08/12

14:58-17:49

 今夜は流星群の極大。

 なのに、空は午後から曇り始めている。

 このままなら、夜は雨。良くても曇り。天気予報が告げている。

 ともすると、耳に届く遠雷に意識を奪われては、久し振りの悪天候に、光の仕草を思い出した。

 手をかざすだけで、切り裂かれる雲間。

 覗く陽光が柔らかだったのを覚えている。

 今夜、この雲を切り裂いてくれたら良いのに。

 そんなことを思ってみたが、あのひとが夜中に外なんて出ていたら、この間のように辺りを昼にしてしまう。

 そう、昼に。


 そこまで思いを巡らせたところで、私は首を振った。

 そんなこと、あるわけないのに。

 夏休みの宿題を進めていた今日も、家には私一人だけ。

 気乗りがせず、ノートを畳んでタブレット端末を点ける。

 流星群の情報をひらき、再読。

 天気予報もついでに。


 身内で星に詳しいのは輪太さんだ。

 あと、母方の曽祖父。

 二人から、星の話を聞くのは好きだった。

 今年、曽祖父が亡くなりさえしなければ、今夜も流星を見に声を掛けてくれたかもしれない。


 ふと、窓の外からけたたましい音がする。

 振り返ると、雨が急に降ってきたようだった。

 私は立ち上がって、外に干してあった洗濯物を取り込み、和室の鴨居へ均等に引っ掛けた。

 見遣るベランダの欄干が雨に打ち鳴らされて、薄っぺらい音を立てる。

 窓越しの排水溝が水玉模様に塗りつぶされていく。

 すっかり取り巻いた雨雲の気配は遠方まで続き、しばらく停滞するようだった。

 いつ降り止むかは、判らない。

 ひとまず和室から立ち退こうとして、背後にある座椅子の気配に足が竦んだ。

 自宅に帰ってきた、曽祖父の気配。

 五歩の距離より近付いたことのなかった、冷たい気配。

 そこに、居る気がする。

 私は奥歯を噛み締めて振り向いた。

 同時に、和室と居間の境目である段差に足を取られて、からだがよろける。

 洗濯物が腕に絡む。

 洗濯バサミが獲物を奪われて喧しい。

 尻餅をつき、臀部の痛みを堪えながら、足を挫いていないかどうかを確かめる。


 洗濯物を畳み、和室に寄せると、曽祖父の座椅子に背を向けて、大きくため息をついた。

 駄目だ。

 出来ない。

 仲直りがしたいのに。

 鋭い眼がこちらを見ている。

 灰の眼に、怯えている。

 外は再び雨脚が窓を叩き、そこで私は気が付いて、玄関の傘立てを見遣った。

 光陽は今日も図書館にいる。

 傘は、持って行ってはない。

 私は身支度を済ませると、光陽の傘を腕に提げ、家の戸締りと、玄関に鍵をかけた。


 調和の無い、傘を叩く雨。

 歩道は水溜り、描かれる波紋の重なり。

 それを踏み乱して、先を急ぐ。

 私の傘は、深い紺碧色。

 光陽の傘は、縁が天色を成す青色。

 母が選ぶ色は幼稚だから、今度は自分で選んで買うんだと、楚々とした明朗な声が捲し立ててから一年と少し。未だ、壊れる気配はない。

 図書館に辿り着き、雨露を払って中へ入る。

 光陽お気に入りの席には他の人が座っていたので、私は他の座席を覗き見、兄を探す。

 図書館の二階の東側、ブラインドカーテンのかかる窓際で、頬杖をついてふてくされながら外の雨を睨んでいるのだろう、見慣れた姿を認めて近寄った。

 兄が振り向く。

 その瞳は驚いている。

 帰り支度を済ませた兄が、図書館のエントランスに差し掛かったところで、私に手を伸ばした。


「ありがと」


 視線を合わせない、いつもの兄に、私は一言頷いて、青色の傘を手渡す。


「雨、降っちゃったね」


 兄も、流星群をほんの少し楽しみにしていた。


「通り雨ならいいのにね」


 明るい声が嘆き、街中を抜け、屋根のある仲見世通りへ入るので付いていく。

 兄は、中にある唐揚げ店でカップサイズを買い、ひとつ口へ頬張ってから私に手渡してくれた。


「帰りにここで買って食べるのが、最近の僕のルーチンなんだよね」


 美味しいでしょ、と言いたげな目付きは、悪戯好きな兄の得意な角度だ。

 母親譲りの目元と声。

 兄はそれらを厭うけれど、私は嫌いではない。

 癇癪さえ起こさなければ、普通に可愛い無邪気な兄だ。

 可愛いというと、これでまたひどく臍を曲げるのだが。


「君さ、また失礼なこと考えてない?」


 考えてないとうそぶく私を、兄は垂れ目でいぶかしむ。

 まだ機嫌は損ねてない様子。

 しかし、兄は多才なひとだ。

 勉強はそつなくこなすし、受験校も市内では難問校の一つを挑む。

 絵は毎年絵画コンクールに入賞するし、何より声が誰よりも綺麗だ。

 私が何一つとして持っていないものを兄は持っていて、しかもそれを兄自身が疎んじている。

 たまに、兄が羨ましくて、恨めしい。


「やっぱり、失礼なこと考えてるでしょ」


 兄が私を咎める。


「君はさ、すぐに顔に出るんだよ。あー嫌だ嫌だ」


 仲見世通りを抜け出し、雨模様の空に丸い青空が咲く。


「あと食べていいよ。もう要らないから」


 兄はさっさと先へ行ってしまった。

 私はまだ、唐揚げのカップと傘を両手にもたついている。


 唐揚げを頬張り、傘をさして兄へ追いつく頃、雨足が遠のき、やがて水溜まりの波紋が消えた。


「なんだ、これなら、もう一時間こもってれば良かった」


 兄の言葉に背筋が凍る。


「冗談だよ。迎えに来てくれてありがと」


 真夏の陽射しのような目が、私を射抜いてほくそ笑む。


「今日の夕飯は僕が作るから。朔は宿題の続きでもしてれば?」


 そうだ。まだ、今日の分の宿題を終えていない。


「今日は何作ろうかな」


 のびのびと空を仰ぐ兄に気圧されて、私は今日も項垂れる。


 きっと、兄にはこれからも勝てないのだろう。

 私は何も持っていない。

 私は、何も出来ないんだ。

 何も。

 許されることも。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る