方舟の積載量

 カーテンの間から差し込む朝日が俺の意識を覚醒させる。

 ──3日目の朝は早かった。

 昨日黒ずくめにお灸をすえられた後、ペルさんはベッドで、俺は買った毛布の上でさっさと眠りについたからだ。本当に怖かった。

「……ふぁーおあ」

 低い天井に手を伸ばすと突飛な欠伸が出た。

 ペルさんの緩み切った寝顔を見ながら洗面所に向かい顔を洗う。

 そして干してあるワイシャツに手を掛けた時、俺は思わず苦笑した。

「あ。会社ないじゃん、今日も」

 5年間の習慣は恐ろしい。

 入社時は少しだけ持っていた情熱も、やる気も何もかも無くなって、誰からも期待されなくなって、あと数十年続く長い死の行進を、のらりくらりと過ごすだけになっていたから、脳味噌が死んだようにスーツへ手を伸ばしたのだ。

「はぁ。……”いらない子”なんだよなあ」

 気を取り直してキッチンの前に立つ。

 昨日の昼、久しぶりにIHのコンロとフライパンを使い、鶏ささみの塩焼き(ただ焼いて塩を掛けただけの料理)をペルさんに振舞った。

 まるで懐石料理でも食べたかのような反応をしてくれたので、朝食も何か作ってやろうという算段。こんな小さなことでも褒められたら嬉しいのだ。

「えっと、卵と牛乳。……砂糖もだっけ?」

 一度コンビニ惣菜やらファストフードやらの沼に浸かった怠惰な人間は、そう簡単に過去のレシピを引っ張り出すことができない。

 元カノが俺の生活に見かねて買ってくれた包丁で、パンの耳を取り除いていく。

 まあ元カノと言っても、あれはただマイノリティである同好の士小説書き2人寄り合って傷を舐めあって、ただ肌を重ねただけに過ぎなかった。

 そもそもアイツと俺はハナから向いている方向が異なっていて──。

「──おはよう。おにーちゃん」

 ぽわぽわと目を擦るペルさんが、俺の大きなTシャツをワンピースのように着て、カーテンと窓を一気に開ける。

「お、はよう」

 フラッシュバンを喰らったように陽が差し込んで目が眩み、突風が吹き抜けたかと思うと、再び視界が戻った世界は明るく作り替えられていた。

「うん。いい朝だあ」

 それはまるで魔法のようで──冷静に考えれば朝陽が部屋に差し込んだだけなのだけれど、ペルさんが光源になっているような神聖的な力を感じた。

「そだね。……まずは朝食にしようか」

 鳴れない手つきで卵に浸したパンをフライパンで焼いていく。

 数年ぶりの作業はうっすらと手が覚えていた。

「フレンチトースト。いいねぇ」

「味は保証できんがな」

「お兄ちゃんがボクの為に作ってくれることが重要なのさ」

 うーんよいしょ。ペルさんは事無げに伸びをする。

ちらりと見えた細いウエストのラインが、テレビで見た芸術的な壺のように滑らかに曲がっていて、それが美しいと雑感した。

「……」

 そして意表を突かれ、フライパン上のトーストは焦げた。



 ********** 



「で、今日はなにしようか」

 再びペルさんが訊いてきたのは、俺が焦げ付いたフライパンをごしごしと擦っていた時だった。新品のスポンジが黒く塗りつぶされていく。

「……?」

「どうした?」

「いや、ええと」

 俺はてっきり依頼に取り組むのだとばかり思っていたから、今日もどこかに遊びに行こうと目論むペルさんの言動が不可解だった。

「あー、アニメーションでしょ?」

「……ああ」

「分かってるよ。ちゃんとやるって。……でももうちょっとだけ、ね」

「おう。……好きなだけいればいいさ」

 数週間もずっと会社を休み続けるわけにはいかないから、現実的な話ではないのかもしれないけれど、俺の感情としては紛れもない本音だった。

 退屈と劣等感に苛まれ続けた人生がペルさんの溌溂さで綺麗に見える。

 繰り返すだけの生活が変わっていく──毎日がハプニングに溢れている。 

「ありがと。でも、あともう少しだけでいいんだ」

 でもあと数日……もしくは数週間、いずれにせよ彼女との生活は有限なのだ。

 俺はそれが惜しくて仕方がなかった。

「そうか」

 スポンジの固い面を使って洗い落とそうとしているのだけれど、テフロンが剥がれ切ったフライパンは頑固な焦げを決して離さない。

 腹が立ったので擦る手を止めて素早くヨソイキに着替える。 

「何、外出掛けるの?」

 ペルさんは俺が着替えるのをじっと見つめてそう言った。

 ……パンツ見られて恥ずかしいのだけれど。

「家にスマシスないしね。もう粗方ボードゲームはやったろ?」

「確かにね」

 ペルさんは真一文字に切られた前髪を縦に一度揺らすと、着ていたTシャツを勢いよく脱いだので俺は慌てて目を逸らす──薄目で少しだけ見たのは許して欲しい。

「……じゃあどこか行きたいところある?」

 耳障りな──そして心地の良い衣擦れ音がしなくなるとペルさんは問うた。

「え、俺が決めるの」

 一昨日、昨日と散々振り回されてきた俺としては、行先も何もかもを全てペルさんに委ねるつもりでいたので、唐突な質問に戸惑ってしまう。

「そうだよ、お兄ちゃん。ボクが楽しめそうなとこに連れてってよ」

「いきなりハードル上げてきたな」

 困り顔をすると、ペルさんは口角を上げて首を横に振る。

「ウソウソ。別にどこでもいいからさ、どこか決めてよ」

「って言われてもなあ」

「行きたかった場所とかないの? 社会人って中々休日がないんでしょ?」

「……そんなことはないぞ。ただ、休日に何もやる気が起きないだけで」

「どういうこと」

 訳の分からない概念に出会ったようにペルさんは苦笑した。

 忙しなさすぎる平日に全てのエネルギーが吸われていって、休日出かける気になるだけのパワーが残っていないというだけだけれど。

「……行きたかった場所かあ」

 俺は口に出して色々思い浮かべてみる。

 都心だとか、ネズミーランドだとか。

 多くの人にとっての”観光名所”が頭に過っては消えていく。

「……そういうのじゃないんだよな」

「おーい? お兄ちゃん?」

 繁華街は息苦しい。

 まるで俺のような人間、上司のような人間、家族のような人間、元カノのような人間──そういう俺の心をザワつかせるような人間が沢山いて、心の底から楽しめるかと言われればそうじゃない。

 頭がガンガン鳴るような──目が回るだけで何も起こらない日常。

 そんな俗世的な世界の対蹠地を望んでいるのかもしれない。

 だから俺は──。


「全部、何もかも忘れられる──何もない、誰もいない場所に……行きたい」

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