2020 秋

08/10

16:09-19:26

 実家への帰宅を果たしてから今日で一週間。

 あれから、光と会うことは一度もなかった。

 あの広野は、私が帰宅を果たした二日後に小火があったらしく、草叢の一部が立ち入り禁止となっていた。

 何があったのかを聞こうと思ったが、訪れた日に光は姿を現さなかった。


 そして、そのまま夏は終わった。


 私は、光の話のとおりに父方の曽祖父と対峙する。

 位牌の前。

 曽祖父の写る写真の前。

 土曜には父に付き添ってもらい、墓石の前でずっと手を合わせていた。

 光陽には手を合わせる姿を見られないようにしていた。

 きっと、馬鹿にしてくると思ったから。

 昨日はもう一度、位牌の前に座って。

 呼び掛けても応えなど返ってくるはずもなく。

 ただ、位牌のある部屋に一人こもって。

 父は仕事。

 母は友人の手伝いで来週まで帰ってこない。

 光陽は図書館で受験勉強に勤しんでいる。

 私だけが、家で手を合わせている。


『身体は朽ち、何も残らぬというのに?』


 何も残らないというのに、私は何故、曽祖父と仲直りをしようとしているのだろう。

 そもそも、魂なんて、そんな漠然としたものを有ると仮定して、それに対して手を合わせる。

 何のために?

 私は、何のために手を合わせている?

 そう思って立ち上がって、手を合わせるのを辞めて。

 自室に閉じ籠って、寝床に潜り込んで考え込んだ。


『何年前の話?』


 五年前からずっと、仲直り出来なかったことを悔やんでいたんだ。

 悔やむのを辞めれば?

 辞めたら、どうなる?

 曽祖父の存在を気にかけるのを辞めたら?

 気にしなければ。

 そうすれば、曽祖父のことで気を揉むことなどないのではないか。


 そう考えていたのが、昨日の私。


 今日はどこにも手を合わせる気にはなれなかったが、仲直りをしたい気持ちは結局変わらなかった。

 何故だろう。

 何故、気にしてしまうのだろう。

 灰の眼が、忘れられない。

 忘れられなかった灰の眼の居場所に気が付いた今朝。

 そうだ。

 座椅子。

 曽祖父の使っていた座椅子。

 私ははっと思い出す。

 座椅子の行方を知るために部屋から出て、リビングへ顔を出す。

 光陽は今日も図書館。

 父は今日も用事がある様子で、出掛けの用意をしていた。

 私は、父に声をかける。

 父は、母なら判るかもしれないと言って電話を取り、母へ繋いでくれる。


 曽祖父の使っていた座椅子。

 その行方を辿って一人訪れたのは、母の実家だ。


「突然来てごめんなさい」


 私の来訪を快く出迎えてくれたのは、母の実家の現家主である、母の兄、輪太りんたさんと、奥さんの水亜すいあさん。

 経緯いきさつは、きっと母から伝わっているのだろう。曽祖父の使っていた座椅子を探していることを、すでに二人は知っている様子だった。

 水亜さんが、私の手を引いて、締め切っている襖に手をかけた。


「多分、アレだと思うよ」


 水亜さんが指さしたのは、襖の先の、真っ暗な床間に置かれた座椅子。

 この部屋は確か。


「てっちゃんとかずさんが、元々、囲碁と将棋の手合い仲間だったって話は聞いてるよね?」


 水亜さんが、曽祖父たちのことを囁く。


「てっちゃんはね、天に召されるちょっと前までずっと、あの座椅子と向かい合って、囲碁や将棋をしてたの。まるで、かずさんと対局してるみたいにね」


 それは知っている。

 いつも、着物のかけられた座椅子を向かいにして、母方の曽祖父は囲碁を打ったり将棋を指したりしていた。

 座椅子に座ろうとすると、決まって首を横に振るので、座らないようにはしていた。

 着物の取り払われた座椅子は、確かに、私の覚えているあの座椅子だ。


「みんな、あの座椅子に思い入れがあるのかな」


 水亜さんが、普段通りのおどけた様子で、私の顔を覗き込む。


「持って帰る?」


 背筋が途端にぞくりとする。


「か、勝手に持っていくのは」

「じゃあ、てっちゃんに訊けばいいんじゃない?」


 どうやって。


「てっちゃんはね、きっと、そこにいるよ」


 水亜さんが指さすのは、座椅子の向かい側。

 いつも、母方の曽祖父が座っていた、少し様変わりな形をした黄色の座布団。


「ほら、話しておいで」


 私の背中を床間へ押しこみ、水亜さんは襖を閉める。

 床間は暗く、照明は付かない。

 外もすっかり暗くなり、閉じられた障子は青くぼやけている。

 その微かな光を頼りに、私は座椅子の隣へ座り、座布団を前に姿勢を正す。

 一人で将棋を指している、その仕草、様子。

 私は目を閉じて、手を合わせないまま、曽祖父のことを思い出す。

 床間に入り、盤上を眺めたり、私が度々出すちょっかいをものともせず、嗜めるように応えてくれた、澄み嗄れた声。

 老いた眼が、私に微笑んでいる。

 目を開けると、そこには誰もいない座布団。


「座椅子を、持っていってもいいですか」


 自然と口にしたお願いに、聞こえるはずのない曽祖父の澄み嗄れた声が脳裏に再生される。

 その言葉に私は立ち上がると、床間を後にし、叔父夫婦の元へ話を伝えにいった。

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