいものを見つけては、お母さんこれ見て、と言って蛇の抜け殻を持って来たり。

 零点のテスト答案を見つけられてばつが悪そうに見上げてきたり。

 身体はすっかり大きくなって、父親を言い負かすほど成長した二人だけれど、やっぱり二人は梨華の可愛い海斗と陸斗だ。

 梨華にとって触られるのも嫌になってしまったあの夫にそっくりだけれど、二人は誰よりも大切だった。

「この際だから、俺らの意見、言わせてもらっていい?」

 海斗が何度もため息をついてから、梨華に向き直る。

 視線を二人の顔を往復させてから、梨華は頷いた。

「・・・本音では離婚して欲しくない。でも、母さんが我慢できないって言うなら、俺らは母さんの側につくから。」

「おふくろの気が済むように、してくれ。」

「マジで、俺らも見てるの辛いから。母さんがトイレとか洗面所とか吐いてんの知ってるから・・・。」

「そういうの、本当にマジ勘弁だから。」

 やはり知られていたのだ。 

 隠していたつもりだけれど、一緒にいる時間が長い子供達にはばれていたのだ。

「つーわけで、おやすみ。朝練あるんで寝るわ。」

「明日も起こすのと弁当よろしく。」

 息の合ったやり取りの後で、年子の兄弟は二階へ上がっていった。

 


 リビングに一人になり、静かな室内を見回して、息をつく。

 とうとう、やり合ってしまった。

 まだ早い、まだ、と思いながら今日まで来たけれど、いつこうなってもおかしくは無かったのだ。

 これからどうなるのだろう。

 明日の朝には、またそ知らぬふりでいつものように夫を送り出すのだろうか。知っていながら、知らない振りで。何も無かったかのように。吐き気を堪えながら。

 梨華は、首を左右に振った。

 違う。

 だって、今は吐き気がしない。気持ち悪くない。

 梨華が頼人に言ってやりたかったことは、全て海斗と陸斗が言ってくれた。

 もう隠さなくていいのだ。無理して笑わなくていいのだ。我慢して夫に尽くさなくていいのだ。

 今夜はもしかしたら、薬を飲まずに眠れるかもしれない。

 



 翌朝、いつものように5時に起きて洗濯機を回し弁当を作っていると、頼人が珍しく早起きしてリビングへ姿を現した。

 クマのできた顔を見ると、昨夜はろくに眠れなかったのだろう。

 気の毒に思い、苦笑をうかべつつも、自分と反対なのだな、と思った梨華はいつものように明るい声で挨拶した。

「おはよう。早いわね。」

 睡眠時間こそ長くはないが、昨夜は薬を飲まずにぐっすり眠った梨華は頭がすっきりしている。ここしばらくなかったくらいに。

 夫は、妻の方から挨拶してきたことに驚いたのか、面食らったように動揺している。

「おはよう・・・。」

「まだ朝食出来てないんだけど、すぐ食べるなら用意するわよ。」

「・・・いや、いい。」

「そう。」

 どうして、とは聞かない。

「・・・弁当もいらない。」

「あら、そう。じゃ、これはわたしのお昼にするわ。」

 一切聞き返すこともなく、梨華は朝の仕事に従事する。作りかけの弁当箱は三つだ。残りの二つは勿論息子たちの分である。

 まるでいつも通りにしか思えない妻の様子が、どうしても理解できない頼人は、キッチンの前に立った。

 しかし、昨夜のように、梨華は怯えることもない。

 本当に何も無かったかのように。

 昨夜の事は夢でも見ていたのだろうか、と思えるくらいに。

 それはいいことではないか。頼人にとって都合がいい。昨夜のもめごとなど無かった事になるならば、それに越したことは無い。

 それなのに、この苛立ちはなんなのだろう。

 夫が朝食も昼食も食べないと言っているのに、何も訊かない妻に対して苛立つのは。

「・・・弁護士を雇ったというのは、本当なのか?」

「本当よ。あなたも見たんでしょう。」

 事も無げに即答する梨華は、朝食のパンを冷蔵庫からとりだした。

「馬鹿げたことを。高い金を出して、一体何をするつもりなんだ。」

「慰謝料の請求と離婚の要求かな。」

「慰謝料・・・!?離婚!?何故だ。」

「浮気者を懲らしめるためって昨夜言ったでしょう。そうそう、相手の方にも請求いくから。多分会社にもバレるだろうから覚悟して。」

「まだ俺が浮気してるとか言いがかりをつけるつもりなのか。そんなことをして何になる。」

 子供たちまで知っているというのに、頼人はまだしらばっくれるつもりなのか。

 梨華は少し呆れた。

 認めなければ、逃げ切れるとでも思っているのだろうか。誤魔化せるとでも。

 でも、もう梨華は証拠になり得る写真も映像も手に入れている。岩崎の元にそれらは全てある。

「・・・離婚したくないの?」

「離婚する理由なんかない。なにが気に入らないんだ。」

 頼人の声にはどこか必死さがあった。

 強気な言葉を発しているが、どうにかして梨華を言い包めようとしている。妻の機嫌を取って事をまるくおさめようとしているのだ。

 梨華の中で嫌悪感が募る。

 また、吐き気が戻ってきた気がした。気持ちが悪い。

 事実を認めようとせず、自分の都合の良いように事を運ぼうと画策しているのが見える。そういう夫が気持ち悪い。

 汚い男だ。卑怯で、勝手で、最悪だ。

 手を口にあて、吐き気を堪える。

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