第8話 帰り路

 昨日の大雨が嘘のように空には雲一つない。天高くから降り注ぐ太陽の光は、水たまりに反射し地上を彩っている。肌をなでる風は冷たく、夏の終わりを予感させた。幸い昨日の暴風雨は一夜のもので、大きな災害になることはなく、過ぎ去ってしまえば、あとは世間話の種になるだけだ。

 運休となっていた電車も運行を再開し、一晩の非日常はすっかり終息してしまった。――ように思えた。


 磯良駅は風に飛ばされた葉や枝が散乱しているものの、それ以外は雨風の傷跡はないようで、数日前に勇魚たちが来た時のままの姿であった。むしろ雨に洗われて、駅舎は綺麗になった気さえする。

 昼ごろ、潮で汚れた白い車が枝葉を踏みつぶす音を響かせて駐車場に進入した。運転席に座っているのは、勇魚清美である。後部座席には牛島が荷物を抱えて座っていた。2人は言葉を交わすことはなく、牛島はじっと外の景色を眺めるだけだ。その目はどこを見ているのか、光のない黒に染まっていた。


「ちょっと早すぎたかな」


 時間を確認した勇魚は牛島に話しかけた。しかし、返事はない。


「私はもうしばらく実家にいるから、先に帰らせてごめん」


 ふさぎ込んだ様子の牛島に、気おくれした勇魚は早口で語りかける。小さく頷いた牛島に、勇魚はほっと胸を撫で下ろした。しばらく喋る事もなく冷房の音だけが響く車内はひどく寂しい。沈黙に耐えられなくなった勇魚は車を駐めてすぐに、外に出た。空気は軽く、見晴らしのいい駅駐車場は開放感があった。


 友達と楽しい夏休みを過ごすつもりだったのに。昨日、外に出て行きたがったあの時からはどこか変だ。ふさぎ込んだようになって、あんまり喋らないし、時々考え込んだようになって海へ行きたがる。


「なんでこんなんなっちゃったのかなあ」


 大きく息を吐きながら愚痴を言う。まだ車の中にいる牛島には聞こえていないだろう。気分を変えようと、少し体を動かすと、窓ガラスの向こう、ずっと静かな牛島と目があった。


「そろそろ、電車くるんじゃないかな」


 ドアを開けて降りるように促すと、牛島は何も言わずに車を降りてホームへ向かった。

 雨が去って秋の訪れを告げる涼しい風が吹くようになったのか、無言のまま電車を待つ時間が寒々しいのか、勇魚は空気を冷たく感じ、小さく震えた。

 やがて電車が到着すると、牛島は「ありがとう」と小声で礼を言い、電車に乗り込む。勇魚が手を振ると、牛島も振り返す。窓の反射で表情は見えないが、振り返してくれたということは、見かけほど塞いでいるわけではないのかもしれない。

 電車が見えなくなるのを見送って、勇魚は車に戻った。車はすぐに発進し駐車場を出ると、ゆっくりと坂を下っていった。




 ガラガラに空いている電車内。牛島はドア近くの席に腰かけ、流れていく景色を、空を映した蒼海を、身動きすることなく眺めていた。トンネルを抜けても、代わり映えのしない景色が続くなか、電車は浦部駅に停まった。


 浦部駅で乗り込んできた女は、牛島の姿を見つけると近くまで歩み寄り、向かいの席に腰を下ろした。


「すみません、あのー、お土産屋さんで会った人ですよね」


 いきなり声をかけられ、牛島の肩がはねた。遠くの景色から目の前に座った女性に焦点をあわせると、確かに一度見た顔をしている。


 お土産屋で“黒いクジラのようなもの”を見たあの日、……あのポストカードを落とした人だ。裏返しに置かれていたポストカード、あれを手に取ってから――。

 牛島の顔から一瞬のうちにサッと血の気が引く。いきなり青ざめた牛島に、女性は視線を泳がせた。


「その、あの時、お土産屋で……。もしも、あの絵を見てて、さ」


 牛島の様子を伺いながら、女性はおどおどと語りだした。


「もし、わたしと同じように、あの絵に嫌なものを感じていたとしたら……。昨日の夜、雨の中に“声”を聴いたんじゃないかって。ずっと気になってたの」


 きょろきょろと、辺りを見渡しながら、女性は早口でまくし立てた。


「いや、ごめんなさい。ホント、わたし何を言ってるか」

「……聞いたよ、“声”。海の方から、私を呼ぶ声が雨音に紛れて……」


 牛島の返事に、女性は一瞬、嬉しそうな表情を浮かべたが、沈鬱そのものな相手の様子を見て、すぐにまた落ち着きがなくなった。


「あの夜、わたしも確かに聞いたの、よく聞き取れなかったけど。なにかを讃えているような、それとも呼んでいるのか分からないけど、すごく気分の悪くなる響きの“声”だった。聞きたくないのに、体が固まったようになって耳をふさげない、聞いていないと駄目みたいな、頭の中でずうっと消えないの」


 一息に話す女性の声は小さい。牛島は聞き手に徹し、自分そっくりの体験をしたいう奇妙な女性の話を静かに、誠実さをもって聞いていた。気味が悪い、と一蹴してもいいような与太話だ。だが、それをできないほどに、女が語る話は牛島自身の経験と似通っていた。しばらく女性は一人で喋っていたが、反応の薄い聞き手に我に返り、「ごめんなさい」と小さく謝るとおもむろにスマートフォンを取り出した。


「連絡先を聞いてもいいですか? この経験を共有できる相手がほしいの。あなたもきっと、同じでしょう?」


 安心の笑みと、怪異への恐れが絡み合った複雑な顔。スマホを取り出した手は震えていた。すぐ向かいに座っているはずの女性がひどく遠くいるようだ。


「いいですよ。私も、不安なので」


牛島は手元のバッグからスマートフォンを取り出した。

 


 2人の不安をよそに、電車は一定のリズムを刻み磯良から遠ざかっていく。電車の走る音だけが耳にこだまする。よく冷えた車内にさす陽光は暖かく、乗客たちは眠りの世界へと誘われていった。


“また、ここに来る”


 そんな予感を孕んだ夢は、海のなか。

 光のない海底都市に2人を連れ去った。



 〇



 暴風雨から一晩明けた磯に、岩に飛び散る波飛沫を浴びる人影があった。人影は、遠く水平線をじっと見つめて動かない。天からの光が顔に影を落とし、その表情は知れないが、頬についた波飛沫は涙のようにも見えた。

 田垣内逸は一人、海を凝望する。

 波が作る模様は、建造物のようにも見えた。寄せては返す波に、白昼夢に陥りそうになる。海に吸い込まれる感覚を覚えた瞬間、足場に躓き、意識が戻った。上空を旋回するトンビの鳴き声が、何かの警告のメッセージに聞こえて、田垣内は初めて磯を不気味に思った。

 心地よい聞きなれた波の音に後ろ髪を引かれながらも踵を返し、磯を後にする。


 ――あの暴風雨の夜。以来、連絡の取れない友人を思いながら。

 田垣内は乱暴に車に乗り込んだ。

 

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