第16話 務め
シンクに顔を伏せて、苦しそうにえずく妻の姿を呆然と見つめる。
ろくに食べていない梨華は、吐いても出てくるのは胃液だけだ。それでも嘔吐するのを止められない。
焦ったように彼女の後ろに回り、背中を撫でてやろうと手を差し出すが、
「やめて、触らないでって昨夜も言ったでしょう・・・!」
胃液で喉をやられているのだろう、しゃがれた声でそう言って拒絶する妻の姿は、ひどいものだった。
仕方がないので、梨華が落ち着くまで待とうとその場に立つ。
暫くそのまま吐いていた彼女がようやく顔を上げて口をすすぎ、シンクの中も水道の水で洗い流す。
「ずっと、こんな調子なのか・・・!?いつからだ!?」
息も切れ切れに体を起こした梨華が、エプロンで顔を拭いながら低く答える。
「もう三年くらいかしらね。」
三年も、という言葉を、頼人は飲み込む。
「医者には!?」
「ずっと行ってるわよ。薬も飲んでる。・・・貴方は何も知らないでしょうけどね。」
「原因は?病名はわかってるのか?」
びっくりしたように、梨華が目を丸くする。
まさか病名を聞かれるとは夢にも思わなかったのだ。
思わず、笑ってしまった。どれだけ他人事なんだろう。
いきなり笑い出した梨華の様子が、余りにも異常に思えたのだろう。頼人の腰が少し引けている。
「心因性適応障害・・・うつ病、心身症。病名はそんなところね。原因は、夫の浮気です。」
夫の顔色がさっと変わるのがなんだか面白おかしいことのようにさえ思えた。
「嘘だ・・・。」
「あらそう。じゃあ他に何か原因があるのかしら。」
「職場のストレスとか、そう、そうだ子育てのストレスとか、そんなんだろ。俺のせいだっていうのか、そんなわけないだろう。」
この期に及んでまだそんなことを言っている。
よっぽど自分のせいにはしたくないのだろう。
「わたし仕事は好きよ。・・・ていうか、仕事してなかったらもっとひどくなっていたと思うわ。子育てにストレスがないとは言わないけど、海斗も陸斗ももう中学生ですもの。そこまでのストレスは無いわね。とても立派に育ってくれてるし。」
「そうやってなんでも俺のせいにするつもりなんだな。」
「なんでもじゃないわ。病気の原因は何かと聞かれたから答えただけよ。」
「俺のせいで身体壊したなんて有り得ない。お前はいつも俺の事なんか気にしてなかっただろ。いつだって子供の事ばっかりだ。いつだってそれで楽しそうに笑っていたじゃないか。俺の事なんか構いもしなかったくせに、今更そんなことを言っても無駄だ。確かにひどく痩せたのは知っていたが、それだってダイエットだって笑い飛ばしてた。弁護士とやらはさぞかし痩せた女が好きなんだろうな。」
「・・・ばっかじゃないの。」
梨華の声はしゃがれたままだ。
「わたしが取り乱してどうするの。わたしが笑わなくなったらこの家はどうなるの。海斗と陸斗はどうなってしまうの。わたしがどれほど歯を食いしばって笑っていたのかなんて、家の外で憂さを晴らしてた貴方になんかわかるわけないでしょうね。何が俺の事なんか気にしなかっただよ。笑わせないで。誰が貴方のシャツをアイロンかけてると思ってるの。貴女のご飯を作ってるのは一体誰?貴方が不倫してきたパンツを洗濯しているのは誰だと思ってるの。気付かないとでも思ってた?わたしがどんな思いで貴方の身の回りの世話をしていたか。わたしは家政婦じゃないのよ?」
「・・・俺だって鵜飼の鵜じゃないんだ。ATMじゃないんだぜ。稼いできさえすればいいと思ってたくせに。」
「ふざけてるのね?お金で依存しているんだったら、わたしが仕事しているわけは何なの?何が鵜飼の鵜よ。鵜っていうのはね、自分が呑み込んだ魚のうち大きいものを漁師に差し出すのよ?好き勝手によその女と遊ぶお金に使ってるくせに、鵜に失礼だわ。」
「お前だって稼いだ金を自分の好きなように使ってるんだろうが。」
またも梨華は軽く笑った。
「まあ、随分高給取りでいらっしゃるのね。全然知らなかったわ。わたしが自分で働いたお金を自由に使えると思ってらっしゃるとはね。・・・まあ、貴方自身がそうしてるから、そう思うんでしょうね。貴方はなんでもご自分が基準。自分が不倫しているから相手もしていると思えるんだわ。わたしが笑っているのを見て平気でいると思うのは、貴方がそう思いたいからでしょう。海斗も陸斗もわたしの異常に気付いていたのに、貴方が気付かなかったのは、貴方が知りたくなかったから。わたしに感心が無かったから。そうでしょう?」
妻の言葉に明らかに狼狽している頼人。
足元もあやしいのか、背後の壁に背中を付けて重心をもたせかけた。
昨夜と違い、とても饒舌な妻の様子にも驚いていた。梨華はこんなにも喋る女だっただろうか。こんなにも自分に逆らうような発言をつらつらと述べる女じゃなかったはずだ。もともととても優しくてほんわかした雰囲気の、お嬢様然とした女だったはずだ。可愛らしくて優しくて、そのくせしっかりした性格だったのが凄く好きで気に入って結婚したのだ。
ぽっちゃりとしていてやわらかな雰囲気の、明るい笑顔が大好きだった。
その梨華が、痩せて、悲壮な顔をして、しゃがれた声で乾いた笑い声を立てている。
ずっと、いつも楽しそうに笑っていた。痩せても、自分の不貞を知っていても、明るく、陽気に。
あの笑顔の内側は、こんなにも苦しそうで声枯れて、渇いて、涙さえ出ない程に、荒れ果てていたのか。
出会った頃の、結婚したばかりの頃の、幸せそうな輝かんばかりの笑顔。それを、こんな風に変えてしまったのは、頼人だった。
そして、変えてしまったことにさえ一向に気付かずにいた。
中学生の子供たちでさえ知っていたというのに。
「・・・どうして何も言わなかったんだ。俺が不倫していると疑っていたのなら。」
それだけが納得いかない、とでも言うように、呟く。
「貴方が認めるはずないってわかってたから。確実な証拠を取るためよ。」
頼人は自分の都合のいいように妻の性格を解釈していたが、梨華の方は現実的に夫の性格を把握していた。
昨夜からこれだけ妻と息子に言われても、いまだに不貞を認める言葉を一切発していない。もはやどう誤魔化しても無理だとわかりそうなものなのに、それでも肯定はしない。
肩を落としてキッチンを立ち去る夫を見送ると、梨華はもう一度うがいをして口元を拭う。
子供たちの朝食の用意をして、二人を起こしてやらなくてはならない。
夫の不倫があろうとも、その事で早朝から揉めても、言い争いになったとしても、母親の仕事はなくならない。
だから、梨華は明るい笑顔でいなくてはいけない。どんなに無理があっても、痩せ細り声がしゃがれても、心身症になっても、それが母親の務めだ。
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