第10話 潮騒

浦部市の白美浜は古くは白波浜と呼ばれ、白い砂浜と穏やかな海が美しい景勝地だ。

 堤防沿いに車を停め、浜におりた三角は評判通りの絶景に言葉を失った。三角の背後から海岸を伺う吾妻も、その景観に警戒を解かれた。白い砂浜と水平線の碧までのグラデーションの海は太陽の光を反射して輝く白美浜の海は、吾妻の恐れる重たい青に満たされた海とは似ても似つかない。


 なるほど、確かに。人気が出るわけだ。

 三角は、小さくつぶやいた。


 砂を踏みしめて歩くと粒の小さな砂が踏みしめられて固まる感覚が靴を通して伝わってくる。足元で軋む砂の音も心地よい。


 十歩も歩かないうちに砂が靴に入り込む。汗ばんだ靴下にはりついた砂が存在を主張して気持ちが悪い。一度靴の脱ぎ砂を落としても、落としきれない砂と新たに入り込む砂で、いたちごっこだ。

 

 気を紛らわせようと波打ち際に向かうと、はしゃぐ観光客に混じって陰鬱な雰囲気をまとった女性が目をひいた。足首までを海水に浸して、その女はぼうっと水平線を見つめて動かない。


「おひとりですか?」

「……はい?」

「いえ、ちょっと珍しいなって。地元の方ですか?」

「ちがいます」


 そっけない相手の反応に、三角はつまらなさそうに海を一瞥した。


「綺麗な海ですよね。有名なだけあります。時々、クジラも見えるそうで」

「らしいですね。……けど、怖いですよね。海って広くて、深くて……。見えないところに大きな生き物がいるって……、不気味で」


 そう言って、水平線を見つめる女が纏う空気は水泡のように儚い。


「そうですか。……ただ、この海は不気味とは思えないですが」


 彼女の視線を追って、空と海の境に目をやると、クジラがはねたのか遠くでしぶきが上がったのが見えた。何人かの観光客もそれに気づいた様子で、小さな歓声が起こったが、三角にははしゃぐ観光客の声がひどく遠くに感じられた。

 後ろに控えている吾妻は、一人で佇んでいる女性の姿に見覚えがあるのか、おずおずと女に近付いた。ごくり、と一度生つばを飲み込んだ。


「あのう、以前どこかでお会いしませんでした?」


 女は水平線から目を逸らさない。


「さあ、どうですかね」

 

 そっけない返事に吾妻は食い気味に、


「3年前です。覚えてませんか、ポストカードと、豪雨……」


 瞬間、女性の顔がサッと血の気が引いた。息が荒くなり、目線も落ち着かない女性の姿は、のどかな浜辺には似合わない。


「あのとき会った、牛島……さんですよね」


 女性は小さな声でブツブツと「ごめんなさい」と何度も繰り返し、すがるような眼を吾妻に向ける。充血した目からは涙が溢れ、瞬きもせずにずっと吾妻を見つめている。


 ああ、これが怖かったんだ。

 3年前、この地域を離れてやっと嫌な予感から逃れられたと思っていた。

この土地に来たら、自分と同じ経験をした人に出会えば、時間が動き出すと思って、あの絵を思い出すのが怖くて、電車で聞いた連絡先も消してしまった。そして、自分が巻き込んだかもしれない人に会うのが何よりも怖かったのだ―――。


 吾妻と女—牛島は、しばらく話し込んだあと、三角のすすめで連絡先を交換することにした。


 背中を丸めて乗り込んだ車の中は蒸し風呂になっていた。車に乗り込んだ三角は、忙しなくエンジンキーを回す。生温いエアコンの風が汗ばんだ肌を乾かす。


「ああ、そうだこっちに知り合いがいたんだ」

「知り合い……、そうですね。3年前にちょっと会っただけの人なんですけど」


 それが、強烈に残っていて。

 吾妻は堰を切ったように3年前の出来事について話す。胸のつかえがとれたのか、言葉に詰まることはない。3年前に来たこの地である絵を見てから、いや絵の中の怪物に魅入られてからずっと、海が恐ろしい。時折嗚咽を漏らしながらも、すべてを説明した彼女の声はどこか晴れ晴れしかった。


「じゃあ、その曼荼羅を見に行きましょうか。吾妻さんは、……無理そうならついてこなくても」 


 吾妻の話を聞き終えた三角はパンフレットを取り出し、地図を確認する。

 エアコンの風は冷たくなり、車内はすっかり冷えていた。


「いえ、行きます」


 車を走らせ、浜を後にする。

 砂浜に残された粒の細かい砂が作った足跡、窪みに落ちる影が砂を灰色に染めていた。





 観光客でごった返していた海岸とは対照的に、民俗資料館の駐車場はいていた。三角にとっては、初めてきた田舎の一資料館でしかないが、吾妻にとっては悪夢のきっかけになったといえる忌々しい場所だ。受付は相変わらず無愛想な態度で吾妻の神経を逆なでしたが、以前来た時に嗅いだ生臭いにおいは全くしない。古くなった木と紙、そして冷房の冷たい空気に満たされた館内は静かだ。

 吾妻は、不機嫌そうな表情の受付に恐る恐る話しかけた。3年前、あの曼荼羅を解説してくれた職員に会うことができれば、何かわかるかもしれないという淡い期待があったのだ。


「前、若い職員さんいませんでしたっけ」

「若い……? ああ、神倉君か」

「彼はねぇ、行方不明なんだよ」


 怒っているのか心配しているのか迷惑なのか、その声色からうかがい知ることはできない。しかし、深いため息をつくその職員の目は憂いを帯びていて、吾妻には追及することができなかった。


 受付からパンフレットを受け取り三角は奥へ進む。その背中を見送ったあと、吾妻は受付近くの長椅子で待つことにした。

 


 吾妻に見送られ、三角は資料館の奥へ進む。目的は吾妻が見たという曼荼羅だ。人気ひとけのない室内に足音を響かせながら、三角は展示品を確認していくが、古い漁具に、地域のジオラマなど、資料館の展示は充実してはいるものの、取り立ててものはなかった。——一つの展示品を除いて。


「問題なのは、これか」


 三角は壁に飾られた絵図、その下にある解説パネルに視線を落とした。


 絵図浦部補陀落曼荼羅

——浦部地域には、補陀落渡海(海の向こうにあるという浄土へ、小舟に乗って渡ろうとする捨身行のこと)が行われてきた歴史があります。この曼荼羅は、渡海に挑む僧と、僧を見送る人々を描いたものと伝えられています。


 視線を上げた三角の目に映るのは、色彩豊かに描かれた浦部の海と、波間の小舟、そして小舟を見つめる人々の絵だ。波間にはところどころ黒い影、——イルカかクジラだろうか、が描かれていた。


 吾妻さんは、黒い生き物の絵がこちらを見ていたと言っていたか。三角は目を凝らして、黒い影を観察するが何もおかしいところはないように感じる。むしろ、波と小舟の方が視線に合わせて自在に動いて、まるで、自分が小舟に乗っているような、そんな錯覚に陥った。


 気が付けば、滲み出ていた汗が冷房に冷やされたのか悪寒が走った。窓から入り込んだらしい潮のにおいが館内に満ちていた。


「……気味が悪いことに違いはないな」


 きびすを返し、吾妻の待つ受付に向かう。

 一瞬、背中に視線を感じたが、三角が振り返ることはなかった。


 

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遠海へは死出の旅 笛吹ケトル @k_river

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