19:16-21:02

 父の帰宅。

 光陽の夕飯は、作り置きにしていたハンバーグの種を焼いて、上からケチャップとソースの混ぜ合わせをかけた。にんじんは下茹で、甘味のある乱切り。ブロッコリーも二つ。

 父の携帯端末に、母が手伝いに行った公演は大盛況だったと連絡が入り、私は嬉しい一方、光陽は面白くない顔をしていた。


 食後の片付けと洗い物は私が引き受け、光陽は先に浴室の扉へ姿を消す。

 淡々と洗い物を水揚げしていく私の隣に父が寄り添った。


「樹さんから聞いたが」


 手元には、大玉のりんごとフルーツナイフ。


「ピアノでは駄目なのか」


 私は、項垂れながら返事をする。


「そうか」


 まな板がすとんと鳴る。


「ピアノなら、樹さんも教えられると話していたが」


 切り分けられていくりんごに、うさぎが混ざる。


「何を、習いたい」


 水に浸かった指先が冷えていく気がする。

 ウッドベースを弾いてみたい。

 進言する自分の上擦った声が気持ち悪い。

 父の手が目の前を横切り、洗ったばかりの皿を取り上げた。


「そうか」


 艶めくうさぎが皿に盛られていく。


「それなら確かに、父の方が習い易いか。或いは」


 父が皿を片手に考え込む。


「いや。先ずは父の元が良いか」


 テーブルに、りんごの盛られた皿が置かれる。


「今度、日下部くさかべ家へ話に行こう」


 洗い物を終えた私に、父が笑む。


「それと、俺の知人にも声を掛けておく」


 私は、身構えが解けない。


「でも」


 思わず声が出て、体感温度が引き下がる。


「どうした、朔」


 父の声より、曽祖父の視線がちらついた。

 足下が浮ついて、それを父に悟られたくない。

 だが。


「か、一輝さんのこと」


 声を振り絞って口にする。


「俺の祖父のことを、気に掛けているのか」


 だって。

 私は、疎まれている。

 あの灰の眼が、鋭く、私を睨んでいる。

 きっと、許してくれない。

 私が、私の祖父とも仲良くしたいことも、一輝さんは許してくれない。

 だって、あの眼は。

 冷たく鋭い灰の眼は。

 父が頷く声がする。


「祖父なら、大丈夫」


 静かな低声が私を宥める。


「お前が思うほど、深刻ではないよ」

「本当、に?」


 父の顔を見上げて蒼褪める。

 私は、許されていますか。


「まだ、仲直りは出来てないと思うのか」


 大きな掌が、私の頭を撫でる。


「俺や祖父にとっては、かつて問題の元だったかもしれないが、俺の父は、お前にとっては紛れもない、お前の祖父だ」


 垂れた頭が父の鳩尾に留まった。


「大丈夫。俺の祖父も判っている」


 目頭が熱くなり、床に水玉が落ちる。


「だから、朔」


 私は深く息を吸った。


「自分を、責め立てなくていい。お前の曽祖父は、お前に愛想を尽かしたわけではないのだから」


 私の背中をさする父の手が温かい。


「ただ、お前が寄り添うを待ち切れずに逝ってしまったのは、残念だった」


 そこで、浴室の戸が開く音がして、私は父のからだを思わず突き飛ばした。

 光陽にこんなところを見られたくない。

 視線が合った父は、私の行為に目を細める。


「あ、りんごじゃん」


 まもなく、タオルで髪を拭きながら現れた光陽が、赤いうさぎを爪楊枝で突き刺した。


「食べないの? 美味しいよ?」


 気兼ねなく口に頬張る。

 私は、りんごをひとつ口に頬張ると、そそくさと部屋に駆け込んだ。


『どうしたの、朔は』


 扉越しに聞こえる父の返答に、私は安堵の息を漏らした。


 部屋の照明も点けず、扉に背をついたまま、私はその場にへたり込んだ。

 では、あの眼は。

 あの灰の眼は。

 私を疎む眼ではないとしたら。

 父と、祖父と、曽祖父の関係は。

 私の境遇は。

 凍った背筋が溶けていくような心地だった。

 まだ、落ち着けない。

 後でもう一度、話を聞けるかな。

 浮ついたままの足で立ち上がり、照明を点け、私は着替えを取り出す。

 気持ちを落ち着かせるために、まずは他のことをしよう。

 照明を消し、戸を開けた途端、髪を乾かしきった光陽に出くわした。


「どうしたのそれ、目元赤いよ」


 なんか、うさぎみたい。

 そう言って、光陽は自室へと戻っていった。

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