背中に生死をかけて

 気づいたら「居酒屋あくりかわ」の常連となっていた藤吉ふじよしふみは、いつものようにカウンター席で一人、酒と料理を楽しんでいた。この店に通うようになったのは料理の質が良いからということだけではなく、安心して飲めるということも理由に挙げられる。


 ただいつもと違うのは、テーブル席がほぼ満員の為、カウンターにも人がいるということだ。おとなしい人間が隣席ならば気にはならない。こちらが酒を飲んでボケーッとしているところを見られても構わないが、この間のように酒乱が来ると、この贅沢な時間が台無しになる。そんな時は安全装置であるニンジャを呼べばいいのだが。


 隣に座っているTシャツ姿の若い男は、背筋を伸ばして日本酒のグラスを傾けている。この様子なら絡まれることはなさそうだ。


 カバンから文庫本を取り出し、目を落とす。毎晩読み進めている「秀吉様、ひょうたんをおしずめください! 第1巻『〜密室!くんずほぐれつ清洲会議!〜寝床と草履は人肌に』」が佳境に入っているのだ。

 燃え上がる本能寺、残すはふんどし一枚となった信長様のお信長様を守るため、しゃがみこんだ秀吉が両手の草履で信長様のお信長様を挟み込む耽美な挿絵は、家でゆっくり、一人で、楽しむことにしよう。

 登場人物全員の熱視線を浴びる信長を全裸で退場させるのは良い手だが、禁じ手でもある。この後は光秀も参加するのだろうか、伊賀でお楽しみ中の家康はどうなるのか。史恵は歴史教師という職業を忘れ、腐りきってポコポコいっている脳みそで想像しながら新鮮なホヤを口に運んだ。



 突然、店内が揺れた。地震だ。

 テーブル席の客はすぐさま店外へと避難、店内には火の元を確認する大将と店員、そして史恵と隣の男だけが残っていた。ただ恐怖で固まっていただけの史恵は周囲を見渡し、やっと状況を理解した。大将が静かに声をかけてくれる。


「お客さん、ああいう時はとりあえず表に出てください」

「けど……」

「お勘定とかは気にしないで。こっちも顔を覚えてるから」


 史恵は、自分の驕りを恥じた。何があっても自分だけは大丈夫なはず、という思い込みを天災が浮き彫りにしたのだ。

 ふと、隣の男と目が合った。


「今の、大きかったですよね」

「震度4くらいかと思いました。怖くて動けませんでしたよ」


 会話はそれで終わったが、屈託のない笑顔で恐怖を告白した若い男に、史恵は共感を覚えた。どれほど経ったろうか、店外へ避難した客たちが戻ってきた。年配の男が、カウンターの若い男に声をかける。


「戸馳ちゃん、なんで逃げないのよ?」

「恐怖で足がすくみました」

「かーっ! これだから東京者は! かーっ! ゲームばっかやってっからじゃねえの!?」


 ちげえねえ、という他の客の笑い声が響いた。あまりの声の大きさと内容の無さに、史恵は年配の男を見る。この間の酒屋だった。確か酎條ちゅうじょうといったか。

 またおまえか、と言いたげな史恵の顔を酎條は見逃さなかった。


「おっ、このきれいな姉ちゃん、戸馳さんのコレ?」


 酎條は酔っぱらいマナーに従い、小指をおっ立てた。慌てた戸馳が訂正する。


「ち、違いますよ!」

「じゃあ従業員け? おれ、指名しちゃうよ!?」


 どうやら酎條は史恵のことを覚えてすらいないらしい。戸馳が何の店を経営しているのかは知らないが、必死で否定している姿がかわいそうになったので、史恵はマスターに声をかけた。


「あのー。すいません、ニンジャを……」


 マスターが頷き、電話をかけてから10秒後、店の入口がものすごい速さで開けられた。全身黒尽くめの巨大な黒人が目だけをギョロギョロさせながら大将の指示を仰ぐ。指差しサインに従い、カウンターの酎條にドカドカと歩み寄って襟首を掴む。そのまま力任せに引っ張ったところ、酎條の靴が戸馳と呼ばれた男のTシャツに引っかかり、裸の背中が丸出しになった。


 丸出しの背中に、巨大な魚の入れ墨。周囲が息を呑んだ。酎條などは顔色を失ったまま店外へ消えていった。Tシャツがめくれていることに気づいた戸馳は、慌てて元に戻す。

 史恵も見た。どう見ても大口を開けた鮭の入れ墨である。ご丁寧にイクラよりは若干白い卵まで描かれていたようだ。なぜ。なぜ鮭の射精の瞬間を背中に。

 バツが悪そうな顔で戸馳は史恵に話しかける。


「すみません、すぐに出ていきますんで」

「あ、いえお構いなく。悪いのはさっきのおじさんなので」


 笑いをこらえながら史恵は応えた。しかし笑ってはいけない状況になると、かえって笑いたくなるものだ。ましてやアルコールが回っている状況である。史恵の横隔膜は痙攣を始め、眼窩内には涙が溢れた。

 かたかたと震えている史恵を見て、戸馳は大きな勘違いをした。怖くて震えていると思ったのである。


「誠に申し訳ない。すぐに出ていきます」

「クッ……! じゃあ一つだけ……き、聞かせてください」

「なんなりと」

「なんでせ、背中に鮭が……! ククッ……!」


 ああ、それですかと戸馳は頷いた。


「兄貴の指示で、彫師が勝手にやったんです。『お前みたいなもんは鮭が死ぬ瞬間でええわ』と」


 史恵は震えが止まらず、呼吸すらままならない。ヒューヒューという空気の漏れる音が自分の耳から聴こえてきた。


「結局、自分の名前をいじられたんです」

「お、お名前は……?」

戸馳とばせせいと申します」


 とばせ、せいじ。こらえきれず、遂に史恵は天を仰いで笑った。

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げんきなまち〜奥州一年合戦〜 桑原賢五郎丸 @coffee_oic

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