第3話 肴

 久しぶりに帰ってきた自分の部屋に空気を入れようと窓を開けると、風と虫の音が家の中に流れ込んできた。夜、日が落ちた後のひんやりとした空気はどこか湿気っぽく、土のにおいを含んでいた。ジリリリと、虫の音が聞こえてくる。何の虫かは知れないが、その物寂しい鳴き声に勇魚は秋の気配を感じていた。

 パチン。電気のスイッチを入れる音が聞こえ振り向くと、牛島がスイッチの前に立っているのが見える。勇魚は慌てて窓を閉める。電灯は何度か明滅したあと、整頓された洒落っ気のない部屋に、黄色い光を落とした。


「結構広い部屋だね」

「うん、まあ田舎の家やし。広さだけが取り柄みたいなところあるからね。……うちに泊まってる間はこの部屋使ってね。……ただし、あんまり漁らんといてよ」


 荷物を置きに来た牛島は部屋を見渡すし、勇魚に微笑みかけた。


「わたし、こういう自分の部屋っていうのに憧れてたから。ちょっとテンション上がっちゃうな」

「ふーん、そういうもんなん」


 羨ましいなあ、そう言って牛島は目を細める。あまり見たことのない友達の表情に、勇魚は目を奪われた。


「キヨ、ご飯の準備手伝って―」


 台所から聞こえてきた母親の声に、我に返る。

 分かった、と声を張り上げる。急に大声を出したからか、喉から発せられた声は間延びしていて締まらない。ふと牛島の方を見てみると、母親とのやり取りを見守っていたようだ。優しく和やかな表情をたたえている。清美は思わず赤面した。さっきの母とのやり取りがどうにも子どもっぽいものに思え、大人然とした友だちとのギャップに恥ずかしくなったのだ。


「じゃあ、手伝ってくるから。後でね」


 上ずった声を部屋に残し、逃げるように勇魚は部屋を後にした。

 部屋に残された牛島は、しばらく部屋の中を物色したあとでカーテンを開けた。

 田舎の星空は綺麗らしい、勇魚もよく誇らしげに話していた。

 空を見上げると、濃紺に藍を溶かした、吸い込まれそうな夜空が広がっていた。煌々と輝く月は青白く、空に散らばった星辰はちらちらと瞬き、月に負けじと自らの存在を主張している。美しくもあり、どこか不気味にも感じられるほど輝く星空は、暗い夜の中に、より一層濃い陰を創り出していた。


 しばらく夜空の星を眺めていると、いつの間にか蛾やカナブンが網戸に張り付いていた。星空にはもう飽きたと、虫の腹でも観察しようかとし始めたころ、台所から牛島を呼ぶ声が聞こえた。


 急いで台所に向かう。古い民家は牛島が歩くたびにギイギイと軋むような音を立てる。慣れない家に戸惑いながら声のした方に向かうと、皿を運ぶ清美の姿が見えた。台所に入ると、食卓の上にはすでに食事の用意がされていた。食卓に並ぶ品々の豪華さに、牛島は目を見開いた。机の上には4人分の茶碗が並べられ、中央には白身魚の刺身に伊勢海老の刺身、アジのなめろうが置かれている。驚きを隠せないまま小さく頭を下げて席につくが、何やら会話をしている清美とその母親に話しかけることもできず、所在ない。


 ようやく準備が終わり、清美と美波も席につく。清美は椅子に深く座り直したあと、きょろきょろとあたりを見回した。


「あれ、お父さんは?」


「もうちょっとしたら帰ってくるって。キヨの友達来るって言うとったし、もう食事の準備もしたったのに……」


 不機嫌な美波の声色に、牛島の肩が強張る。助けを求めるか細い視線は、幸いなことにすぐに清美に捉えられた。


「ま、お父さんなんか放っておいて、もう食べちゃおう。今日の夕飯は豪華だしさ。じっと眺めてよだれを垂らすだけなんてもったいない。さ、お母さんも、も食べた食べた」


 明るくはやし立てる清美に乗せられるように、美波と牛島は箸を手に持った。

―――いただきます。

 大皿の刺身をとる。小皿の醤油につけると、脂が醤油の上に溶けだし、照明の光にきらめいた。その様子を何か期待するように、清美が目を輝かせている。その視線に緊張しながらも、刺身を口に運んだ。


「美味しい!」


 刺身なんて、夜のスーパーで割引シールが貼られたくらいのものしか食べたことがなかった。そんな牛島にとって、勇魚家で食べた刺身は瑞々しく格別だった。清美は満面の笑みで刺身を頬張る牛島を見つめていた。




 当たり前だけど、大学にいる時よりリラックスしてるよなあ。

 牛島は、母親と話す清美を見ながらふと思い出した。

 初めて勇魚清美と会ったのは、大学1年生の第2外国語の講義だったか。田舎から進学してきた勇魚は大学に友人がおらず、その上初めての環境に戸惑い周囲の輪にもなかなか入れずにいた。講義室の端で忙しなくあちこち見回しているのが心配で声をかけたのだ。牛島自身も1年の浪人の後で進学したために、周りに引け目を感じて孤立していた。余りものどうしで、とりあえず一緒にいよう。そう言って始まった付き合いだったが、家に誘ってもらえるほどになるとは。

 やわらかい表情で親子の会話を楽しむ友人の姿に、不意に感じいってしまう。


「ん?食べないの」


 牛島の箸が止まっているのに気づいた清美は、心配するように尋ねた。

 ちょっと考え事、そう言ってはぐらかし、牛島はまた刺身に箸を伸ばした。

 


 3人がおおかた食べ終わったころ、玄関の方から「ただいまー」と低い声が響いた。父が帰ってきたのだろう。3人とも「おかえり」と弾んだ返事をした。玄関から足音が近づいてくると、勇魚美波は自分の使っていた食器を下げ始めた。


「お! お客さんやね。どうも、はじめまして。清美の父、春利です。


 通りがかった、中年の男は見慣れない客人が座っているのに気付く。


「はじめまして、牛島まれといいます。少しの間、お世話になります」


 美波にあいさつした時よりも晴れ晴れしい。


「いい友だちできたやんか」


 牛島の朗らかな雰囲気に、父親は気を良くし軽い足取りで洗面所に向かった。2,3、廊下が鳴ったあと、父親は急に振り返り、台所に戻ってきた。


「ああそうだ。神倉さんとこの息子さんが帰って来とるよ」

「神倉……、えーっと」

「道成くんだったけか」

「よく田垣内くんと神倉くんと、遊んでもらっとったやん」

「そうだっけ。あんまり覚えてないなあ」

「せっかくやし、時間があれば会っといたら」

「うーん、逸兄には会いたいけど……」


 覚えがない人の名前に、勇魚清美は小さく首をかしげた。





―――暗い部屋に液晶の光が溶け込んでいる。光に照らされた床には、カップ麺や空のペットボトルが転がっている。散らばった書類には黒いペンで文字や図を書き込んだ跡があるが、暗い部屋の中でその内容までを読み取ることはできない。部屋を満たす生暖かく湿った空気は鉄の臭いがする。その空気を震わせる虫の鳴声は悲哀を帯びていた。そしてその虫の音を押しのけるように、テレビスピーカーからは明朗なアナウンサーの声が流れている。


『太平洋上を発達しながら北上する台風……号の影響により、前線が活発……、週末にかけて大雨となる見込みで……す。特に西日本……沿岸部では――』


 

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