23:11-0:24

 風呂から上がり、気持ちの落ち着いた私は、長い髪をタオルで束ね、今一度、気持ちの整理を試みる。

 だが、まもなく戸を叩く音に遮られて、なんだろうと顔を出すと、光陽が、試しに星空を見ようと言うものだから、私は兄と二人で玄関の外へと赴いた。

 天上のひらけた踊り場に陣取るも、空は薄曇り。

 流星群どころか、星を見ることすらままならない。


「やっぱりだめか」


 楚々とした明るい声が気を落とす。


「もう少し、粘ってみるとか」

「別に良いけど、十五分だけかな」


 私の意見に珍しく同意した光陽は、眠たげな目を擦り、隣に腰を下ろす。


「髪、切らないの」


 切らない。少なくとも今は。


 それからしばらく空を眺めていたが、薄曇りは晴れることなく、雲は鈍色に霞んでいた。

 光陽は私の肩にもたれてうとうととして、からだを揺すってやると、寝ぼけ眼を強く絞って眠気を振り払おうとする。


「もうだめ。ごめんね。流れ星が見えたら明日教えて」


 兄は立ち上がると、玄関の奥へと姿を消した。


 私は一人、踊り場に座って空を眺めた。

 薄曇りもそうだが、そもそも都会の明かりがまばゆい街で、流れ星なんてそうそう見えるわけがない。

 風は穏やかで、生温い。

 流れ星の見える方角とは異なる空へ視線を移す。

 あそこに見えるのは、おそらく火星。

 あと、昇り始めた月が、山の端から赤い顔を出す。

 耳を澄ますと、車の走り出すエンジン音が鳴り響く。

 これは、バイクのマフラー音。

 ここからでも、電車の規則正しいリズムが聞こえる。

 エントランスがひらく音。

 こつこつと乾いた音が鳴る。

 虫の鳴き声。

 排水パイプから流れる水の音。

 大気のくぐもる音。

 赤ん坊の鳴き声。

 木々のざわめき。

 私はもう一度、空を見上げて息を殺した。

 やはり、流星群は姿を現さない。


「やっぱり、流れないか」

「流れ星を、見たいのか」


 静かな低声が背中から聞こえる。


「うん」


 それとなく返事をする。


「ならば其のまま、天を眺めてると良い」


 背中から、ぱちりと夜を鳴らす音がした。

 すると、それまで何も変わらなかった鈍色の空に、流れ星が一つだけ、軌跡を残して、わずかに。


「流れた」


 私は驚いて振り向いた。

 そこには、父がいるものだと思っていた。

 静かな低声は、父のものだと思っていた。

 しかし、そこにいたのは、月明かりを模した髪色と月光冠のような輝きを纏う誰か。

 満月のような瞳が、私を見下ろしている。


わっぱ、貴様の願いは叶ったか」


 細い顎髭が揃う口元から響く低声。


「流れ星を、見たかったのだろう?」


 彫りの深い目元が鋭い。


「然し、此処は、居心地が悪い」


 ひらひらと袖の広がった召し物は、道化師のよう。


「童。貴様に聞きたいことが有る」


 月光冠を纏うひとが居住まいを正す、足音がこつこつと鳴る。


「俺の片割れを、存じて居るか」


 袖から伸びているはずの手は、見当たらない。


「彼奴の名は、光」

「……貴方の名は」


 私は訊ねる。


「俺は」


 途端、高く昇り始めた月に厚い雲がかかり、月光冠を纏うひとは、私の前から姿を消した。

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