08/11

18:40-20:39

 この東の空に虹が掛かればいいのに。

 雲ひとつない空に、色の帯が。

 西陽は落ちて、こんな角度で虹などかかるはずもないのに。


 やがて山間に消えた陽の光を認めて、今日も光と会えなかった。

 あれからずっと会えていない。

 やはり、私の空想だったのだろうか。

 うら若く、澄み、嗄れた声が懐かしい。

 しかし。

 私は、真白いシャツに手を触れて、雨に濡れた服を乾かしてくれた光の陽だまりを思い出す。

 あの熱は。

 あの香りは。

 あの優しさは。

 決して、空事ではない。


「願い、叶ったのかな」


 暖色の遠のく空の先。

 あのひとが私に願う思いを諳んじる。

 私には実感が無かった。

 光の願いが叶ったとは思えない。

 そんなことを思ううちに、また、帰る時間が遅くなってしまう。

 仕方なく、私は広野を後にする。


「あはは。また、帰りたくなくなったのかい?」


 駅の改札を通らず、無意識に叔父の店まで歩いていた私は、まもなく閉店作業をしていた叔父に見つかり、店の中へと通された。

 一人で帰るには遅い時刻でもあり、叔父は父へ迎えに来てもらうよう、携帯端末で言伝を飛ばす。


「ごめんなさい」

「大丈夫、大丈夫」


 叔父が私をカウンターへ座るよう促した。


「夜、眠れなくなってしまうと良くないから、今日は紅茶にしようか」


 そうして差し出されるのは、温められたカップと、湯を注いだティーポット。中身はきっと、アップルティー。


「おなかは空いているかい、何か出そうか」


 叔父がカウンターの奥へと消える。


 出されたサンドウィッチを口にしながら、父が迎えに来るまで叔父との会話を楽しんだ。

 叔父は私の話に相槌を打って、ちゃんと聞いてくれる。


「それじゃあ結局、その座椅子は光陽君に取られちゃったんだ」


 私が昨日持ち帰ってきた座椅子は、今朝、光陽が座っていて、離れてくれなかった。


「折角、キミの悩みの種を解決する手立てだったかもしれないのにね」


 叔父の慰めに、私は首を振って、諦めたことを伝えた。確かにあの座椅子は、元々曽祖父のものであって、私のものではない。私のものではないからと言って光陽が占有するのは、やはり納得がいかなかったが。


「光陽君は、一輝さんによく懐いていたものね」


 曽祖父に撫でられる光陽の姿を思い出し、私は気持ちが沈む。


「キミは、判ってもらえなかったと思ってる?」


 私が、曽祖父の寵愛を失った理由。


「私も、樹さんみたいに、お爺さんみたいに、音楽に触れてみたいです」

「そっか」


 叔父がピアノの前へ立つ。

 そのまま、ピアノを見下ろしている。


「僕は、一輝さんが、父と話し合って和解したのを、この目で、この耳で聞いていたよ」


 透き通った高音がひとつ、鳴る。


「望もそれを知ってる」


 和解したなら、何故、私は疎まれたのだろう。

 叔父に問おうとしたところで、店の戸口が鳴り、父が私を迎えにきた。

 叔父との時間が終わる。

 嫌だな。

 嫌だと思った。

 父が叔父へ挨拶をし、手土産を手渡して、私へ手を差し伸べる。

 私は、どうしてこの人の子どもなのだろう。

 私は父の手を取らぬまま、叔父にお礼をして、叔父の店を後にした。

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