その二――Ripple effect・上
数年前を思い起こす旅路を、かつてと違ってひとりで進む。その時から今この時までに積み重ねた経験は、彼に僅かばかりの余裕をもたらしていた。
「……確かに遠いよね」
当時の相棒へ苦笑交じりに返して、濃紺のベレー帽を直す。結ぶには短い波打った茶色の髪を掻き上げ、首元の汗を拭ってから水筒を煽った。
動きやすさを重視し特注で作り上げられたズボンと長袖のジャケットの上から、ただの旅人が使うにしては上質な革製の部分鎧を重ねている。腰から太腿に吊った二つのホルスターに収まる拳銃は、見る者が見ればその珍しさから使い手のことまで分かるかもしれない。
けれど今デルタが進む丘陵地帯の浅く広い森には、出会うひとなどそういない。
小休止を切り上げ、騎士団のマークが付いたベレー帽をもう一度直してデルタは立ち上がる。傾き始めた太陽と、一定の方向を指す道標の針を頼りに、
「日が暮れる前には着ける、……よね」
木々の隙間に凝らした狙撃手の目が目標を捉えるまでは、まだあと少しの時間が必要だった。
「お疲れ様でした」
出迎えたのは最早見慣れたと呼べる顔で、連れ立って神殿の入り口を潜りながらデルタは大仰に力を抜いてみせた。
「ほんとだよ。よくこんな不便なところに住んでいられるよね」
「慣れてしまえば問題ないものですよ」
苦笑してタウは白い石造りの廊下を進む。すれ違った、恐らくは鍛錬終わりの護衛官の群れを目の端で捉えたデルタが、当然の連想であるかのように尋ねた。
「今日はゼータ、一緒じゃないんだ」
返事は一拍、眼鏡の真ん中を押し上げて直す間が空いてから返ってくる。
「普通に神殿で過ごすなら、神官と護衛官はほとんど別行動ですよ。……特にこの数日、護衛官は何人かごとに日を分けて近くの山で泊まり込みをしていますから」
「ふーん、そっちにいるんだ」
無言を回答として、タウは長い廊下の角を曲がった。そうして見えた目的の扉には神官長室、と札が掛けられていた。部屋の前に立ち止まり、金糸の神官は少年騎士を見やる。
「話は姉さんと、と聞いています。僕はあちらの中庭にいますから何かあれば」
「ありがと」
短い言葉と共にひらり振った手が、そのまま扉をノックした。答えを聞いてひとり部屋へと歩み入ったデルタを出迎えたのは、別れたばかりのタウと同じ色の髪と瞳。
「遠路はるばるご苦労様ねー、ほんと」
灰色のタートルネックに、聖印が入った白い上着は神官服の基本の型だ。一般的な女性用であればワンピースにコートであるところが、ノースリーブのトップスに丈の短いジャケットを羽織り、ワイドパンツを選んでいるところに本人の性格が表れていた。
「どうもお久しぶりです。姫からもよろしく、ってさ」
整えられた神官長室を横切り、唯一散らかった執務用の大きなデスクの前でデルタは足を止めた。書類の隙間にだらりと肘を着き、オメガは目の前に立つ少年を見上げて目を細め笑う。
「あたしの可愛い弟と弟子がお世話になったみたいね」
「こちらこそ、こっちの事情に付き合ってもらっちゃって助かったけどね」
言いながらデルタは仕舞い込んでいた封筒を取り出した。差し出されたそれをオメガが受け取り、王族の印が押された封蝋で差出人を確認する。ペーパーナイフで封を切って便箋が取り出されると、質の良い便箋に整った文字が並んでいた。
「……んー」
形式的な挨拶を読み飛ばし、用件に視線を走らせて若い神官長は唸る。そこに書かれた内容と、それからいくつかの事柄を組み合わせて考え。
「とりあえず、だけど。デルタ君も同行してくれるってことでいいの?」
「報告もあるから、出来れば見届けてこいってさ」
そんな返事に頷いて、明るい表情でオメガは告げた。
「じゃあ」
「準備するからちょっと待っててちょうだい、……って言われてもね」
ほとんど追い出される形で廊下を歩く。ぼやいたデルタが記憶を頼りに中庭へ近づけば、最初に音が届いた。
破裂するような音の源、その光景を横目にデルタは渡り廊下から中庭へと足を踏み入れる。廊下の屋根が作る影が落ちる柱の際の、ベンチに腰掛けていた目的の相手に近寄って。
「……何してるのさ、あれ」
そう尋ねてきた相手を、タウは本を捲る手を止めて見上げた。訊いてきた少年は問うた相手を見ないまま、中庭の中央へと視線を向けている。
「おふたりとも、動かさないと体が鈍るそうです」
苦笑しつつ同じ方向を向いたタウの言葉を肯定するように、破裂するにも似た衝突音が響いた。
中庭は護衛官の鍛錬や神官の儀式に用いられることもあり、それなりの広さが確保されている。その空間を存分に使い、ふたつの人影が縦横無尽に動き回っていた。
「よ、っと!」
受け止められ音を発するのみだった拳を引き戻し、勢いを逃がすように身を翻して距離を取ったのは若草の髪の美丈夫だった。身に纏うのは長袖の訓練着と、丈夫な素材で仕立てたのだろう簡素なズボン。
構え直した彼の前に立つのは、同じデザインながらこちらは半袖の訓練着を着た精悍な大男だった。淡い氷色の髪を短く整え、後ろへ流し纏めた褐色の護衛官は先程の衝撃が嘘のように平然と相手を見据えている。その耳元では深い海色の輝石が揺れていた。
「あれ、ガンマさんと……」
「デルタさんは初対面でしたっけ」
言われ、しかしデルタは既視感に首を捻った。その間にも状況は動く。
仕掛けたのはガンマだった。巨体が獣じみた俊敏さで懐に飛び込み、相手の足下を狙う。
「んー、なーんか見たことあるような」
「シータさんはゼータのお兄さんですから」
話題となっていることなど露知らず、シータはガンマの肩に片手を着いて跳ねることで足払いを回避した。置いた手を支点に背中側へ回り込んで着地し、しゃがみ込むように片手を地に着き振り向きざまに回し蹴りを繰り出す。
「成程、……でも」
なんとなくそれだけじゃない気が、と記憶を辿る横顔をちらりと窺ったタウは、
「げっ、お前ちょっ」
そんな呻き声に顔を正面へ戻した。
こちらも振り向いてそのまま対応したのだろう、シータの足首を手のひらで捕らえたままガンマがシータを見下ろしていた。崩れた体勢のままでは、先程の拳のように引き戻すことも叶わない。
そのまま両手で脚を掴み振り回しにかかる姿に、デルタは自身の相棒たる少女が大剣を扱う様を思い出した。
そして出来うる限り手加減され、宙へ投げ出された勢いは受け身さえ取ればさしたる負傷にはならないとデルタの目には映った。しかし当の本人にその動作が見られず濃茶の目が見開かれた、その隣で。
「救いの腕を」
予想していたのだろうタウが唱えていた聖霊術を結んだ。左手に持った
「横着しないでくださいよ」
「悪いな、助かった」
眼鏡の向こうから呆れを含んだ視線を投げられても、返ってきたのは簡潔な礼のみだった。重厚なブーツで地を踏みしめたのを待っていたのだろう、役目を終えたネットはあっさり霧散していく。
「……ご面倒、を」
歩み寄ってきたガンマは投げ飛ばした相手、から隣に立つ金髪の神官に目を移し、ぼそりと謝罪を口にした。希薄な表情に一滴だけ滲んだ申し訳なさそうな色を汲み取って、タウは柔らかく笑ってみせる。
「ガンマさんのせいじゃないですよ。シータさんが姉さんの無茶に慣れすぎて感覚がおかしくなってるんじゃないですか」
「お前酷い言いようじゃねえか」
シータは顔を引き攣らせたが、それでタウが訂正することもなかった。溜め息混じりに頭を掻き、見慣れないもうひとりに向かい目を眇める。
「成程、オメガの客ってのはお前か」
呟いた口の端がつい、と上がった。
「……シータ殿?」
僅かに眉を顰めたガンマに意味ありげな目配せを送り、シータは年少の騎士へ片手を差し出す。
「折角だし騎士団の精鋭とやらの実力見せてくれよ」
「……えぇ?」
ひくりとデルタが顔を歪ませた。嫌な予感に隣を見るが、金髪の神官から返されたのは無言の苦笑だけだった。頼ることを早々に諦めた少年は愛想笑いを貼り付けて、自分より頭ひとつ分上にある顔に向ける。
「いやオレ前出て体張る担当じゃないからさあ」
「それでもちっとは動けるだ、ろっ!」
誘うにこれ以上言葉は不要とばかりにシータは拳を振るった。まずは様子見と大振りな動作で顔面に向かってくるそれを、身を捻って躱したデルタの視界が大きな背で埋まる。
「ガンマさん」
その主の名を呼べば、振り向かないまま構えて頷く。庇う意思を信じて少年は逃走を図った。
「おー、やっぱそうなるか」
中庭の中央へ走る姿を捉えてシータはとんとん、と爪先で地を突いた。二対一の構図となったにも関わらず余裕の滲む態度に、先手必勝とガンマが足払いを掛ける。
「っ!」
避けられるところまでは予想通り、しかし伸びた脚に重さが掛かって藍色の瞳に動揺が走る。太い股から肩を蹴り、ガンマの体を足場に跳んだシータは軽やかにデルタを追いかけた。
「鬼ごっこの方がお好みってか」
「うっわ」
背後からの足音に、デルタの手が反射的に腿のホルスターへ伸びた。が、
「おっと」
詰めた距離から手元を精密に狙って、ブーツの爪先が繰り出される。引っ込めた指先に風圧を感じてデルタは顔を引き攣らせた。
「そいつは禁止ってことで頼むぜ」
「オレの本業こっちなんだけど!」
叫びつつ、崩れた体勢を素早い前転で立て直す。その間に追いついたガンマが背後から躊躇無く振り下ろした拳を、見えていたかのような滑らかな動きでシータは半身ずらして回避した。一瞬視線を合わせ、にっと笑った顔にガンマは両腕で頭を守る。
「よっと!」
ぴったりその位置へ放たれたハイキックを弾くように跳ね返され、シータは跳んで後退した。着地した先には立ち上がったばかりのデルタがいたが、
「付き合ってらんないって」
目を離さぬままととん、とステップで距離を取る。だが隙を突かなかったことで、
「逃がすか」
「わっ!?」
デルタの足下を衝撃が襲い、がくんと体勢が崩された。しゃがんだ体勢のまま一蹴りで追いかけ、上着を翻しながら低い位置で脚を振り回したシータが立ち上がる。
「……!」
駆け寄ろうとしたガンマはふと近づく気配に気がついて動きを止めた。それを目の端で捉えつつも躊躇いは見せず、片足を大きく振り上げる。
「おらッ」
「っ、いったぁ!」
咄嗟に左腕を掲げ右手で支え、横手からの蹴りを防ぎながら押され転がる。何とか受け身を取ってすぐ立ち上がったデルタはしかし、鈍く痛みを訴える腕をグローブ越しに押さえて苦笑した。
「容赦なさすぎるでしょ」
「そんぐらいならあっさり治してくれる奴がいるから安心しとけって」
「出来ないし痛いものは痛いんだよねぇ」
会話を交わしつつじりじりと下がる姿を遠目に見て、見守っていたタウは抱えていただけの本をベンチに置いた。立ち上がろうとした彼は、
「あら」
「え?」
その隣をするり通っていった人影に目を丸めて立ち止まる。
「やーだあんた楽しそうにしちゃって」
先に気づいていたガンマが道を空け、彼女は悠々と歩む。そして凍り付いた背中に向かい、
「あたしも混ぜなさい、よっ!」
一足で高く跳んで頭上から飛びかかった。
「うおっ、ってお前武器持ち込むんじゃ、おい!」
身を捻って躱したシータのすぐ傍に着地し、オメガは得物の杖で踊るように突きと薙ぎを織り交ぜ連撃を繰り出す。怒鳴りつけたシータが舌打ちと共にペンダントの鎖に指を引っかけ、ヘッドを外し投げ上げた。
ますます笑顔を深めたオメガと、ハルバードで応戦し始めたシータ。その横をすり抜けて脱出したデルタが大きく息を吐くと、そこにぬっと影が差す。
「……デルタ殿」
平素と変わらぬ落ち着きを取り戻したガンマが手を差し伸べていた。腕を庇うデルタが仕草で遠慮を示すと大人しく引き下がり、その代わりに打ち合いのとばっちりに遭わないよう背後を警戒する。
「ありがと」
「……いえ。力及ばず、すみません」
真顔で肩を落とす大男に苦笑したデルタの元へ、短杖を手にしたタウが合流した。
「痛むところ、見せてください」
「あー治して治して」
お願い、と言いながら自ら袖を捲ったデルタの腕には、厚手の生地でも吸収しきれなかった衝撃が痣となっていた。見て実感が湧いたのか顔を歪めたデルタの腕に短杖を翳し、術を紡ぎながらタウは苦笑する。
「これ、シータさんがやったにしてはマシだと思いますよ」
元の肌の色を取り戻し、痛みの失せた腕を動かしてデルタは肩を竦める。
「手加減するくらいなら最初から巻き込まないで欲しかったなぁ」
くるくると袖を下ろす少年の隣で、護衛官が頭ふたつ分は高い背を居心地悪そうに縮めていた。
「ガンマさんはお怪我ありませんか?」
慰めるように柔らかな笑みを浮かべて尋ねたタウへ、首を横に振る返答が返された。この神殿にとっては客人に当たるふたりの顔を見、背後で打ち鳴らされる武器の剣呑な音に背を向ける。
「ああなったら姉さんが満足するまで終わらないでしょうし、食堂でお茶にしましょう」
「それ賛成」
シータとオメガの方を気にしていたガンマも促され、日が傾き始めた中庭から灯りが灯された廊下へ入っていく。その場に残ったのは男の怒号と女の笑い声だった。
明けて翌日。再び森の中を進んでいたデルタはふと足を止めた。
一夜の宿となった神殿を早朝に発ち、進み続けてまもなく太陽が天の頂点に昇ろうかという頃。デルタが街から神殿へ通った道から少し北に進路を取り、木々に覆われた緩やかな傾斜を登る。行く手には山が聳えていて、近づくほどに道は険しくなっていた。
「大丈夫?」
「…………はい……」
振り返って声をかけた相手は、上がった呼吸の合間に辛うじて返事を絞り出す。立ち止まって両膝に手を着いていた眼鏡の神官は、大きく息を吐くと肩掛け鞄からハンカチを取り出し汗を拭った。
「……運び、ましょうか」
殿を務めていたガンマの提案に、
「や、いいだろ」
応えたのは先頭にいたシータだった。大振りのナイフで藪や枝を切り払って道を作っていた彼の前には、いつの間にか開けた空間が見えていた。
「ほら」
シータが指した先、木が深く生い茂る森の中を、渡るには厳しいほどの深さと幅を持った川がさらさらと流れていた。下流まで長く広く続いていくという水辺に近寄って、四人は澄んだ水面を覗き込む。
「どうでしょう」
しゃがみこんだタウが、隣に膝を着いた大男に問いかけた。日陰の元冷えた水に手を浸したガンマはしばし黙していたが、小さく首を横に振って立ち上がる。
「……確かに。ですが、理由までは」
「では、予定通り水源を目指すということで」
話す様を眺めていたシータがそのまま空を振り仰ぐ。茂った木々の葉に遮られてはいるが、その隙間から太陽の光が零れ落ちていた。
「そろそろ昼時だし、飯がてらちっと休もうぜ」
「オレお腹空いたなあ」
提案に賛同したのはデルタだった。次いで頷いたガンマが背に負っていた荷物を下ろす。
「最短距離でここまで来たし、飯ゆっくり食うくらいは出来んだろ」
シータのリュックに入っていた敷物が広げられ、座り込んだタウが洗った手を拭った。
ガンマが水筒から注いだお茶を四人分配っている横で、タウがシータの背負ってきた荷物を漁る。取り出したのは植物の蔓を編んで作ったランチボックスで、開ければいくつかのパンと瓶が入っていた。
「今ここだろ」
タウが共に入っていたナイフで手際よくパンに切り込みを入れ、瓶の中の赤いジャムを挟んでいく。それを横目に見つつ、シータは広げた地図の一点を指した。
「下流に回るよりかはかなり短縮出来てるから、……今の調子なら滝壺まではすぐだな」
黒のインクで記された川をなぞり、その起点をくるりと囲って頷く。それを一緒に見ていたデルタは、即席のジャムサンドを手渡されて礼を言った。
「……なんか、とっても協力的だね?」
呟き、返事を待つ間を埋めるようにデルタはジャムサンドに齧りついた。特別に用意したのだろう柔らかで質のいいパンに、甘酸っぱいジャムがたっぷりと詰め込まれている。それをもぐもぐと咀嚼しながら見てくる茶色の瞳を見返して、シータは呆れたように溜め息を吐いた。
「そりゃあ、我らが神官長様のご指示だからな」
「シータさんは特に、デルタさんを無理やり組み手に巻き込んだ件を言われましたから」
ジャムサンドをふたつ手に、タウも地図の傍にしゃがみ込む。途端に仏頂面になったシータはタウの手からパンをひとつ引ったくり、大口を開けて頬張った。
「タウはまあ、知り合いだからついてきてくれるかもーと思ってたけどさ。シータさんにガンマさんまで来てくれるとは」
「…………自分も、ご迷惑をおかけしましたから……」
大きな手には小さく見えるジャムサンドを丁寧に食べながら、ガンマは瞼を伏せる。
「いやガンマさんはむしろ庇ってくれたじゃん」
「こちらからお願いしたような形ですし」
言ったタウがどこか諦めたような表情なのは、
「……オメガ様、ですから」
「ユプシロン様のご依頼の内容なら、ガンマさんが一番適任だと思ったんでしょうね」
今四人で出向くこととなった発案者によるものだった。
「というわけでよろしく」
「何がというわけ、だ」
笑顔のオメガを小突いたシータは、既に何かを諦めたような溜め息を吐いた。
デルタが神殿に到着したその日、食堂の片隅のテーブルに集まった五人。食事の時間から外れた食堂にひとは少なく、まばらに見える神官や護衛官も遠巻きに見るのみだった。
「やだもー乱暴ねえ」
「自分が暴れたいから組み手に乱入してくる神官よりゃ大人しいと思うぜ」
食堂の椅子を乱雑に引いて腰を下ろし、頬杖をついたシータは正面を見た。隣にデルタ、向かいにガンマを座らせて紅茶で持て成していたタウは、よく見知った色と同じ緑の瞳に見据えられて首を傾ける。
「僕は何も知りませんよ」
「そうじゃねえよ。他人事みたいな顔すんなってこった」
言われ、眼鏡の向こうで黄褐色が瞬いた。そこで苦笑したのはデルタだ。
「多分、オメガさんの次に詳しいのはオレかなあ」
ね、と投げかけられたオメガは腕を組み、
「そうねー」
背もたれに寄りかかって笑みを深めた。そのままジャケットの裏に付けられたポケットから一通の手紙を取り出す。
「これ、デルタ君が持ってきてくれたお姫様の手紙なんだけど」
「ユプシロン様、ですか?」
紅茶を啜っていたデルタが頷くと、タウが顔を曇らせた。
「何か問題が……」
「あーいやそんな心配されるような話じゃないよ、そうだったらまずオレここに来てる場合じゃないし」
苦笑と共に手を振った少年の正面で、ガンマが主と交わした会話を思い出す。
「……第一王子が、王宮に戻られた、と」
「そうそうカイ様がね」
デルタが応えた言葉の中の名前にシータが唸って記憶を探る。
「確かあれか、下の弟妹を溺愛してるとかいう」
「あんたみたいよね」
さらっと言い放ったオメガは隣から睨んでくる視線など意にも介さず、封筒から引っ張り出した便箋を机上に無造作な仕草で広げた。
「戻って早々カイ様が王宮の混乱を収めるために奔走してくれてさ、今んとこ姫は王子預かりで色々学習中ってとこ」
「で、王宮に報告された案件の中にこっち側で片付けた方が早そうなのがあったってことよね」
脚を組んで投げかけられた視線を受け取って、デルタが頬を掻く。
「……んー、騎士団の調査じゃ分かんなかったからね。意見が聞きたいなあってのは本音かな」
オレなら伝手があるからね、と周囲の顔を見渡した。その筆頭に当たる眼鏡の神官は咎められないのを確認しながら机の上の便箋を指先で引き寄せ、内容を黙読する。
「……ロエー川での異常、生き物の減少と異様な気配。現地の神官にも原因は分からず、ですか」
要旨を纏めたタウが脳内に地図を思い浮かべた。大陸を北西から南東へ向かい走るロエー川はこの神殿からそう遠くない山に水源を持つ。
「成程」
訪ねてきた理由に納得した弟に向かい姉が頷いた。
「だからタウ、デルタ君についてってあげなさいな」
「それは構わない、んですけど……」
ふと顔が曇る。その理由は、
「そっか、今ゼータ居ないって言ってたっけ」
「山中訓練、今回のに入ってたな」
シータのみならず先程聞いたデルタも知るところであった。
「そーなのよ。だからあんた代わりに行ってきてね」
「あぁ?」
片眉を上げる自身の護衛官にはにっこりと笑っただけで、ついと目線を動かす。
「それとガンマも。イオタには鳩飛ばしたから」
既に行ったこととして報告され、珍しくも明らかな動揺をガンマは示した。うわ、と声を洩らしたデルタと対照的に、長年付き合わされているタウとシータは小さい苦笑に留めた。
「…………自分も、ですか」
「そうそう。何しろ現場が現場だからー」
ととん、と手にしていた封筒で机を打ち、その場の面々をぐるりと見渡し。
「四人もいれば楽勝でしょ。さくっと片付けてきてちょうだい」
あっけらかんと、些細なお使いを頼むかのように神官長は託したのだった。
続
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