第3話 城戸ルキ

 車内で女は色々と話しかけてきた。

 だが、俺はうつむいて生返事をするのみ。

 話の内容など、何一つ入っては来ない。

 唐辛子スプレーの余韻が尾を引いていて、ほとんどの感覚器官が火を吹いているから。

 特に目と鼻の粘膜は、時間の経過とともに熱さと痛さを増してきている。

 やがて、クルマはやたらと人通りの多い巨大ビルの前に停止。

 体感的にはどら焼きのごとく膨らんだまぶたを細く開けて、彼女の後ろについて、だだっ広い一階ロビーに入る。

 視界の端にトイレのマークをみとめた俺は一直線に駆けた。

 火照る顔を冷やし、洗わないと耐えられない。

 しかし、とばっちりですら、この始末。

 暴力ハゲの受けたダメージが推しはかれる。

 ざまあみやがれ。


 彼女はトイレの前で待っていてくれた。

 流水で顔面の穴と言う穴を冷却した俺は、やっと、まともにその姿を拝んだ。

 年は俺とそう変わらないだろう。

 小柄で小顔で、猫っぽい真ん丸なつり目。

 ぴったりしたビジネススーツが腰のくびれを強調している。

 俺、こういうの好き。

 固い格好だからこそ際立つエッチさというものがあるのだよ。

「あら。目、真っ赤。これ絶対にスプレーのせいよね。ごめんなさいね」

「いや、でも、助かったから。それから、ほら、カプサイシンは健康にいいし」

 俺は何を言ってるんだ。

「とにかく、オフィスで一息つきましょう」

 女は会話をスパッと打ち切り、まわれ右。

 エレベーターホールへ足を進める。

 俺はポニーテールに見え隠れする白いうなじと、グレーのスーツにぴっちりと包まれたヒップを追って歩き始める。


 エレベーターは三十三階で停まった。

 降りたのは俺と彼女だけ。

 壁も天井も真っ白なフロアで、ここがどこなのか、何の手がかりもない。

 重力がなければ上下左右すら怪しい。

 おどおどと周りを見つつ、案内されるままに小じんまりとした部屋へ通される。

 四方の壁がホワイトボードになっており、四人掛けのテーブルとイスが置かれている。

 いかにも会議室然、真面目な会社でございな雰囲気だ。

「ちょっと待ってて」

 彼女はそう言い残して出て行った。

 空調の音だけが流れている。

 心を落ち着かせてみる。

 今日を振り返ってみる。


 アキバにPCを買いに行ったら、凶暴なスキンヘッドに襲われて、美女が助けてくれたが、唐辛子で顔面を腫らしまくって、気が付くとお洒落な高層オフィスビルにいた。

 なんて日だ。

 振り返ったら、余計に心が落ち着かなくなった。

 高そうな背もたれがメッシュのイスに身体を預ける。

 俺、心身ともに疲れてるな。

 早く帰ってゲームしてエッチな動画を見て寝たい……と思っているところへ彼女が戻ってきた。エッチな動画の内容に思考が及ぶ前でよかった。


「アイスコーヒーでいいよね」

 汗をかいたグラスが置かれたので、鷲づかみで一気に流し込んだ。

 苦い。

「じゃ、ちゃんとご挨拶します。株式会社ウラノスの城戸ルキです」

「あ、ごめん。名刺持ってないです。桜葉メイジです。さっき、ありがと」

「うん。いいの。それより、ひさしぶりね」

 ええと? いや、まったく覚えがありません。

 もう何年も、女性とはコンビニのレジでしか会話してないし。

「あれ、覚えてないっぽい? んー」

 頬に手をあてて思案顔。

 なぜか、舌をペロリ。

 小動物っぽくて可愛い。

「きっと、話してる内に思い出すでしょ」

 話し続けるのは、美人相手だから苦痛じゃない、むしろ歓迎だけども。

 しかし、誰だ?

 もしかして、性転換して整形した男友達?

 いや、この手の背格好の男は知らん。

 そもそも性別に関わらず知り合いは少ないし。

 こっちがポーっとしてる間に、ルキと名乗る女は会社の説明を始めた。

「ウラノスはいわゆるITコンテンツ企業ね。SNSや通販サイト、音楽配信にオンラインゲーム、色々な企画と設計と運用をしてるネットベンチャーってやつ」

 俺は心を入れないまま相槌をし、会話を続ける。

「ああ、結構、大手ですよね。企業のサイトとかアプリとかも作って……ええと、らして」

 まとめニュースサイトを作ってる身には、お馴染みの社名だ。

 くだらない話題にはこと欠かない新進IT企業として。

 辞めたエンジニアが社内のあることないことをSNSで吹きまくった末に敗訴。

 セクハラにあった女子社員が部長のエロ画像をネットで公開。

 社長がスピリチュアルにはまり怪しい商品を発売などなど。

「よく知ってるね。大きいとはいえ、裏方企業なのに。もしかして、こっち系の仕事かしら」

 こっち系というのは、どっち系?

 ネット関連という意味なら、まあ、なあ。

「はい、一応。サイトを作ったりして……おります」

「もう、無理に敬語使わなくていいよ。私がタメでしゃべってるんだから」

「ああ。ネットでライターとかコンテンツ企画とか広告系とかやってま……やってる」

 ウソじゃないぞ。

 まとめサイトのテキスト書きはしてるし。

 アフィリエイトバナーを載せる仕事は広告系に入るはずだ。

 情報商材の制作もコンテンツ作りだろう。

「へえ、個人事業主? メイジくん、頑張ってるんだ。うーん、じゃあさ、あのさ。よければ、だけど。うちの仕事、やってみない?」

「え?」

 ウラノスが俺に発注?

 上場企業だぞ。

「仕事といっても、企画書を出してもらって、通ったら本契約だけど。企画代だけでも三十は出せると思う」

 万円だよな。円だったら泣くぞ。

 俺の月収はだいたい十万だ。受けたい。

「詳しい話を聞かせて……ください」

「敬語はいいってば。じゃ、メールアドレス教えてくれる? 資料を送るから」

 俺は、彼女の差し出すメモ用紙にアルファベットを走り書いた。

「ありがと。ところでさ」

 彼女は、深呼吸と溜め息の中間の「ふーっ」という呼気を出してから、俺の目を見つめてきた。

 うっ、可愛い。

「メイジくん。私のこと、完全に忘れちゃったの?」

 つぶらな瞳がうるうるしている。

 まるで、乙女の懇願という感じ。

「ごめん。ヒントある? せめて、最後に会ったのが、いつくらいかだけでも」

 考えても、悩んでも、出てこない。

「んー、二十年は経ってないかな。思い出したら教えて。メールでも、電話でもいいから。ねっ」

 彼女はいたずらっぽく微笑んで立ち上がり、ドアを開けた。

「ごめんなさい。この後、すぐに会議が入ってまして」

 今度はビジネスライクな口調。

 何の疑問も解消されず、というか謎は増える一方。

 二十年前って、小学校の同級生?

 仲のいい女子なんかいなかったぞ。

 エレベータの扉が閉まる直前、彼女は笑顔で手を振った。

 その姿が海馬をくすぐる。

 手を振る小さな女の子……だが、具体的な像には辿り着けなかった。

 ただ、確かなことはある。

 今日は目的こそ果たせなかったが、美女とつながりができて、おいしい仕事が舞い込んできた。

 これは勝利といっていいんじゃないか。

 ランチはビール付きでガツンと行こう。

 PCに化けるはずだった軍資金もあることだし。

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