不自由な規則と自由な不規則

以下のお題をもらって書きました。

『規則正しい生活を送る男』『ピチカート』



 ◆



 六時、起床。

 ベッドから身を起こし、時計を確認する。起床予定の時刻から一分の狂いもなく、時計の長針は真上を差していた。


 六時十五分。

 朝食を食べる。今日は金曜日なので、五枚切りの食パンが丁度これでなくなるはずだ。十七時半に退社した後、十八時半に近所のスーパーで買い足すのを忘れなくてはならない。


 七時。

 通勤ラッシュでごった返す駅の構内へと踏み入る。七時五分発の上り電車をあえて見送り、電車を待つ列の先頭に立って、七時十分発の電車へと乗る。


 ここまで、俺のスケジュールには一切の狂いはない。

 その事実に、俺の心は晴れ渡っていく。


 健全な精神と健全な肉体は、規則正しい生活によってのみ維持されると俺は確信している。決まった時間に起き、決まった量の飯を食べ、決まった数だけ排泄を行って、決まった時間に寝る。そういった規則正しい生き方が、身も心も健康に保つのだ。


 規則とはつまり、リズムだ。

 正しいリズムで奏でてこそ、音楽というのは芸術へと昇華される。がたがたに崩れたリズムの音楽に、どうして人が魅せられようか。


 人も音楽も、同じ。

 リズムが崩れたが最後、それはひどく醜いものとなってしまう。


 この信条を胸に、二十余年の間生きてきた。

 俺のこれまでが幸福かつ健全であったのは、規則正しい生活があったからに他ならない。


 とどのつまり、『規則正しい生活』とは俺にとっての宗教のようなものなのだ。



「いやあ、リズムとかテンポとか。あたし、そういうの苦手なんすよね。もっとこう、自由に気ままにやりたいっていうか」


 だからだろうか、こんなことを言ってのけた女に、俺はひどく苛立った。


「リズムが苦手な人がどうしてバイオリンを始めようなんて思ったんだよ」


 俺の宗教を冒涜してのけたのは、趣味として第二・第四土曜日に通っているバイオリン教室にやってきた新人の女だった。近くの女子大に通っているだかなんとか言っていたはずだ。彼女の自己紹介のせいで、練習時間に二分ほど誤差が生じてひどく苛立ったからよく覚えている。


「動画サイトで、ピチカート奏法ってやつを見たんすよ。それがカッコいいのなんのって。わあ、カッコいいなあ、あたしもやりたいなあって」

「ピチカートって、弓じゃなくて指で弦を弾くやり方だろ。基礎もできてないのにそんなのできるかよ。まずはしっかり基礎を固めて、規則正しく、リズムよく弾けるようになってから――」

「ああ、あたし基礎とか規則とか嫌いなんすよ。堅苦しいっていうか、不自由というか、面倒で」


 へらへらと笑ってみせる彼女に、怒りが沸々と湧いてくる。

 歳もバイオリン歴も上の俺に対する態度ではないことにも苛立ったし、彼女と揉めている内に計画していた練習時間に十五分もの誤差が出たのにも勿論苛立った。


 だがしかし、俺の怒りに火を付けたのは、そこではない。


 彼女は今、確かに『不自由』と言ったのだ。

 俺のこれまでの生き方を、不自由だと。


 自らを正しい規則という鎧で覆うことで、我が身を守ってきた。だがしかし彼女は、それは自らを守る鎧ではなく、自らを縛る鎖であると言うのだ。


 俺の心は怒りに震えたが、それをなんとか抑えつける。

 予想だにしなかったこの怒りは、俺が求める『規則正しさ』から最も遠いものだと、自分に言い聞かせたのだ。


「もういい、勝手にしろ。あんたのお陰で十五分もズレが出てるんだ。練習は十七時からキッカリ三時間。その内、自主練時間はちょうど二時間。余分に十五分練習してちゃ、帰宅予定の二十時二十分に間に合わない。これ以上、俺の規則正しい生活を乱さんでくれ」


 俺はそう言い放って彼女に背を向け、バイオリンに意識を戻す。

 楽譜を何度か読み返した後、ひたすら弓に神経を集中する。


 楽譜から一瞬のズレもない演奏ができる度に、俺の心は落ち着いていく。背後から、弦を指で弾いた際の独特な音が聞こえてくるが、もうそれにかき乱されることはない。


 しばらくして、本日の練習はいつもより早めに終了となった。生徒は皆、教室を後にする。俺はというと、帰宅予定時刻にあわせるためただぼんやりとしながら教室に残っていた。


「演奏、見てたっすよ」


 すると、誰もいなくなったはずの教室に、えらく間延びした声が一つあった。


「いや、あれっすね。何度も動画見ながら真似してたっすけど、難しいっすね、ピチカート。結局できなかったすよ」


 少々驚いて振り返ると、先ほど俺の信条を踏みにじった件の女がいた。

 その声と仕草は、彼女が奏でていた歪な旋律と同様、規則もリズムもなく目まぐるしく調子を変えている。軽い調子で笑ってみせたかと思えば、時折真剣な顔を覗かせる。


「当たり前だろ。ま、何事も規則正しく、きちんとやれってことだ」

「いやあ。さっきはすんませんした。先輩の言うように、ちゃんと正しくやるのも大切だって痛感したっすよ」


 普段ならその不規則極まりない動作に嫌悪するところだが、彼女のそれは不思議と好感が持てた。



「楽譜から全く狂いのない先輩の演奏、めっちゃカッコよかったす」



 そして、彼女の言葉は俺の弦を大きく震わせた。


「え、いや、あの」

「んじゃあ、あたしはこれで。今度は演奏教えてください」


 踵を返して俺に背を向ける彼女の頭上には、壁掛けの時計が見える。今教室を出れば、ちょうど二十時二十分に自宅へ着くはずだ。


「ま、待って」


 規則正しい生活こそ、俺のすべて。

 健全な肉体と健全な精神は、規則正しい生活にこそ宿る。

 その宗教を信じる俺は、ここで家へ帰るべきなのだろう。


「どうかしたっすか」


 今の俺の心は、不健全極まりない。

 だが気づけば、勝手に口が開いていた。


「この近くに、いい飲み屋があるんだ。これも何かの縁だし、ちょっと一杯どうかな、って」


 酒は週に一度まで。決めた時間は必ず守る。

 自らが決めたそんな規則を、自らの手で破ろうとしている。

 俺の心は不規則に乱れ、心臓は不規則な鼓動で脈打ちはじめる。


 その一方で、先ほどまで目まぐるしく不規則に乱れていた彼女の表情が、一瞬にして固まった。


 目元も口元も水平のまま動かず、まるで一定の規則に従っているかのようだ。



「すみません。私、門限があるので」



 規則規則と言っていた俺だ。

 そんなの破っちゃいなよ――だなんて、どうして言えようか。

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