第14話 息子たち

 目を固く閉じてこちらを見ようともしない妻に、頼人は激昂した。

「浮気者だ!?それはお前の方だろう!仕事場にこそこそと男を連れ込んで!」

 キッチンの隅へ追い詰め、梨華の両肩を掴む。細い肩だった。その骨ばった感触に愕然とする。

 そして、その途端に梨華が床へ沈み込むように蹲り、両手で口を覆った。

「触らないで!!気持ち悪いっ!!」

 身体を反転させて夫から離れようと逃げるが、頼人にその手を捕まれる。

「いやあああ!!」

 もう駄目だ。

 生理的に受け付けない。気持ちが悪い。吐き気がする。本気でそう思った。長年一緒に暮らした連れ合いでありながら、梨華は夫を全身で拒否していた。

 嫌で嫌でたまらない。精神的にも肉体的に受け付けない。

 梨華の態度でそれがはっきり分かった。

 だが、頼人は夫であるがゆえに、妻のその状態が信じられない。そんなはずがないのだ。

 梨華はずっと自分の妻であり自分のものだ。彼女が頼人を拒否するなど有り得ない。今も昔もこれからも、梨華は頼人のものである。

「ふざけるな!」

 掴んだ手を振り払おうとする梨華の手を、より強く握り、引っ張る。

「ひぃっ!!よその女抱いた手でわたしに触らないで・・・!!汚い・・・!!最低・・・!!」

 激しい動機と頭痛と吐き気で呼吸さえまともに出来なかった。梨華自身、自分がここまで夫に対して強い嫌悪感をもっていたのだと、初めて自覚した。 

「なんだと!?」

 仮にも主人たる自分に向かってなんと言う暴言だ。汚いだの、最低だの、許せる言葉では無かった。

 頭に血が上った頼人は、生涯で初めて女に手を上げた。

 平手で打たれた梨華がよろめいて、ガス台に当たり大きな音をたてて倒れる。ガス台にのっていた肩手鍋が甲高い音を立てて床へ落下した。

「いった・・・!!」

 一瞬呼吸が止まった。

 床に伏せて肩を震わせ、梨華がしゃくりあげる。泣いていた。それでも泣き声を立てない。

 梨華の髪は振り乱れ、エプロンの紐が肩からはずれ、履いていたスリッパも脱げてしまった。その哀れな姿を見て、わずかに冷静さを取り戻した頼人が、さすがにまずいと思って腰を屈めた瞬間、二階から速足で階段を降りてくる足音が響いてきた。

 海斗と陸斗が大きな音に驚いて降りてきたのだろう。

 リビングのドアを開いて入ってきた二人の兄弟が、色違いのスウェット姿でこちらへずんずん迫ってきた。

「おふくろ」

「母さん」

 二人は血相を変えて、キッチンの隅で床に蹲り泣いている梨華の元へ一直線に歩み寄ってくる。

「どうしたんだよ。大丈夫か。」

「何があったの。」

 母親の両側に回り抱き起そうとする。

 梨華は二人の息子に縋りつくようにして起き上がった。

 頼人には触るなと叫んだ梨華が、海斗と陸斗の手を握りながらよろよろと立ち上がる。

「・・・大丈夫よ。」

 泣いていたのを隠すように、俯き加減で歩き出す梨華が、海斗に落ちた鍋を拾うように指示した。

 長男が鍋をガス台に置き、梨華を次男と一緒に支えながらリビングのソファへ連れて行く。

 目の前にいる父親の頼人には一瞥もくれない。完全に無視だ。

「陸斗、冷やす奴。俺タオル取って来る。」

「わかった。」

 年子の兄弟は背丈も体格も余り変わらない。顔もよく似ている。父親である頼人に。

 キッチンで呆然と立ち尽くす父親は、子供に無視された事に愕然とした。

 冷蔵庫まで保冷剤を取りに来た陸斗に、頼人が声を掛ける。

「起きて来たのか。」

 冷蔵庫のドアを開いた次男は、目を合わせないまま答えた。

「こんな時間に寝てるわけねーじゃん。寝てたとしても、あんな悲鳴とでけぇ音が聞こえれば焦って起きるわ。」

 そう言われ、頼人は返す言葉が見つからない。

 見つかった言葉は、

「・・・ちゃんと勉強してるんだろうな。」

 という陳腐なものだった。

 久しぶりに話す思春期の息子との会話に、最適な言葉が思いつかない。

「は?」

 ぎろり、と音がしそうなほどに陸斗が睨み付けてきた。

「おふくろぶん殴った暴力親父に、勉強の心配されるとか、ないわー。」

 馬鹿にしたような言い回しは陸斗らしい、軽薄なものだ。

「DVだDV。最低だよな。」

 聞こえるように応じたのは、梨華のためにタオルを持って来た海斗だ。

 たかだか中学生の息子に虚仮にされた気がして、頼人は再び頭に血が上った気がした。

「ふざけるなよ、誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!!父親を馬鹿にするのもいい加減にしろ。」

 再び激昂する夫に、怯えた顔をする梨華。

 しかし、その隣に海斗と陸斗が座る。

 まるで、守る様に。

「今度は経済DVだとよ。判で押したように言うんだな。」

「浮気して開き直る奴って、どいつも皆同じ事言うらしいぜ。」

 驚いたのは、頼人だけではない。

 梨華もまた大きく目を見開いて驚愕していた。

 まさか息子たちに知られているとは、思いもよらなかったからだ。  



 後で聞いたことだが、海斗も陸斗も、以前から頼人が不倫している事を知っていた。

 何故ならば、彼らは梨華よりもPCに明るい。梨華は検索履歴を調べるくらいの事しか出来ないと思っていたのだが、二人はPCを父親の携帯と同期させることで父親が不倫相手とどんなやりとりをしているのかを知っていたのだ。

 しかも、同じPCを使っていながら、その事を頼人は全く知らなかったし、気付きもしなかった。

 一体どうすればそんなことが出来るのかは、二人は教えてくれなかったけれど。

 泣き腫らした赤い眼を大きく見開いたまま、梨華が二人に尋ねる。

「・・・どうして、いつから知ってたの?」

「二年くらい前??かな?海斗。」

「だな。・・・本当はおふくろにチクった方がいいのかなって悩んだんだけど、おふくろめっちゃ痩せたじゃん?」

「もしかして、母さんは勘付いてて、それで具合悪くなっちまったんじゃないかって。それなら、余計な事言わないようにしたほうがいいだろって決めたんだ。」

「これ以上体調悪くなったら大変だから、出来る限りそっとしておこうかって。」

 涙を止めたつもりだったのに、またも梨華の涙腺が緩くなる。

 二人が寡黙になったのは、やはり親のせいだったのだ。思春期ゆえの反抗期なんかではない。

 母親の体調を気遣って、何も言わないでいてくれた。それは梨華の性質を理解したうえでのことだ。下手な事を伝えてより深く傷つくだろう梨華を思いやってくれた。

 それに比べて、夫の態度はどうだろう。

 いまだにキッチンで立ち尽くしている頼人は、呆けたような顔で呆然とこちらを見ている。

 梨華の視線に気づいて、ようやく立ち直ったのかずかずかと大股でリビングへ戻ってきた。

「・・・浮気だの不倫だのって、どんな証拠があるって言うんだ。勝手な憶測でものを言うな。」

 態度だけは大きいまま、しかし、声音はもう最初程の力がない。息子たちに知られていたことにかなりショックを受けているのだろう。

「じゃあオヤジだって証拠も無いのにおふくろのこと責める資格ないだろ。たかだか向かいあって喫茶店でお茶飲んでただけで、焼きもちやいてダッセ。」

「話を聞いていたのか!?」

「そもそも自分が後ろめたいことしてるから、そうやって人の事も浮気だって決めつけてんだよな。悪いのは自分だけじゃないって、そう思いたいからさ。」

「証拠を出せ、とか言うのも常套句だよな。真っ黒なの間違いない。」

 両親ともに息子の台詞に驚くしかなかった。

 正論をぶちかます海斗と陸斗がこんなに喋るのを聞いたのは、随分と久しぶりだ。

 そしてその言葉には間違いなく正義が含まれている。二人の若さゆえの潔癖さが、不倫と言う行為の汚さを一層際立たせているのだ。

 父親を非難する海斗と陸斗の言葉に容赦はない。

 それはつまり、それなりの覚悟を持って言っているという事だ。

 父親が自分たちを捨てるかもしれない、という可能性さえ、認識したうえで母親を庇おうとしている。

 梨華には、そう思えてならなかった。

 自分に都合の良すぎる話だとわかっていても。  

 

 

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