第4話 潮だまりに泳ぐ
波が硬い岩礁にぶつかると、砕けた波が白いしぶきを上げ、海面は泡立つ。しぶきが空中に含ませる潮が肌を流れる汗に張り付くと、生臭い磯の臭いも一緒になって体にべたつき、暑さに服を仰ぐたびにその存在感を主張してくる。濡れた岩は太陽の光を反射してかがやき、これまた光を反射する海面とともに、勇魚と牛島の2人を眩惑した。
「まぶしい」
明るい色をした髪が潮風に舞い、陽の光を受けて輝く。勇魚は目を細めて、牛島に語りかけた。太陽は水平線から顔を出したばかりで、まだ天頂には遠い。気温はまだ上がりきっておらず、時折涼しい風も顔をのぞかせている。
午前、2人は磯に来ていた。
引き潮で岩肌があらわになった磯。岩肌のくぼみを覗くと、貝が集まって一塊になっており、足元を見れば潮だまりに小魚が泳いでいる。
「まあまあ面白いやろ」
そう言って、バケツを下した。
せっかくだし、海でも見に行ったら。ついでに何か獲ってきてよ。そう言ったのは母親だ。最初は乗り気でなかった清美も、特にすることもなく家で転がっているよりはと、牛島に声をかけた。聞くと、牛島は磯に馴染みがないらしく、「なら」と友だちのために一肌脱ごうと考えたのだ。
勇魚にとっては慣れた遊び場だ。小さかったときは家族と一緒に、大きくなってからは学校の友達と、もしくは一人でこの場所に来ていた。貝や海星、海鼠をいじめてみたり、釣り糸を垂らしてみたり、人のいない磯は自由だった。岩をたたきつける波も慣れてしまえば怖くはない。「危ない」ところを知っていれば、何も問題のない遊び場だ。
「なんか変なにおいしない?」
ふと牛島が見つめたのは、岩の影になっている場所だ。牛島が感じた強い腐臭は、その岩の影から流れてきているようであった。不安定な岩場、慣れてきたとはいえまだ できない。ゆっくりとした足取りで近づこうとすると、風化した脆い足場はがらりと崩れた。足を止め、驚きに跳ねた心臓を落ち着けようと深呼吸していると、
「そこはダメ」
勇魚は大きな声で、ふらっと岩に近付こうとする牛島を制止した。
「そこは危ないよ、波が強くなる場所だから。だから、あんまり近付かない方がいい……」
誰の目にも止まらない磯の影。勇魚は知っていた。あの場所は波が強い。打ちつけた波に攫われやすいうえ、脆くなった足場を踏み外すと海へ真っ逆さまだ。海面に露出した岩礁は硬く、転落したらただでは済まない。まだ興味を捨てきれない牛島を促し、岩場から離れる。牛島のいうにおいも気になるが、安全が最優先だ。
――誰の目にも止まらない磯の影。陽の光を閉ざす、大きな岩の下。
そこには、鶏の死骸が転がっていた。鶏の頸と腹は裂かれており、岩場にはまだ血に濡れたままの内臓が転び出ていた。白く濁った瞳は何も映すことがなく、力なく開けられたくちばしからは、舌がだらりと垂れていた。真っ白な羽毛は、裂かれた腹から朱に染まっている。その白い羽も、何処から出てきたのかフナムシたちに蹂躙され見えなくなって、あたりには腐臭を残すだけになっていた。
「おーい」
2人は若い男の声に振り返った。堤防の上から声をかけてきたその男は釣り竿を背負っている。勇魚はその姿をみると、
「逸兄!」
と手を振った。
逸兄と呼ばれた男は、大きく手を振り返し、堤防を降りた。日焼けした肌には汗がきらめいている。小走りで勇魚に駆け寄ると、隣にいた牛島に気付き、
「田垣内 逸っていうんだ、初めまして」
「牛島です、どうも初めまして」
「キヨから聞いたよ、大学で初めてできた友達だって。昨日連絡してきてさ、会ってみたいと思って来てみたんだ。釣りでもしながら、お話でもどうかい?」
「逸兄来たんや。仕事やから来んと思とったのに」
「半休とったんや、久しぶりに後輩に会いたかったからね」
「久々で嬉しいけど、びっくりしたわ」
「2人の話も聞きたいし。キヨの大学での話とかね。俺は大学行ったことないから気になるし。ああ、あとは俺も友達がいるんだけど……、なかなか難しいやつでね」
そいつの話もしたいなあ。田垣内は釣具を見せびらかすと、白い歯を見せて笑った。
〇
太陽が天頂に差し掛かるころ、田垣内は「昼から仕事があるから」と荷物をまとめだした。
「じゃあ俺はもう行くけど。……そういや知ってる? その友達が言ってたんだけど、人間って宇宙に入ったことがあるけど、海の一番深い場所には行ったことないんだってさ」
田垣内はじっと水平線を見つめた後、釣具をまとめて引き上げていった。
その姿を見送ったあと、勇魚たちも荷物をまとめだした。磯に来たときは空だったバケツには、貝がいくつか入っている。今日の夕飯の献立は何になるのだろうか。勇魚が無造作にバケツを持ち上げた。中の貝は動くことはない。揺れに無抵抗に転がるだけだ。
〇
鼠色の重たい雲に覆われた夜空は星々の光を地上に届けることはない。
神倉は缶ビールを右手に雑草に覆われた庭へと出た。缶は汗をかき、腕を伝う水滴は冷たい。左手には鍵束が握られている。
神倉は雑草を踏み分け物置へ向かい鍵を開けた。暗闇の中、わずかな明かりしかない状況にもかかわらず、手間取る様子もない。引き戸に手をかけると、ずっしりと重い。けたたましい音を立てて戸が開くと、こもっていた空気が肩にのしかかった。
なんで、俺はここにいるんだろう。
ポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。空になった缶をすてて、濡れた手をシャツで拭う。スマートフォンのホーム画面には友人からの通知が来ていた。
「おーい。道成~」
「うるさい」
「そっけないなあ。2人しかいない同級生の仲じゃないか」
「2人しかいないったって、別に仲良くなかったし」
「またそんなこと言って。相変わらずだな」
「いきなり連絡をよこして。何の用だ」
「いや、そんな用があるとかじゃなくて、久しぶりに思い出話でもしたいなって」
神倉はスマホを切った。
どうせ帰ってきた俺のことを馬鹿にしてるんだろう。
さんざん都会で成功するんだって息巻いて、ここを馬鹿にしてきたやつが、のこのこ帰ってきて。
もう一度、スマホが鳴った。けれど神倉は、ちらりともスマホを見ることなくポケットにしまった。
……いや、お前は馬鹿にしないか。
だから、お前のことが嫌いなんだから。
重たい足取りで物置に踏み込む。
閉ざされていた物置は冷たくじっとりとした嫌な感じがした。
埃と黴に取り囲まれた中で、足元を大きな虫が通り過ぎていった。
今更こんなもん気にならねえよ。蹴り上げるような一歩で、押し入り一冊の本と石灰の入った袋を、引っ張り出した。
「……あとは、鶏どもか」
神倉はもう一度物置に入り、今度は鉈を持ちだした。
酒が回ってきたのか、足取りはふらふらとおぼつかない。
けれど、向かう方位にぶれはなかった。鶏が3羽、糞と羽で汚れた小屋に寝静まっている。鍵束から鶏小屋の鍵を探し出すと、静かに鍵を開けた。音を消し忍び入る。動かない鶏の頸を大きな手で鷲掴みにし、押さえつける。もう片方の手は降りあげられ、その手にはかすかに届く光を反射する、錆の目立つ鉈が握られていた。
――条件は整っている。
時季、天候、供物。遠海の颱風の存在も、お誂え向きだ――
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