月神

 地図は使わなかった。そして目的地も決めなかった。

 東西に、或いは上下に前後に左右に、知っている道から知らない道へ。

 人のいる場所からいない場所へと車を走らせていく。

 冒険の序盤ではホームセンターなる施設で寝袋やランタンを買い込み、夜を超すための大まかな装備を整えていった。

 一山超えても二山超えても人里が続く中盤は、その地の特産品だったりを賞味して、腹を満たしながらマップを奥へ奥へと渡り歩いていく。

 大量の水や食料品、そしてカッコいいサバイバルナイフだったり、熊対策なんかにスタンガンさえ途中の町々で集めていった。

 宛らそれは未知の地へ挑む開拓者のようで──或いは最後の戦いを前にした勇者パーティのようで、もう二度と家に帰ってこられないような錯覚にさえ襲われた。

 俺は段々と人類の支配域から抜けていく感覚に浸り、人の世を超越していくかのようなある種の優越感と、一抹の不安を得る。

 そんな中でもペルさんはいつも通り(まだ3日目だけれど)笑っていて、「あーいるわ、戦いの前に『楽勝っしょ、俺たちなら』とか言う能天気系強キャラ」と、自分の錯覚によって創りだした2人ぽっちの逃避行──若しくは未知への物語へ彼女を勝手に組み込んでいった。

 しかしとうとう標識も自分の位置が分かるモノが何もない、本当に見ず知らずの道に入ったとき俺の不安は最高潮に達した。

 単純にここから元の道に帰ることができるか心配になって、太陽が沈んでいく山の峰を追いかけるように車を進める。

「死ぬ死ぬしぬしぬっ」

 山岳特有のヘアピンカーブを猛スピードで駆け上がると、顔を真っ青にしたペルさんが大声で叫んだ。

 ──ザザザッ。車輪が滑りカーブは後方へ。

 窓ガラスを開けると籠った熱気が放出されて、心地よい風が舞い込んでくる。

「アハハッ」

 誰もいない道を猛スピードで抜ける。

 どちらからともなく笑いが込み上げてきて、暗雲のように立ち込めていた鬼胎が晴れていくように感じるのだ。


 やがて完全に陽が落ちた頃──アスファルトの舗装さえない道の先に、小さな草原を見つけた。



 **********



 例えば”そこで大麻が栽培されていた”と聞けば、納得するような立地であった。

 見晴らしの悪い丘の頂上と言うだろうか、周りは高い木に囲われて何も見渡せず──見通せたとしても人の住む里は遠い彼方であろう。

 それでも閉塞感がないのは空がどこまでも高く感じるからだろうか。

 まるで異世界に転生した、そんな気分だった。

「どうしたの? そんなに上見て」

 ランタンをセットしたペルさんが首を傾げる。

 満点の星空を眺めていたわけではない。

 俺にはあるがあった。

「……月をね、探していたんだ」

「月? ……んあ。あるじゃん、あそこ」

 そう言ってペルさんはくっきりと浮かぶ三日月に指をさす。

「そう。だからよかったんだ」

「どういうこと?」

 ペルさんが缶コーヒーをおおきく振りかぶって投げた。

 俺の下に一直線……と思いきやノーコンのチェンジアップが頭上を越して地面に着弾する。湿った土が飲み口につく。勘弁して欲しい。

「……大したことじゃないけどさ。──例えば、月がなくなったらどうする? あー、今は三日月が見えてるけれど……ずっと新月みたいな、真っ暗」

 訊くとペルさんはそれを妄想しているのか、目を瞑り鼻筋をつまんで唸る。

「あー、うー。……多分、ボクにはあんまり関係ないってことはわかった」

「それが普通だと思うよ。月に特別興味のある人間以外からすれば──70億人の人間からすれば”月が消えたって気づかないんだ”」

 ランタンの明かりに不服そうな表情のペルさんの顔が映った。

 俺は続けて云う。

「──『そんなわけない』そう思うでしょ。いや、まあそうだよ。でもさ、ペルさんは今日が三日月だって知ってた?」

 或いは? という質問。

「……ううん。毎日は見てないし」

「じゃあもし昨日月が一日だけ消えていたとして──ペルさんは気づけた?」

 ぶかぶかのパーカーを着た彼女は首を横に振った。

 その様子は話の趣旨をまだよくわかっていないようで──ちびちびとブラックコーヒーをすすっては苦い顔をしている。

 嫌いなら飲まなければいいのに。

「──俺は、それに気づけないのが嫌なんだよな」

「だから月を見てたの」

「まあな、あと──」

 言いかけて横に首を振る。

 これ以上は別に言う必要もないと思ったのだ。

 なぜなら。

「──いや、いい。……ペルさんに創ってもらいたいアニメの、その基の小説の名前は””。残り半分はそれを読めば解るはずだ」

 口下手な俺が1から説明するより、俺の魂を込めた(つもりの)作品を感じてくれた方が、上手く伝わるだろうから。

「商売上手だねぇ、お兄ちゃん」

「社会人を5年もしてるとこれくらいは余裕よ。知らんけど」

 熱く語りすぎて渇いた喉を、砂利が混じったコーヒーで潤す。

 開栓音が木々に反射してよく響いた。

「良いプレゼンだったよ」

「そりゃどうも」

 ペルさんはそして三日月を見つめた。

 その横顔は新しい愉しみを見つけたような、ワクワクした表情だった。

「これだけお兄ちゃんの大事な月を語ってくれたらさ、ボクもボクの大事な星を語りたくなってきたよ」

 ”気圧の実験がしたいから”と、わざわざ買ってきたポテトチップスの袋を開けながらペルさんが云った。ちなみにほとんど膨らんでいなかった。

 そんな緊張感も何もない、ただの雑談の延長だ。

「大事な星って?」

 しかし彼女は唐突に核心を突く。


「つまり、ボクとは何か──『Persephone』とは何かをさ」

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