その二――Ripple effect・下

 不漁によって調査が行われ、異様な気配が感じられたという川は、しかし傍から眺めるだけならば穏やかに見えた。他の三人より小ぶりのパンをゆっくりと平らげたタウは、水筒の紅茶をカップに注いで傾ける。

「水にまつわる何かが起きているのなら、ウォーティスの加護を持つガンマさんが適役でしょうから」

 そうして口に出した台詞に、二つ目のジャムサンドに手を伸ばしていたガンマは少し黙り込み。

「……尽力、します」

 そう頷いてみせた、大きな肩をシータが叩いた。片手に持っていたお代わりを一口で飲み込んで、片手に持っていた地図をばっと広げたシータと何事か話し始める。

「デルタさん」

 横目に見ていたデルタが振り向くと、タウが短杖たんじょうを手にしていた。それだけで用件を汲み取って手からパン屑をはたき落とし、傍らのホルスターを引き寄せる。

「どう?」

 デルタの愛銃である二丁のリボルバー、一丁ずつ差し出されたそれを丁寧な手つきで受け取ってタウが短杖を翳した。

「……順調、だと思います」

「ふーん」

 返事は軽いが、相手の手元を見据える目は真剣だった。金属と木製の部品が組み合わさった拳銃の表面に、短杖に填め込まれた輝石から零れた光が細い細い線となって張り巡らされている。

「機構には一切干渉してませんから、異常を来すことはないはずです」

 ふう、と息を吐いて集中力を切れば、仄かな光はそのまま霧散した。返された銃を矯めつ眇めつ確認し、一見何の変化もないリボルバーをホルスターへと納める。そうしてデルタは敷物の上に置いていた自分のカップを取り上げ、空であることに気がついて戻した。

「まだありますよ」

「じゃあもらおっかな」

 タウによって紅茶が満たされたカップを手に、デルタは不可解そうに唸った。

「聖霊術で強化、ってのはまあ嬉しいけどさ。今までそんなこと言わなかったじゃん」

「僕も最近になって調べ始めた分野なんですよ」

 タウもカップを傾ける。護衛官ふたりは未だ話し込んでいた。

「神官や護衛官が扱う道具は初めから聖霊の祝福ありきで作られるものですし、王宮にある旧い品物もそういうものが多いそうです」

 宙にある書物を読み上げるようにすらすらと述べる。

「後からもの自体を作り替えずに術を施す、ということ自体がかなり珍しいんですよね。だからあまり研究されていないんです」

「そんなもんなんだ」

 そうなんです、と頷いてタウは眼鏡を直した。

「昨日掛けた術の形式で問題なさそうなので、維持する形で掛け直しておきました。今日一日は保つと思います」

「了解。何かあったら言うね」

 紅茶を干してデルタは息を吐いた。ジャムの空き瓶を戻したランチボックスの蓋を閉じ、片付けを進めながらタウは年長のふたりを窺う。



 伏せていた瞼から藍色の瞳が姿を現した。地図の一点を見つめ、鍛錬の積み重ねで皮膚の硬くなった指を乗せる。

「目的地に変更なし、だな」

「……はい」

 方向を示すコンパスの蓋をパチンと閉じ、表面に細かい傷の付いたそれを手慰みに弄びながらシータは頭上に目を凝らした。

「ちょっと不穏なんだよなぁ。ガンマ、天気分かるか?」

「…………いえ、自分は……」

 低い声に滲む困った色。思い出してシータが片手を立てて謝意を伝えた。

「お前も護衛官だったな」

 大きな体躯で慎ましく頷く様に苦笑しつつ、上着の内ポケットにコンパスを仕舞う。ガンマの耳では深い海色の輝石が金の金具と共に揺れていた。

「あんだけ聖霊術使えんなら天啓も得られそうなもんだけどよ」

 がりがりと頭を掻くシータの耳には輝石のイヤリングは存在しない。しかし、花緑青の輝石と金の細工品をペンダントとして持っていることをガンマは知っていた。

「シータ殿も……」

「俺はこっちはほとんどからっきしだよ」

 ゼータもだけどよ、と名を出した妹と同じ色の目に、呆れにも似た感心を含ませて。

「武術に聖霊術に、お前は史学もだろ。よくやるよなぁ」

 シータは口の端を上げ、わざとらしく意地の悪い顔を作った。

「イオタから真面目すぎる修練馬鹿、とは常々聞いてたんだが」

「……そう、でしょうか」

 対してガンマは心から不思議そうに首を傾げる。自覚がないのだろうその様子にからからと笑い、胡座を掻いた脚に頬杖をついてシータは隣を見やった。

「ま、お前はそれでいいんだろうな」

 それからぐっと背筋を伸ばし、勢いをつけて立ち上がる。座ったままのガンマは考え込むように黙っていたが、

「……それが、自分に出来ることだった、のです」

 それだけ零して、彼もまた立ち上がった。



 遠く聞こえる水音と、さくさくと外出用のブーツで下生えを踏む音。自然が生む音が記憶を確かめるタウの鼓膜を揺らす。

「ガンマさん、ちょっと確認したいんですが」

 すぐ後ろを歩いていたガンマを振り返り、眼鏡を押さえつつ述べた。

「出立の前に調べた状況から、ここの水源の祠に何かがあったのは間違いないと思うんです。この辺りで一番規模が大きい祠がそこですから」

 頷く相手は並び歩き、無言で話の続きを促す。

「近づくにつれて、少しずつ何か感じてきてはいるんですが……」

 その先はまだ定かでないのだろう、言葉を切ったタウの意図を察してガンマは正面を見据えた。

「……自分、も。何か、……淀み、のようなものは」

「淀み、ですか」

 ふむ、と考え込むタウの足下に気を配っていたガンマは、前を行っていたふたりが立ち止まっているのを見て隣の肩を叩いた。

「あ、ありがとうございます」

 見上げて礼を述べたタウに薄く笑い、巨躯の護衛官は空いていた距離を詰める。

 近づけばかなり激しく響く水音は、水源近くの滝壺によるものだった。休憩を取った川辺から程なく到着した滝は、幅は広いものの高さはさほどではない。とはいえ、

「登る、には厳しいよねぇ」

 ひとの背丈の三倍ほどはある崖を見上げ、途方に暮れてデルタがぼやく。しかしシータはさして困った様子もなく振り返った。

「で、どうなんだよ」

 訊かれたふたりは藍色と黄褐色の目を見合わせ、滝に向き直る。

「祠の建立当時は上がるための足場を作ったとは思いますが、今使える状況ではないと思います。から」

 視線を集めたガンマが、一度深く頷いてひとり歩み出た。滝から流れ落ちた水が作ったのだろう淵の縁に手のひらを浸して、片手でイヤリングを外す。

 繰り返される深呼吸は集中を高めるもの。言葉を重ねながら閉じていた瞼を薄く開き、淡い青に光る輝石を浸した手に重ねて呟く。

きざはしを」

 詠唱の結びに応えようと、輝石の光が淵に貯まる水に浸透した。そこから立ち上がった一本の水柱が崖の上と下とを繋げ、はっきりとした形へ収まると共に冷気が凝固した。

「……器用なもんだな」

 目の前に表れた氷の階段に感嘆の声を洩らしたのはシータだった。確かめるように一段目へ下ろしたブーツの底にはしっかりと安定した足場の感触が返る。

 注意を払いつつも淡々と先頭を切っていくシータの後を、恐る恐るといった様子でデルタが追いかける。立ち上がったガンマは外したついでのようにイヤリングを握り込んだ手を手のひらに打ち付け、青みを帯びた金属質の手甲に両手を覆わせた。

「助かります」

 階段の袂で待っていたタウも上り始めた、その後ろをガンマが追う形で四人ともが崖の上を目指す。

「よっ、と」

 岩壁の上に着地したシータは足場を何度か蹴り、崩れる気配のないことを確認してから後続に向け手を振った。

「うっわ高ぁ……」

 顔を引き攣らせつつ足早に崖際から離れたデルタの後を、緊張で強張った動きのタウがそろそろと渡ってくる。最後にガンマが危なげない足取りで到着すると、その背後で派手な音を伴い階段が崩壊した。

「え、帰りは?」

「術の維持は集中力を割いていないといけませんから。下りるなら僕も足場を用意出来ますし」

 タウの説明からとりあえず問題ない、というところだけ汲み取ってデルタはあっさり踵を返した。近寄ったのはシータの方で、片手に持っていた地図を横から背伸びして覗き込む。

「もう見るまでもねえぞ」

 そんな少年の視界から取り上げた地図を畳み、仕舞いながら指し示した先。

 崖の上は、岩の灰色と苔の緑に塗り分けられた地表だった。その中央に広々と青が横たわり、緩く吹く風に表面を揺らしている。自然の水盆はその縁を一カ所だけ欠けさせて滝を、その先に流れる川を生み出していた。

 その、湖の出口から正反対の岸辺に祠は建っていた。

「……あれ、木製っぽいよね。手入れされてないわりに綺麗だけど」

 デルタの言う通り、岩を削り出した台座を木製の柱が囲い、板葺きの屋根が覆っていた。長い間ひとの手が入っていなかった筈のそれは、しかし自然に朽ち果てることなく悠然とその場にある。

「あれだろ、聖霊の加護。土地の力の宿る建造物は聖霊の力に保護される、ってな」

 諳んじたシータはペンダントの鎖に指を掛ける。服の中から引き上げた金と輝石のペンダントヘッドを鎖から外し、親指で宙へ跳ね上げる。風を起こし食らった輝石を核に生成されたポールアーム――ハルバードをキャッチし構えたその隣で、タウが右腕に括り付けていた短杖を左手に持った。

「ここには確かに聖霊のご加護がある。……それなのに、異常に見舞われているということは」

「何かしら起きてる、ってことじゃん」

 右腿のホルスターから引き抜いた銃の弾倉を確認したデルタへ、隣から前方へ歩み出ながらガンマが頷く。ガン、と両手の手甲を打ち合わせ、深く湛えられた水中を見透さんと目を細めた。

「……やはり」

「はい」

 巨体に並んだ痩躯が同意した。突き出された短杖が祠を真っ直ぐに指し示す。

「原因は?」

 武器の柄を肩に担ぎ、尋ねたシータへガンマが、あるいはタウが答えを返す、前に。


 ――……レ。


「……あ?」

 打楽器の残響じみた音に幻聴を疑った、その態度が拍車を掛けた。穏やかだった水面が不意に沸き立ち、


 ――タチサレェエエイィッ――!


 どん、と中央から吹き上げた。

「わぁ!?」

 悲鳴を上げつつ、得物が水を被らないようデルタは素早く距離を取った。

「盾を!」

「壁を」

 並び立っていたタウとガンマは不可視の障壁を張り、超えてこようとする波を氷塊に変えて防ぐ。そして、

「おらぁッ!」

 頭上から真一文字に振り下ろされた斧の刃が、シータの目の前から氷混じりの水流を断ち切ってみせた。

 切り崩された大波の向こうに銃口を向け、目を凝らしてデルタはそれを捉えた。

 ――メザワリ、ナ……。

 湖の中央に、大きく広がる鰭を宙に泳がせ浮かぶ大きな影。

「……あれ、魚?」

 くすんだ蒼銀の鱗を持った、渦を巻いたような金の瞳で四人を睥睨する巨体は、確かに魚の形をしていた。尾鰭で宙を叩き、ぱくぱくと口を開閉する。

「水聖霊の眷属、だと思います。由来するものの形になると聞きますから」

 声を聞き取ったようにぎょろり、と動いた目玉がタウに向けられる。纏う気配に混ざる計り知れない悪寒のような何かに白いコートの肩が竦んだ、その感覚を裏付けるように。

 ――ルオオォオオオォオンッ……!

 鼓膜を介さない狂った咆哮は、口の動きに伴わず響き渡った。

「んだよあいつは……!」

 反射の動作で片耳を塞ぎつつシータが顔をしかめる。同じく咄嗟に反撃しようと撃鉄を起こしたデルタは、しかし直前のタウの言葉を思い出したのか引き金は引かなかった。

「……そうか、そういうことですか!」

 そうして横目で見られていることにも気づかず考え込んでいたタウが不意に叫ぶ。そうして両手で短杖を握り込んだ神官を自然な動きで庇い、視線は眷属であろうものに向けたままシータが問うた。

「どうしろって?」

「ウォーティスは流転の聖霊です。その眷属であるあれは、恐らくこの川における循環を司っているんです」

 ちら、と窺ったのはガンマの顔で、冷静な表情のままこくり肯定されたことに後押しされて言葉は続く。

「長い年月の積み重ねでちょっとした淀み、例えば悪霊の欠片や何かが集まって、浄化し切れなくなったそれらで暴走している、のでは」

「つまり何すりゃいいんだよ!」

 痺れを切らしたシータの怒鳴り声に、けれど怯まず切り返された。

「浄化しますから時間を下さい!」

 言うが早いか目を閉じたタウが言葉を紡ぎ始める。舌打ちひとつでハルバードを振り回し、湖の縁から立ち上がった大波を切り伏せたシータが目配せする。

「頼んだ」

 頷き砲弾の如く飛び出したガンマが湖に足を踏み出した。重厚な靴底が濡れる前に、即座に作られた氷の足場が受け止める。そのまま真ん中へ伸びていく橋を追いかけるように走る背中へ、何かが迫った。

「よいしょ、っと!」

 身を捩った魚型の眷属が飛ばしたいくつもの鋭い鱗が、硬質な音を立てて弾け飛ぶ。左手にも拳銃を握りガンマを狙う鱗を的確に打ち落としたデルタが、滑らかな動きで追加の薬莢を装填して弾倉を戻した。

「……うーん、いつもより破壊力がある、かなぁ?」

 微妙な手応えに苦笑しつつも、再び放たれた弾丸は水中から躍り出た水塊を破散させる。それでようやく聖霊術が掛けられている実感が湧いたらしく、へえと感嘆の声が洩れた。

 詠唱を続けるタウと支援に尽力するデルタ、ふたりに攻撃が及ばないよう武器を振るい叩き落とし断ち切ってシータは息を吐いた。

「思う存分本業でやってくれよ」

「護衛官らしいところも見せてよね」

 言い返したデルタへ余裕ありげに口角を上げて見せて、シータがくるりとハルバードを持ち直した。二言三言早口に紡いで、

「凪となれ」

 ぼそりと呟き武器に燐光を宿し、嵐のように荒れ狂う水辺へ向き合う。空中の魚が鰭を振り翳し、巨大な波を岸へと送り込んだ。

 ガンマが余波を上手く凍らせていなしたことに無言の賛辞を贈りつつ、もうひとりの護衛官は得物を大きく背後へ引き絞って、

「ぅおらぁあッ!」

 気合い一閃薙ぎ払う、と共に蛍の群れが飛び去るように光が弾けた。それらに触れて押し流すのを厭うように大波は唐突にその推進力を失い、湖の水に戻って行く。

 苛立ち尾を振る眷属の真下へ、滑り潜り込んだガンマが片手を湖に突っ込んだ。途端バキバキと音を立てて氷色の茨が宙へ育っていく。途中で枝分かれし鱗に覆われた胴体を幾重にも捕らえた頃には、水を吸い上げ太く柱状になった氷塊がガンマの目の前にあった。

「……っ」

 両腕にそれを抱え、根元を足場から割り取って振り回そうと腰を落としたガンマへ、最後の抵抗とばかりにぱかり魚の口が開いた。墨で作ったような泡がいくつも落ちて、動きを止めたガンマへ向かう、のを。

「それ絶対よくない奴でしょ」

 泡と同じ数だけ銃声が響き、全て割られて無に帰した。口元に薄く笑みを浮かべて、ガンマは晒された筋肉質な腕が冷えるのにも構わず力一杯抱き込み、引き倒す。

「……はああああっ!」

 陸地に向かい投げ飛ばされた、まるで魚を掬い取った網のような氷柱に、

「うわっとぉ」

 着地点を見切ってデルタは素早く距離を取った。一方シータが確認したのは、対象が聖霊の眷属だからだろう、長く力を込めて詠唱を続けていたタウだった。

 煌々と輝石に湛えた光に眼鏡のレンズを光らせて、準備は出来たと神官は頷く。

「よし」

 手で合図し安全な位置取りをさせて、後は見守るばかりとシータはハルバードを肩に担いだ。落ちてくる捕らえられた相手へと短杖が掲げられる。放つ光に目を眩ませた様子もなく、タウは真っ直ぐに浄化すべき対象を捉えて口を開いた。

「我、光の聖霊により希望を与えられしものより、汝、水の聖霊の御許にて舞い泳ぐものへ」

 自身が守護を受ける聖霊とは異なる聖霊の元にあるものへの言の葉は、本来そう多く扱われるものではない。最も多く遭遇するであろう神官長という立場を持つオメガが自ら教授し、自身の知恵として取り込んだことを以てタウは続ける。

「汝の身の内にて安息を待つものに、正しき流転あらんと祈るものなり」

 浮かび上がった光球が落下する氷塊に触れた。丸い眼を、くすんだ鱗を、包み込んで膨れ上がる。浮力と落下速度が相殺し、術の維持が途切れて砕けた氷柱の破片だけがばらばらと落ちてくる。

「晴らし、流し、清き身へと戻られんことを」

 言葉を結んで、左手の短杖を振り上げ、下ろす。叩き割る動作に伴ってカン、と澄んだ破砕音が場を圧し、きらきら氷の粒が降った。



 ――…………。

 役目を終えた氷の茨を振り払い、透き通るような蒼銀を煌めかせて大きな影が泳ぐ。タウの生み出した光球を卵の殻のように脱ぎ捨て、ふわり宙へと踊り出す。

 黄色い硝子玉の瞳がくる、と見上げる顔を眺め、滑らかに空気中を泳いで下りてきた。そこから一切目を離さないタウから、静かな足音の方へとシータは顔を動かす。頷いたガンマに薄く笑い返して、役目を終えたハルバードを地面に突き刺した。

 ――ふむ。

 文字を脳裏に投影されるかのように聞こえた声が、目の前で凝視してくる魚の形をした存在からと分かってタウは表情を和らげた。

「お加減は如何でしょうか、水聖霊の眷属様」

 ――悪くない。面倒をかけたようですまんな、光の子。

 ひらん、鰭が翻り、その場でくるり旋回する。

 ――地の子、風の子、……おお我らが水の子も。

「もう大丈夫、ってことでいいんだよね?」

 ここに至ってようやく安心出来た、と表情に描いてデルタは銃をホルスターに納めた。ひとりだけ物珍しそうな様子であることを感じたのだろう、両の眼をきょろりと動かし眷属は少年騎士に向かい合う。

 ――……なぁるほど。子らの主に仕えし者か。

 ずい、と迫ってくる様に若干後退りつつベレー帽を乗せた頭が頷いた、そんな光景に苦笑しながらタウが話しかけた。

「僕たちはロエー川、……ここを水源とする川に異常があるということで調べに来たんです」

「そこのが溜まってた淀みとやらを浄化したそうだが」

 緩い風が吹き、ハルバードの形が崩れて輝石が残る。それを首元から取り出した鎖に繋ぎ直して、シータが問いを投げかけた。

 ――我も気づかぬとは不甲斐ないものよな。流転に任せるうちにこの身を穢していようとは。

 表情はなくとも心なしか落ち込んで見える様子の眷属へ、

「……いえ」

 未だ手甲を嵌めたままの手を、ガンマは差し伸べていた。

「居て、くださったから。もたらされた恵みに、感謝を」

「うん、まあロエー川がここまで不漁だったって記録は見当たらなかったし、ってことはずーっと頑張ってたってこと……なのかな」

 王宮での主との話を思い出しながら首を捻るデルタに向かい、シータが肩を竦めて見せる。

「今後はたまに様子見の人手寄越せばいいだろ。オメガに言っとく」

「それがいいでしょうね」

 頷いて、神官が微笑んだ。

 ――……なれば、我もまた務めに力を尽くすとしよう。

 尾鰭を打ち鳴らして舞い上がり、湖の中央へとぷんと沈む。生まれた波が岸辺へ幾重にも打ち寄せて、やがて穏やかに静まっていった。



「というわけで頼んだ」

「何がというわけ、よ」

 神官長室にはふたりの人影。執務机に寄りかかり、腕を組んでシータは部屋の主を見下ろした。

「今言っただろうが」

 それを見上げて睨み返し、机に頬杖をついてオメガは溜め息を吐いた。

「じゃなくて。あたしの可愛い弟と大事なお客様はどうしちゃったわけ」

「ああ」

 訊かれたシータも何故か顔を曇らせた。立てた親指で指し示した窓の外は既に暗く、昇った月の光がぼんやりと窓の縁を光らせる。

「この時間だろ、先に食堂に突っ込んできた」

 一度言葉を切り、更に眉間に皺を寄せる。

「待ってたからな」

「あー、さっき帰ってきてからずっとそわそわしてたもの」

 くすくす笑うオメガと対照的な仏頂面が舌打ちをひとつ零した。

「心配ないって分かってても落ち着かなかったんでしょ、健気じゃない」

「…………」

 否定はしないが黙り込むシータへ、大袈裟な動作で呆れてみせてオメガは椅子から立ち上がる。

「あんたのことも、でしょ」

 勢いよく肩を組み、横から覗き込む黄褐色の瞳が瞬いた。見返していた顔が、ふっと息を吐いて緩む。

「ところで神官長様は心配してくれなかったのか」

「そんなの要る?」

 ばん、と背中を叩かれてシータがわざとらしく咳き込んだ。笑いながら追い越したオメガを追って、悪態を吐く。

「……っあー、ほんっと可愛くねえなお前は」

「ひどーい」

 欠片も傷ついた様子もなくドアを突き開け、神官長は廊下に躍り出た。ぱたぱたと食堂に向かっていくその背中を追って、護衛官も歩を進める。

「それにしても」

 あん時のガキがなぁ、と呟いた声は、前方から呼ぶ声に掻き消された。


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Seek&Chase 風野 凩 @kogarashi-kazano

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