二部

第9話 渡海

「毎日、同じ悪夢を見るんです」


 午後10時、ファミリーレストランでコーヒーを啜る三角崇のもとへやってきた女はひどく憔悴した様子だった。頬はやせこけ、顔色はもう何年も深海にいて陽の光をあびていないのではないかというほど青白い。真っ青な顔に、真っ赤に充血した目が落ち着きなく泳いでいるさまは、深海魚を思わせる。細い声をなんとか絞り出した彼女は、その小さい声とともに今にも消え失せてしまいそうだった。


「真っ暗な海のなか。うろこに覆われた人影が……、こっちを見てるの」


 俺はカウンセラーじゃないんだが。三角崇は喉まで出かかった言葉をコーヒーと一緒に飲み込んだ。目を離したらどこかへ行って帰ってこない。そんな危うさを、目の前の彼女に感じたからだ。それに、こうした相談に三角は慣れていた。三角はこういった狂気に蝕まれた人に何度か会ったことがある。それ以来、三角は狂気のふちで、未知の世界に魅かれながらもずっと二の足を踏んでいる。そして今、目の前の女が語る荒唐無稽な相談も境界線の向こう側からの手招きであると直感していた。


「3年前、ある絵を見てから……、何かが変なんです。波の音や雨音が私を呼んでいる……。深い海の底から声が聞こえるんです」


 女性は大学の教授の紹介を受けて、三角に会いに来た。卒業論文の下準備のために訪れた町で、ある絵、浦部補陀落曼荼羅という絵に描かれたを見てから、悪夢にうなされるようになったという。憔悴した女性を見かねた教授が、三角を紹介したのが今から1年前のことだ。教授のゼミ生だったらしい三角はなにやら怪異に通じているらしく、狂気に憑りつかれた人を相手に相談を受ける仕事をしているらしいとのことだった。卒業論文や就職活動に追われながら連絡を取りあい、そろそろ立秋という頃にやっと対面までありつけたのである。


 女性の相談は、ある絵を見てから深海から呼ばれている、またあの町に行かなければならない気がしてならない、というものだ。そして同時に、もしもまたあの地域を訪れたら、呼び声に応えたら自分はどうなってしまうのか不安で仕方がない。と、小声でまくし立てるような早口で語る女性の姿は、すでに狂気の渦中にあるように見えた。


 静かに話を聞いていた三角は、息が切れ苦しそうな様子の女性に、


「分かりました、吾妻さん。この三角崇が、あなたの悩みを解決して見せましょう」


 〇



 浦部町観光案内所は浦部駅から徒歩3分、駅の真向かいの建物にある。

 三角崇と吾妻鏡子は、観光客でにぎわう浦部駅を抜けて案内所のドアを開けた。冷房の効きが悪いのか、生暖かさを感じる案内所は、青く広大な海を映したポスターとパンフレットに溢れている。真っ青な海の写真に囲まれて吾妻は思わず息を飲んだ。


「こんにちは。なにかお探しですか」


 物色する三角を若い女性の職員が出迎えた。首から下げたネームプレートを見ると「勇魚清美」というらしい。


「はい、海が綺麗に見えるスポットと……、ああ、あとは町の歴史が分かるような場所、資料館に行きたいんですよね」

「でしたら、白美浜がオススメです。白い砂浜と青い海のコントラストが魅力的で、SNS映えも最高です。それと……歴史でしたら、民俗資料館か図書館がいいと思いますよ」

「ありがとうございます。行ってみます」


 こそこそと落ち着かない吾妻をちらりと見た後で、三角は目を細めて笑って見せた。

 

「めずらしいですね。若い人が浦部の歴史に興味を持つなんて。高齢の方だと結構いらっしゃるんですけどね。景観がよく注目される浦部ですけど、歴史的にもおもしろい町なんですよ」


 そうなんですか。短い相槌をうって、三角はパンフレットを手に取った。パンフレットには観光名所のほかに、町の歴史が紹介されていた。


「パンフレット、もらっても?」

「はい。どうぞ」


 三角は案内所を出て、すぐさま車に乗り込むと、途中で買った缶コーヒーを飲みながらパンフレットを開いた。簡易な地図を見て、隣に座っている吾妻に「白美浜」を指した。


「とりあえず、浜にでも行ってみようか。海が気になるみたいだし。吾妻さんは海が無理そうなら車で待っていてくれたらいいから」


 三角はパンフレットを助手の吾妻に渡し、エンジンキーを回した。


「ん?何か気になることでもあったかい」


 三角は隣で浮かない顔で案内所を見つめている吾妻に声をかけた。


「あの案内所の人、会ったことがあるような気がして」

「へえ」


 車内には冷房の風音とエンジン音だけが、響いていた。

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