第2話 浦部の街

 狭い部屋はエアコンの効きがいい。吾妻鏡子はカーディガンを羽織ると、小さく呟いた。

 大学3年生の夏、卒論の指導教員の研究室。背の高い本棚には立派な背表紙が並び、机の上にうず高く積まれた本からは、古くなった紙の匂いがした。本の匂いを目一杯吸い込もうと深く呼吸すると、使い古されたエアコンの少しカビたような甘いにおいが鼻をくすぐる。


 パイプ椅子に深く腰掛け、SNSアプリを開く。どうやら同学年の友人たちはインターンシップで忙しいらしい。似合わないリクルートスーツを着て照れくさそうな表情で撮られた自撮り写真は微笑ましい。しばらくそんな写真を眺めていると、部屋に足音が近づいてくるのに気が付いた。ゆったりとしたリズムの足音だ。かかとを引きずる独特の音に、近づいてくる人物が自らの指導教員だと気付き、スマートフォンをポケットにしまった。


「あれ、吾妻さん。早いね」


 ドアを開けた若い教授は吾妻の姿を確認すると、驚いたように声をかけた。そしてすぐに自分のデスクに向かうと、何枚か積まれたプリントをあさり、吾妻の成績表を取り出した。


「はいこれ成績表ね。僕が見たところ単位数は問題ないようだったけど、漏れが無いかとか一応確認しといてください」

「ありがとうございます」


 小さく礼を言って、軽く成績表に目を通していると、教授が何か思い出したかのように口を開いた。


「ああ、そうだ。卒論のテーマは決まりましたか? 4年生の前期は就活で忙しくなるから、早めに取り掛かった方がいいですよ」


―――その言葉は、吾妻が今、最も聞きたくない言葉だった。





 9月のはじめ、吾妻鏡子は浦部町を訪れていた。浦部市は美しい太平洋の海と輝く白浜が人気の観光地である。夏休みシーズンには観光客に溢れ、その経済効果でショッピングセンターやホテルが多くあり、地方とは思えないほどに街はいきいきと栄えている。しかし、吾妻が訪れた時期は9月ということもあり、客足は遠のいていた。


 なぜ浦部を訪れているのかというと、卒業論文が遅々として進む様子のない吾妻に、教授が助け舟を出したのだ。今では観光地として知られる浦部町は、かつては仏教の巡礼地として知られていた。深山幽谷を越え、浦部の海を目指し多くの巡礼者がやって来たそうだ。浦部町の隣にある磯良町には補陀落渡海が行われていた歴史や、徐福伝説が残っている。吾妻の通う大学とはそう遠くないこともあり、人文学ゼミに所属しているのだし、行ってみればいいのではないかと提案されたのだ。


 そして今、彼女は浦部民俗資料館の前に立っていた。浦部民俗資料館は街の外れ、山のふもとの陰になってるところにある。白い外壁にツタの這う古い建物は、久方ぶりの来訪者に喜ぶように、高い駆動音を響かせて自動ドアを開いて見せた。


 静まり返った館内は薄暗く、冷たい空気に満たされている。ひんやりとした空気が、浦部は温暖だと聞いて薄着をしてきた吾妻の体を震わせた。受付に向かうと白髪交じりの男性が座っていて、何か分厚い本を読んでいる。男性は吾妻に気付くと小さく会釈し、無愛想に「入館料」とつぶやいた。「田舎の資料館だしなあ」と、職員のぶしつけな態度に少し呆れながら入館料を渡すと、男性は吾妻を追い払うように一瞥し、視線を本に戻した。男性の態度の悪さに眉をしかめながらも、促されるように資料館の奥に進んだ。


 浦部民俗資料館は、郷土の歴史や文化、産業・生活を物語る資料を展示している。古地図や古文書に加えて、実際に昔使われていた漁具、それに加えて漁船のレプリカも展示されている。小さい資料館ながら幅広く充実した展示は、しょせん田舎の資料館だとなめていた吾妻の舌を巻かせた。 


 展示の品を見ていると、ふと色彩豊かな絵図が吾妻の目についた。鮮やかな色彩のその絵には、街に集まる人々と、真っ青な海に浮かぶ小舟が描かれていた。海には、小舟を呑み込まんとする勢いよくうねる大波が渦を巻いている。そして、上部には寺がぽつんと描かれていた。まるで意思を持っているかのように、小舟を襲う波の描写に思わず視線が吸い込まれる。じっと波を追いかけていると、さっきまで真っ青だと感じていた海が一つとして同じ青で描かれているわけではないと気付き、吾妻の口から嘆息が漏れた。


 ひとしきり絵図を堪能したと、次の展示品を見に行こうかと絵から顔を背けた刹那、波間に黒い生物が見えた。ぎょろりといた大きな丸い目がこちらを強く睨め付けている。―――そんな感覚があった。

 それと同時に一瞬、すえた臭いが鼻をついた。


「浦部補陀落曼荼羅っていうんですよ、これ」


 そう言って薄闇の中から声をかけて来たのは、30歳くらいに見える男だった。薄暗いなかに浮かび上がる白いシャツは幽霊のようだ。いきなり話しかけられ、肩をびくっと震わせた吾妻だったが、すぐに「そうなんですか」と相槌を打ち平静を装った。返事の後、急に現れた男の姿をを恐る恐る確認してみる。中肉中背でこれといって特徴のない男だった。首に下げられた名札をみると「神倉 道成」という名前らしい。


「昔、この辺は巡礼地だったみたいで、これに描かれてるのは参詣の様子らしいですよ」


 男はそう言って、絵図の中の人々と寺を指差した。その拍子に、ふわっと腐ったような嫌な臭いが舞い上がり、吾妻は無意識のうちに顔をしかめる。神倉は吾妻の表情に気付いたのか、


「あぁー、漁協の手伝いに行ってたんです。臭います?」


と、自分の腕や服を嗅ぐ動きをした。


「いえ、大丈夫ですよ」


 わざとらしい神倉の動きに苦笑しながら、さきほど目についた黒い生き物に視線を戻す。


「……それより、この黒い生き物は何ですかね。ちょっと、気になって」


 吾妻は波間に潜んでいる黒い生き物を指差した。だいぶ沖の方に描かれているその生き物は、一見クジラのように見える。しかし、爛々とした大きな丸い目は真正面についており、明らかにクジラの顔のつくりではない。波の青に溶け込んでいるヒレも、よく見ると腕のように見える。吾妻は海棲の動物には詳しくないが、それでもこの絵に描かれている生物がクジラではないと直感していた。そして、こんな生物は今まで発見されていないということも……。


 しかし、吾妻が指差した生物を覗き込んだ神倉の言はつまらないものであった。


「……鯨じゃあないですかねー。いやあ、分かりませんけど」


 熱のこもっていない、冷たく乾いた口調だった。

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