神の子対完璧なる男Ⅷ

 ラロどころかラインベルカ以外、彼が槍を使えることすら知らなかった。その彼女とて、かつてある男が他の者が望む神とは異なる影を、その少年に見たことなど知る由もなかっただろう。彼は捨てたのだ。その道を。

 無意味と断じて。

(構えは随分と堂に入る。少し引け腰に見えるが、さて――)

 ラロが軽々に動けない理由は、ルドルフを認めているが故であった。自分に近づいてきた彼、そしてここまで故意か偶然か、ラロが剣を見せぬのと同様にルドルフもまた槍を隠し通してきた。身体が出来ていないのは間違いないが、それにしてはあまりにも出来過ぎている。そのチグハグさがラロを警戒させていた。

 ルドルフは動かない。

(……受け切る自信がある、と言うことか? どちらにせよ、増援はない。三貴士に迂回の様子無し。こちらを呆然と見つめたまま。まあ、考えても仕方がない)

 戸惑いはある。時間にもゆとりはある。だが、だからといって無駄に浪費する必要はない、と判断した。凡人であれば相手が弱卒と侮り突っ込むか、もう少し考えこんでいただろう。ラロは思索を経ての行動を、僅か一秒で終わらせた。

「…………」

 ルドルフは内心で舌打ちする。もう少し警戒してもらえるか、とは思ったのだがやはり相手が悪過ぎた。そもそもラロにとって警戒に値する相手など巨星ぐらいのもの。それに化けるにはいくら何でもハッタリが過ぎる。

 相手が自分で一秒は彼にとって充分過ぎるほどであろう。

「では、お手並み拝見」

 たん、と一足飛びに詰めて来るラロ。本当に嫌な相手だとルドルフは苦笑する。侮ってくれたら、もう少し警戒してくれたら、この押し引きのバランスも狂っていただろうに。嫌味なほどに完璧。隙が、無い。

「……ちェ」

 小さくつぶやくルドルフの動き出し、その滑らかさを見てラロはやはり相当積んでいる、と判断した。なぜ今、このような貧弱な体なのかはさておき、間違いなく一時期とてつもない密度で叩き込まれていたのだろう。

 足さばきを、手さばきを、見つめればわかる。

 それと同時に、致命的なほど肉体に欠陥があることも見て取れた。槍が遅過ぎる。動きが遅過ぎる。全てが――

「……ッ⁉」

 違和感、その瞬間、ラロは即座に後退した。

「初見は、ワンチャンあるかなぁって、思ったんだけどね」

「……噂には、聞いたことがある。『白神』、『白仙』、神の槍、か」

「の、模倣だよん。出来の悪い、ね」

「これで……か」

 より深く武に踏み込んだ者以外、何故ラロが突然後退したのか理解できる者はいないだろう。実際に槍を振るうアメリアでさえかすかな違和感があった程度。だが、年長者であるマルスラン、そしてジャクリーヌは目を見開いていた。

 彼らにとってそれは既知であったから。

「嘘、でしょ?」

「……キュクレイン様の槍に、似ていた気が」

「……似ていた、なんてもんじゃないわよ」

 彼らの世代であれば若き頃一目見たことのある槍。あの御前試合で龍と神が激突した一戦、大勢の脳裏に焼き付いた死闘。その匂いが、したのだ。

 ラロは微笑む。そして、同時に心底感謝した。もし、この男が神の力とやらを与えられることなく、槍を叩き込まれていたならば、間違いなくとんでもない怪物になっていた。黄金時代と比肩し得る、まさに神の槍として。

 だが、今の彼ならば――

「はーい、全員注目! 僕は匙より重いものは持たない主義なの! ちょっとこの槍持つのもしんどくなってきたから援護射撃宜しく! ラロを狙って撃ちまくれ」

「なるほど、その手があったか」

「流れ矢なんて絶対に、僕には当たらねえからさ!」

 ラロは一気に距離を詰め、体感を修正しつつ剣を振るう。その修正速度にルドルフは呆れ果てながらも、今度は「ふんが」とギリギリで受け流した。

「くぅ、流したのに手が痛いよう」

「ふは、それでもしのぐか」

 引け腰なのは端から攻めを捨てていたため。驚くほど卓越した槍捌き、一度骨身に染み付いたそれは中々抜け出るものではない。それでも、この身体では数合持たないだろう。いくら受けに回っても限度がある。

 だからこその――

「撃てェ!」

 援護射撃。ラロを狙った放物線は、不自然なほど近くに立つルドルフを避けて、無造作に降り注ぐ。手数に任せた雑な狙い、これがまた厄介。かわす、受ける、それらに注意を割く必要があり、対するルドルフは受けだけに注力する。

 そしてひとたび間合いの外に出ようものならば、容赦なくルドルフは逃げる。弓矢の届く範囲を縦横無尽に「ひーひー」息を切らせながら。

「何の意味がある? 俺が矢に当たって死ぬのを期待しているのか? であれば、君の目論見はあまりにも浅慮と言わざるを得ない」

 そんな中を、最小限の動きで矢をかわしつつ、当たる矢だけを剣と盾で叩き落とし、悠々とルドルフへ近づいてくるラロもまた怪物。強がりでも何でもなく、この男にとって動けるスペースがあり、この距離間であれば矢など脅威でないのだろう。文句なしの怪物である。あっさりと近づき斬り付けてくる様など恐怖でしかない。

 だが、しのぐ。

「ふひぃ、死ぬぅ」

「この、男」

 汗水流しながら、足がもつれて転んでも、這うように逃げる。あまりにも無様であろう。一軍の総大将が見せる姿ではない。エスタードであれば、これを見て士気を上げる者はいないだろう。ネーデルクスとて、かつては同じだったはず。

 恥も外聞もかなぐり捨て、

「何を期待している?」

「はひぃ、ふひぃ、ほへぇ」

 泥にまみれながら、思いっ切り腰を引き、何とかしのぐ。体勢が崩れているのに、明らかにもともと少ない体力が底を尽きかけているのに、腹が立つほど槍の扱いだけは流麗。身体が覚えている感覚だけで振るっているのだろう。

 だがそれも――

「何も起きない」

「そう、思ったら、まあ、負けるよね」

「時間の問題だ」

「誰が、見ても、そりゃ、そうだ」

「ならば何故⁉」

「ネーデルクスはさ、もう笑えるほど、クソほど人材が、いないんだよ。オタクらとは、違ってさ。でもね、だからって、諦めるのは、違うでしょ、って話」

「ゆえに神の力に祈る、と」

「馬っ鹿でい。僕は、このクソったれな神に祈ったことなんてねえよ。勝手に、埋めてるだけだ。悪意じゃないのは感じるんだけどさ、過保護だよねェ」

 ならば、何に縋り、抗っていると言うのか。

「だからさ、利用はするけど……僕は神に祈らない」

 ラロの眼が、

「僕が祈るとすりゃ、そりゃあ他力っしょ!」

 堂々と言い放つ男の眼に、一瞬吸い込まれてしまう。格好良い台詞ではない。皆を力で引っ張る今までのリーダー像とは違う。今のエスタードでは通らない。自分とて力を示しここにいる。今、気づかされた。

 自分たちは先頭を歩んでいた、つもりだっただけではないのか、と。

 ラロの広き視野が若き可能性が持つ引力に引き付けられていた。足りないものだらけに見えた青年が、知らぬ間に――

「遅ェよ」

「なっ⁉」

「ギィィィィイガァ!」

 矢の雨が、やんでいた。それと同時に勢いを付けた『死神』が跳躍する。マルスランとマルサス、ネーデルクスではさして評価されない剛力を誇る親子二人の掌を踏み込んで、彼ら親子の力と共に、放たれた。

(ありえない)

 ラロの思考の中に存在しなかった選択肢。思いつかなかったわけではない。思いついた上でありえないと削ぎ落としていたのだ。先日の戦いで『死神』を知った。その戦いの最中、誰もが近づこうとすらしなかった。力の差があったから、『死神』に絶対の信頼を置いていたから、そう考えることもできる。

 だが、手負いのマルスランはともかくジャクリーヌの腕ならば介入できたはずなのだ。上手くコンビを組まれたなら、正直詰みを覚悟していた面もある。見た目より薄氷、ルドルフの見立て通り余裕に見せていたが、余裕はなかったのだ。だけど彼はしなかった。出来なかった。『死神』の制御が出来ないから。

 副官と思しき女性の動きもそれを示していた。側近である彼らの後退が一番早かったのだ。味方でも危険、そう思っている証左。

 だから、ありえないと考えた。

「「奮ッ!」」

 誰かと組み、何かを成すことなど。行動を決意した彼らですら成功したことに驚愕し、愕然としている者もいるほどなのだ。

 それを計算に組み込め、など――

「出来ると?」

「いいや。それ考えるの、僕の役目じゃないし」

 何かするかもしれない。それだけで必死に足掻いた。そして、彼らは見事それに応えた。ここで初めてラロはルドルフだけではなく、ネーデルクスと言う群れに危険を感じた。凡俗の、何の輝きもない群れが、少しだけ光って見えたから。

「やはり、危険だな!」

 この群れを引き出したのは、この男の足掻き。ラロは『死神』の着地点を見て、即座にルドルフの首を狙った。まだ間に合う。着地して、こちらに向かってくるまでの時間、矢の雨がない以上、十分間に合う。

「だから判断が早いんだって!」

 その計算を『死神』が飛び立ち、宙にいる間に済ませる怪物。

 矢で分散していたラロのプレッシャーを一身に受け、顔が歪むルドルフ。矢の一本でもなければこれ、一合も持たないんじゃ、と思わされてしまう。

「今度こそ――」

「ウォラァァアッ!」

「ぐっ、ジャン・ジャックか!」

 その間を、豪槍が割って入った。凄まじい勢いで飛翔し、ラロをかすめた槍が地面に突き立つ。矢に負けぬほどの速さ、矢など目ではない威力。

 それを投げた張本人は筋骨隆々の身体を誇示する。

「ふん、ジャクリーヌよ、失礼ね」

 それで一歩、後退を余儀なくされたラロは顔を歪めた。この介入は読めた、が、それを考慮に入れる余裕がなかったのだ。

 何故ならば――

「コロォス!」

「参ったな。また首が遠のいた」

 彼女が、『死神』が着地と同時に、凄まじい勢いでこちらへやって来たから。彼らの助力があったとはいえ、彼女もまた超人なのだろう。紅き雰囲気、限界を幾度も超え続け、身体を壊し続けた先に、稀に順応する個体が存在する。

 あちら側では大体、群れの長や王になっていたものだが――

「……こちらでは『死神』、か」

「コロコロコロコロォ!」

 横薙ぎの剣を、突進の勢いそのままに信じ難い動きでかわす。上体を倒そうが、寝かそうが、何ら動きに支障はないとでも言うみたいに。

 先日より幾分、速い。

「コロォ!」

 マルスラン、マルサスの助力もあって今の彼女は武器こそ帯びていないものの、鎧の一部、四肢を守る部分は残していた。厳密には脱ぎ去る余裕もなかったのだろうが。彼女はそれを存分に使って凄まじい破壊力の裏拳を見舞う。

 ラロは歯噛みしながらそれを捌き、位置を譲るしかなかった。悔しげなラロ、下卑た笑みを浮かべる『死神』、籠手が断ち切られ、血が噴き出すのは『死神』であった。それでもこのやり取り、勝ったのは彼女なのだ。

 位置を譲り、『死神』に武器を与えてしまったから。

「好きに使いなさいな」

 ジャクリーヌの投げた槍、である。彼の体躯があってようやく振るえる槍なのだが、『死神』にとっては軽いもの。

「クヒィ!」

「ッ⁉」

 想定よりも卓越した腕前にラロは驚愕する。普段、儀礼用の大鎌を使っているのは『死神』をより際立たせるため。別に彼女がそれを得意としているわけではない。そもそも彼女に得手とする武器など存在しない。

 最強最悪の五体を存分に振るうのみ。

「大鎌独特の筋も厄介だったが、素直な槍を使うとこれまた厄介」

「ギガァァアアア!」

 『死神』の猛攻を剣で、盾で、華麗に捌くラロ。先日同様、憎たらしいほどにエレガントな立ち回りである。余裕すら感じる。

「何故、加勢しない?」

「余裕だね、ほんと。矢のことなら僕以外には当たる可能性があるでしょ」

「君が、だよ」

「ああ、そのことなら」

 ルドルフはアメリアの槍をぽい、と捨てる。裂け目めがけて。

「は⁉」

 ラロよりも対岸の味方陣営が驚愕する。

「僕はさ、現場のことは現場に任せる主義なのよ」

「……どこまでも、君は」

 あとは任せた、とばかりにルドルフはどっしりと地面に座り込む。せめて『死神』が戦っている間に逃げるなりなんなりすればいいのに、あえてこの男は動かぬことを選んだ。勝つも負けるも、生きるも死ぬも、任せるとばかりに。

「ならば教えよう! 戦場は、人生は、ままならぬものであると!」

 自分が諦めた道を征かんとする青年。それはいばらの道である。何処まで行っても世界は一握りの才人が動かすもの。理想は違うが、それは真実であり現実。才人が動かさねば、手足などまともに機能しない。

 そんな夢を、ラロは壊さんとする。

「ギ、ガァ!」

 鋭く、しなやかに、流麗で、無駄がない。理合いと身体能力、およそ武に必要な全てを兼ね備えた男である。さらに一段、加速する。

 強い。誰が見ても、強過ぎる。

「理想は理想だ。世の中は、君が思うほど賢く出来ていない。感情があり、個体差があり、愛がある。ならば、君のそれは夢想でしかないと何故わからぬ!」

 猛るラロ。言葉が熱を帯びるほどに、剣からは冷たさだけが残っていく。

 これほどか、誰もが愕然とする。

「異なる人を取りまとめる力が必要なのだ。暴力、財力、権力、何でもいい。富める者には責務がある。人を導き、引き上げる責務が!」

「ガァァァアアア!」

「我らは完璧を目指さねばならぬ!」

 冷たい視線、熱を捨てた、否、熱を反転させたかのような眼は、凍れるような蒼を宿す。触れるだけで凍えそうな、時すらも止めるほどの――

「こうやって」

 完璧なる見切り。時を切り取ったかのような斬撃は、

「あっ」

 猛攻をすり抜け、ここしかない機を掴みラインベルカの兜を断ち切った。

「まだ、若過ぎたな。背負うには」

 自身への暗示が解け、ラインベルカに戻った彼女の顔面を、ラロの無慈悲な裏拳が突き刺さり、鼻血をまき散らしながら吹き飛ぶ。

「槍を拾いたまえ。この戦は、俺と君で決着すべきだ」

「やなこった」

「死ぬぞ」

「拾っても死ぬでしょ」

「……そうか」

 ラロはルドルフを仕留めんと近づく。ルドルフは笑みを浮かべたまま動かない。何か策があるわけではないのだろう。手がなくとも、万事休しても、彼はきっと笑みを崩すこともしない。生にしがみ付く理由が希薄だから。

「何か言い残すことは?」

「特にないけど、しいて言えば……完璧ってつまんないよね、って感じかな」

「…………」

「僕には足りないことがさ、とても魅力的に映るよ」

 ルドルフは苦笑する。それは神の子だからこそ言える言葉。神として崇め奉られた少年時代、今だってそう。誰よりも歪に、完璧に近づけさせられたからこそ、彼は誰よりも欠けていることに飢えた。欠けている者を合わせることを求めた。

 欠けを繋げて――

「お坊ちゃまァ!」

「今の君では、俺に――」

 ルドルフは困ったような顔で微笑んだ。鼻血をふき取る暇もなく、ただ全力でこちらに向かってくる彼女を見て。道具と道具、使う者が違うだけ、優しくしたことなんて一度としてないのに、それでも彼女は自分を守ろうと必死に駆ける。

「守る!」

 全くもって道具の自覚がない。

「この、力は⁉」

 兜を断ち切った。彼女はもう『死神』足り得ない。そう言う自己暗示によって自分を引き上げていたはずが、ここに至り無心に、ルドルフを救うためだけに、自分の限界を引き出していた。この前よりも、先ほどよりも、

「馬鹿、な」

 今この瞬間が、最も強い。

「守る守る守る守る守る守る守る守る守る!」

「舐めるなよ。俺は、ラロ・シド・カンペアドールだァ!」

 ラインベルカの死力を尽くした猛攻をラロは凍れる瞳で見切る。良いだろう、強くなったのならば、それを自らで埋めればいい。

 より完璧に――

「戦は取捨選択の連続、切り捨てられぬ者に、先は無い!」

 順応し引き上がった限界の先を超えるラインベルカ。血反吐撒き散らし、骨身が軋みを上げ、それでもなお喰らいつく。

「ルドルフを――」

 執着、そんなものは無駄。熱は全て冷たい思考に変換するのみ。

 それが正しさ。それが武人の、軍人の在り方。

 国家を担う者の、エレガントな――

(あっ)

 刹那、過ぎるのは一度として会ったことのない相手。宿敵だと心に決め、一度だけと我儘を通し、まみえようとしたが機会は訪れなかった。人生で唯一の我儘、そう決めていたはずなのに。削ぎ落とし切った先に、彼だけが、残って、消えない。

(俺は初めから、完璧になど――)

 僅かな揺らぎ、ほんの僅かな、盾の角度のズレ、深く、受け過ぎた。

「――守るッ!」

 盾ごと腕をへし折られ、そのまま胸を貫かれる。完璧であった、最後の瞬間まで、ただの一度すら間違えなかった。天運を相手取ってなお、完璧であり続けた。あの時のように。最後の、最後で、自分は――

「は、はは、がは、そうか、俺では、ここ止まり、か」

 ラインベルカは力強く、槍を突き上げたまま、気を失っていた。死力を振り絞り、より純粋な方が勝った。ほんの一滴だけ不純だった自分と純粋な彼女、その差が結果に現れた。悔しくはない。理解してしまった、から。

「休め、ラインベルカ」

 その言葉がかけられた瞬間、彼女は膝を折る。

「……良いのかな、まだ、何とか届くよ、君の首に」

「そうしたら全力で逃げるさ。現場に任せる主義だけど、彼らが得た戦果を台無しにするほど、僕は間抜けじゃない」

「そうか。ならば、諦めよう」

 ずるり、と槍を抜き、そこから血が溢れ出す。ラロの顔は穏やかなものであった。潔く、何処か晴れやかな、敗北者とは思えぬ貌。

 一歩ずつ、ゆっくりと、彼は後退していく。

「ラロ・シド・カンペアドールは強かった。僕よりも、ずっと」

「だが、勝者は君たちだ。俺は、異を唱えぬよ」

「天運に振り回されたのに?」

「それは君も同じだろう?」

「……ほんと、クソほど完璧だよ、あんたは」

 ラロはにこりと微笑む。そして、真顔になって――

「エルマス・デ・グランには疫病が蔓延している。おそらくは空気を伝い感染するのだろう。歯止めの利かぬ状況だ」

「承知した」

「相手が賢いと少ない言葉で済むから、助かる。こちらで出来ることはするが、そちらにも感染者がいるかもしれない。しばらく移動は――」

「大丈夫だ。自分の尻は、きっちり拭くよ。恨まれるのには、慣れている」

「……そうか。感謝する」

 さらに一歩、後退する。

「最後に一つ、謝罪しておこう。俺の首が欲しいと思うが、実は罹患した身でね。死体を遺すわけにはいかない」

「そうかい。ま、僕も死姦の趣味はないから、お好きにどうぞ」

 そして、ラロは崖っぷちに立つ。脳裏に過ぎるは息子たちのこと、自分と同世代の仲間たち、そして期待してくれていたであろう先達たち。彼らに謝罪する、先立つことを。加えて完璧を演じ切れなかった自分を許すな、と。

 最後に残るのは、やはり――遠く東の空を見つめながら男は嗤う。

 嗚呼、遠いな、と。

「実に、心地よい戦だった。またやろう、ルドルフ君」

「絶対やだ」

「ふふ、ではね、アデュー、ルドルフ・レ・ハースブルク」

 そう言って、自らの足で、彼は舞台を退場した。最後の最後まで彼らしく、勝ったなどと微塵も思わせぬ去り際は、ムカつくほどに完璧であった。

「……アデュー、ラロ・シド・カンペアドール」

 裂け目を覗き込み、ルドルフは珍しく敬礼した。

「イカサマなしなら君が勝っていたさ。大差でね」

 そして、身を翻した。

 勝った者の責務を果たすために。


     ○


 悪鬼、失敗作、投薬を続けたことで制御の利かぬ怪物となってしまった自分は、生物兵器として飼われていた。鎖に繋がれ、解かれたなら獣や同種と殺し合う日々。だけど、あの日、あの地獄のような場所で――

『これ、僕のね』

『ギ、ガ?』

 自分から歩み寄り、傷つけられたのに、彼は笑っていた。薬を打ってくる恐ろしい連中を抑え込んで、そう言ったのだ。

 感情の希薄な眼で、それでも怪物を抱く。誰もが奇異の眼で、嫌悪の視線を、畏怖を向けていたのに、彼だけは同じなのだと笑いかけてくれた。

 忘れもしない。あの頃は、獣のような表現しか出来なかったけれど。今だって傷のなめ合いと言われたなら、何も言えないけれど、それでも――

「起きた?」

「……はい。ご無事でしたか?」

「ま、今のところはね。たぶん明日辺り筋肉痛だよん」

「なら、良かった」

「何も良くない。もう働きたくない」

「頑張ります。お坊ちゃまの役に立てるように」

「そう思うなら、人の使い方でも覚えなよ。将たるものさ」

「それは、難しいですね」

「なんで?」

「興味がないからです」

「……三貴士を与えれば変わると思ったけど、変わらんねえ君も」

「はい」

「笑顔で言うなよ。まったく」

 ルドルフはため息をつく。彼を困らせるのは本意ではないが、それだけは譲れないのだ。自分たちを造った国に恨みこそすれ愛着などあるはずがない。彼女は与えられた力を、立場を利用して彼だけを守り続ける。

 それ以外は、些事。

「表、明るいようですが。昼間ですか?」

「いや、夜だよ。ラロって男はほんと大したもんだね。全部段取りしていたわけ、自分が負けた場合ですら。何よりもさ、中々出来ないよ」

「何が、ですか?」

「部下に、死ねと言って、それを部下が、市民が、飲み込める関係作り、かな」

「……では、この光は」

「そ、エルマス・デ・グランが燃えているのさ。自らが焚いた炎でね。あんまり良い景色じゃないから、君は見なくていいよ」

「お坊ちゃまは見られるのですか?」

「そりゃまあ一応、責任者だし。場合によっては、僕も味方を焼く羽目になるからねえ。予習みたいなもんさ。勤勉勤勉」

 へらへら笑うルドルフを見て、ラインベルカは笑わなかった。彼女は知っているから、彼がこういう顔をしている時、本当はどう思っているのか、を。

「では、共に見ます」

「何でそうなるのさ?」

「背負う時は、共に」

「……馬鹿たれ。僕とお前は違うって何度言ったらわかるのかね。片や贅沢三昧酒池肉林、片や投薬で正気を失い実験三昧。割に合わんでしょ、足並み揃えちゃ」

「いいえ。私はそう思いません」

「わからずやだねえ。じゃ、一緒に見ようか」

「はい」

「たまには僕がおんぶしてあげようか?」

「御冗談を」

 立ち上がり、軋む身体を無理やり動かして、ルドルフを背負う。

「君は馬鹿だねえ」

「はい」

 そして、共に自分たちの行動の結果を、罪の炎を、見つめる。

 今回の戦いがもたらした、天運がもたらした、理不尽の景色を、見る。

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