08/21

15:08-17:15

 快晴の空は、青というより水色をして、雲はひとつも湧き起こる気配はない。地平線へ近付くにつれ、澄み渡る天色あまいろは白く目映く霞み、飛行機雲さえたちまち溶ける。

 そんな昼下がりの炎天下へ、私は兄と共に降り立った。

 駅の改札が鳴り、叔父の店のある右側ではない左側の出口へと抜け、横断歩道を渡る。

 あれからずっと会いにいく機会を失っていた光のこと。

 その話に興味を示した兄が、一度会ってみたいというものだから、今日、あの広野へ案内する手筈となった。

 レンタルビデオ店跡地の路地裏を進み、広野へ行くための急勾配に直面して、兄の顔から血の気が引く。


「ここ、登るの?」


 うん。


「君、そんな体力あったっけ?」


 多分、体力が付いたんだと思う。


「えぇ……こんな暑いのに」


 今日、風が強かったのは、唯一の救いだったかもしれない。

 兄は、道端の自販機で飲み物を買い、すぐさまキャップをひねってひと口含む。そして、真剣な眼差しで、コンクリートロードの急勾配へ一歩踏み出した。


 面積の少ない日陰に歩み寄りながら登ること十分と少し。

 ようやく急勾配の終わりまでやってきたところで、兄の買った飲み物が底をつき、どこかに別の自販機がないかどうか訊いてきた。

 確か、この先の神社の近くにあったような気がする。

 私は兄を先導して、坂上の鳥居へと足を運んだ。

 兄が新しい飲み物を買うのを待っていると、ついでだから立ち寄って行こうと、飲み物を片手に鳥居の先へと行ってしまう。

 さらに長い階段に辟易するも、兄は一度言ったことはあまり曲げない性格だ。疲れた膝をもう一度持ち上げて、ずんずん登っていくその後を付いていく。

 登った先の手水舎ちょうずしゃで、二人並んで手と口を清める。

 賽銭を出した財布を腕に挟み込む。

 賽銭箱を鳴らす音は二つ。

 主祭神は、天照大神。

 柏手を打ち、兄と一緒に神さまへ挨拶をする。


「日の丸じーちゃんは、神さまなんて信じてないって言ってたけど」


 汗まみれの顔で兄が財布から取り出したのは、赤いお守り。


「こういうことは欠かさずしてくれたよね」


 私は鞄に提げている。


「僕はあのひと、苦手だったけどさ」


 うん。


「君が、三日月じーちゃんと和解したなら、僕もどうにかするよ」


 そう。


「でも、母さんとは無理」


 光陽は、母に似通う自分自身が嫌なんだ。


「この声も嫌い」


 楚々とした明朗な声が厭う。

 私は、好きなのに。

 境内の腰掛けに座って、一息つく。

 汗の流れる額を拭い、青い空を仰ぐ。

 陽の光が空を白く飛ばす。

 兄がその光を睨んでいる。

 私は、前に言えなかったことを口にしたい。


「光陽」

「何、朔」

「私は、祖父から楽器を習うことにした」

「知ってる」

「絶対に上手くなるから」

「へぇ」

「上手くなったら」


 息が詰まるのを飲み込んだ。


「一緒に、音楽をやろう」


 兄が狐につままれたような顔をして、変な声を上げた。


「僕、楽器なんて弾けないんだけど」

「唄えばいい」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?」

「私の演奏で、光陽に唄ってもらいたい」


 兄は、何それ、意味分かんないんだけどと、ふてくされる。

 そして、私へ嫌だと突っぱねた。


「冗談辞めてよ、本当にさ」


 むくれてそっぽを向き、目を合わせてくれなくなる。

 いつもなら、私はここで兄に根負けする。

 深呼吸して、左腕に結んだ紐を手首ごと握り締めた。

 私は兄に食らいつく。


「光陽の声はとても綺麗なのに、勿体無い」

「勿体無くて結構です」

「私は好きなのに」

「それはどーも」

「光陽は、母さんのことで嫌がってるだけじゃないか」


 兄の口元が引き絞る。


「母さんの声に似てるかもしれないけど、光陽の声は光陽のものだ。母さんのとは違う」

「知らないよ、そんなの」

「光陽が料理しながら鼻唄歌ったり、好きな歌を口ずさむのが好きなのを知ってる」

「じゃあ辞める」

「辞めなくていい」

「煩いなぁ、しつこいよ、君」

「私がどうして、楽器を始めたいなんて言ったと思う?」


 勢い余って口走った。

 背筋が凍っていく。

 私はこれから、少しだけ嘘をつくんだ。


「樹叔父さんの演奏に憧れたからでしょ」

「違う」


 最初はそう。


「じゃあ、何?」

「光陽の歌を聴きたいから」


 これは本当。


「何でだよ。それこそ別に、鼻唄程度でいいじゃん」

「いいや。嫌だ」


 これはきっと、今思いついたはったり。


「光陽は母さんが嫌だから、大人になったら絶対に家を出てくだろ。そしたら私は、お前の歌を聴けなくなる。私はそれが嫌だ」


 光陽の表情が緩んで驚く。

 そのまま、少しだけ沈黙が流れて、光陽がもう一度目を逸らしながら、ぼそりと呟いた。


「君はさ、いつからそんなこと考えてたの」


 私が、光陽と一緒に音楽が出来たらと思ったのは。


「五年も前から?」


 ちょっと違うけどそう。


「確かに、唄うの好きだけどさ」


 兄がよく唄ってたのは、七歳の頃。

 楚々とした幼い声が、無邪気に唄っていたのを知っている。


「ちょっと……考えさせてよ」


 私はかぶりを振り、嫌と答える。


「君、そんな頑固だったっけ」


 背筋が凍り、逸らしたくなる視線を逸らさない。


「僕じゃなきゃ駄目?」

「光陽の声じゃなきゃ嫌」

「そう」


 兄は、長く息を吐いて笑った。


「判ったよ。君に付き合ってあげる」


 但し、と兄は私に指を突き立てる。


「声の指導は君がしてよ。僕は君以外の他の誰にも習わない。あと、僕が納得いくようにしなきゃいつだって辞めるから。勉強、頑張ってね」


 突き立てた指が引き下がる。


「あーあ。今日は暑いし、坂キツいし、散々だなー」


 楚々とした明るい声が楽しそうに嘆いた。その笑顔は、とても無邪気だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る