センチ麺足る

今日あった出来事を基にしたフィクションです。

実在の人物や団体などとは関係ありません。本当です。


 ◆



「向こうは料理が美味いから色々食ってこい。特に魚が美味い」


 父のそんな言葉を思い出しながら、僕は北陸へと向かった。


 一ヶ月の長期出張は憂鬱であったが、少々の期待と興奮を抱いていたことも否定できない。社会という超絶大規模機械の歯車として組み込まれること数年、ここまで長期の出張は経験がなかったからである。


 北陸と聞いて、まず父の顔が浮かんだ。同時に、父の実家である石川の山々、そして日本海の風景が思い出された。最後に父の実家を訪れたのは、いつだったろう。祖父が亡くなって、小学校を休んだのを覚えている。僕がみた石川の風景は、それが最後かもしれない。


 父の生家は、とにかく山奥にあった。家屋を見ればその奥に深い緑が広がっているというのに、家屋を背にすれば眼前に日本海が飛び込んでくる。子供の頃は、その矛盾にも似た風景が不思議で仕方がなかった。住むにも暮らすにも不便そうな土地だと子供心ながらに思ったものだが、深緑と潮風が鼻腔をつつく感覚は嫌いでなかったと思う。


 とにもかくにも、北陸と言えば父だ。そう思った僕は久しぶりに実家へと電話をかけ、今回の長期出張の件を両親に伝えた。それで返ってきたのが、父の言葉という訳である。


 結論から言うと、父の言葉は正しかった。出張先の人からおすすめされる食事処はどこも美味で、かつリーズナブルだ。下戸である僕が『地酒が飲めないのが惜しまれる』と何度も思ってしまった。


 そうこうしているうちに、北陸へやってきてから二週間が経過した。長いと思っていた出張も、気づけば折り返し地点へと差し掛かろうとしている。


「あれ」


 北陸出張三週目の初日を終え、車を走らせていた時のことだ。信号待ちの最中、遥か遠くの山々と沈む夕日を眺めていると、ふと前方の看板が目に留まった。看板にはでかでかと数字が一文字描かれているのみで、遠目からではそれがなんの施設なのかはわからない。


「ここは」


 だが僕は、その看板に見覚えがあった。

 遥か昔、幼き頃の記憶が脳内に吹き抜けて、深緑と潮風の香りを思い出させた。


 記憶という道で踵を返すように、パズルのひとかけらを埋めるように、疑念を確信へと変えるように、僕はその店へ車を滑らせる。はやる気持ちを抑えつつ店を覗きこむ。


「ラーメン屋だ」


 車を降りると同時、溢れかえった記憶が群れを成し、渦巻きながら脳と体を駆け巡る。この店は北陸で人気のラーメン店で、ここらを中心にチェーン展開していたはずだ。北陸地方を走る国道の数字を店の名に冠しているのだと、父が教えてくれた。


 今から十数年前、祖父の訃報を受けて石川へと向かった僕たちは、道中にこのラーメンを食べたのだ。当時の僕は、殆どあったことのない祖父の死に、正直なところ何の感情も抱かなかった。それどころか、ほぼ初対面の父方の親族にこれから会うことを想像すると、ひどく面倒ですらあった。


 だからだろうか、僕も兄もラーメン屋ではずっと黙りこくっていた。あるいは子供心ながらに、それっぽく喪に服さねばならないと思っていたのかもしれない。母も母で、神妙な面持ちでいたからだ。そんな状況下では、好物のラーメンも思うように喉を通らなかった。


『なんだ、もういらないのか。じゃあ父さんがもらうぞ』


 そんな中で、父だけがいつもと変わりなかった。食い意地の張った大食漢の父は、いつもこうして僕ら兄弟の残りを喰らうのだ。そんな父を見て、ようやくラーメンの味が舌を伝ってきた。大好きな、醤油味だ。


 どうしてこんな些細なことを、記憶しているのだろう。祖父が亡くなったという一大事の最中とはいえ、たった一度の昼食の記憶だ。それも十数年も前の記憶である。


「いらっしゃいませ」


 僕はそんなことを考えながら、ラーメン屋の戸を開けた。これも何かの縁であるし、今日の夕飯はこことしよう。懐かしい記憶の中では、確かにあのラーメンは美味であった。


 僕はカウンター席に腰かけるやいなや、醤油ラーメンを注文した。少々寂れた雰囲気の店内には、僕以外の客はない。おぼろげな記憶の中では、もっと店内は賑わっていたと思う。


 あの頃は家族四人、テーブルを囲んでラーメンを啜っていた。けれども今は、僕一人、カウンター席で料理を待っている。客のいない店内と、十数年前とはまるで違う状況が、どうしても僕を物悲しい気持ちにさせた。


「お待たせしました」


 僕が物思いに耽っていると、カウンターに器がゆっくりと置かれた。スープからは湯気が昇っていて、食欲をそそる匂いが漂ってくる。 ノスタルジィな気持ちは、麺と一緒に飲み込んでしまうとしよう。そう思いながら箸を手に取った瞬間、妙な違和感、異物感のようなものが喉仏のあたりからせりあがってくるのを感じた。


 眼前に置かれたラーメンと、記憶の中に眠るラーメンの姿が、どうにも一致しない。店舗が違うとはいえ、僕が食べたのは間違いなくこの店のラーメンのはずだ。では何故、ここまで記憶と食い違うのか。


 その答えは、すぐに判明した。目の前に置かれたラーメンは、やけに野菜が多いのだ。メニューを見返してみると、どのラーメンにも多めの野菜がトッピングされていて、どうやらこの店の売りであるらしい。


 だが僕には、野菜をたくさん食べた記憶がない。それどころか、僕は当時野菜が大の嫌いであったはずだ。それなのに、実に美味しい醤油ラーメンの記憶しか僕の中にはない。



『なんだ、もういらないのか。じゃあ父さんがもらうぞ』



 そこで、はっと気づく。

 いつも僕たちの残した料理を食べてきた、食い意地の張った父の顔が、ふと思い出されたのだ。


 当時の父はきっと、僕が避けた野菜を平らげたに違いない。自らの父が亡くなったのに加えて、子供が好き嫌いをしていて野菜を残しているというのに、いつもの調子でおどけてくれていたのだ。


 記憶の中のラーメンがこんなにも美味なのは、父あってのことだったのだ。美味であったのは、家族と食べた記憶そのものであった。


 ちょうど僕は、当時の父が母と結婚した年齢になった。僕には、子もなければ所帯もない。僕は父のように、子に輝かしい思い出を持たせてやることのできる父親になれるだろうか。もしも父が亡くなった時、僕は父と同じように振舞うことができるだろうか。


「ごちそうさまでした」


 そんなことを考えながら食べた飯が、果たして美味であるだろうか。案の定、啜った麺の味は当時ほどか輝かしいものでなかった。少々物足りなさすら感じる。その物足りなさとはきっと、兄や母、そして父の存在であるのだろう。


 それに加えて、少々僕は大人になりすぎてしまったかもしれない。あの頃はよかっただとか、家族は尊いものだとかを考えるようになった大人には、あの頃と同じ味は見出せないだろう。


「ありがとうございました」


 一味足りぬ味に切なさを感じながら、僕は席を立つ。油でべとついた床が、僕の足取りを重くする。それはまるで、かつての記憶が足元に縋りついてきているかのように思えてならなかった。


「またお越しくださいませ」


 店員の溌剌とした声を背に受けながら、僕は店を後にする。店員には申し訳ないが、もうここへは来ないだろう。それは決して料理が不味いだとか、店員の態度が気に喰わないだとか、そういうことではなく。



「父さん。日本海って、寒いな」



 これ以上、あの思い出を薄めたくないからだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

稀山美波.com 稀山 美波 @mareyama0730

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ