その一――Recollection Rhapsody・下

 運び込まれた台座付きの輝石に不備が無いかを、何人かの神官が手分けして確認している。それが済めば図を覗き込んで、記された通りの位置へと護衛官が運んでいった。

「浄化の陣の進捗は」

 その横を通りざま、イオタがその場の神官のひとりに問いかけた。淡い金髪を束ねた壮年の女性は、かつての馴染みの顔に表情を綻ばせる。

「イオタちゃん、神官長のお手伝いなのね。こちらはもう終わるわ」

 頷いた女性は、呼ぶ声に応えて指示を出した。安定した様子に何も問うことなく、イオタはその場を離れる。

 講堂内は今やお祭り騒ぎとでも言うべき様相を呈していた。本来ここで指揮を執るべき神官長は、代行出来る者に職務を丸投げし自分が神殿内を走り回っている。

「全く」

 呆れつつ、イオタはてきぱきと動く人の流れを眺めた。神官の学校とも言われる性質上、ここには指示指導に長けた者が多い。彼らがこなす仕事の全体像を捉え、調整することが今のイオタに求められたことだった。

「……イオタ様」

 不意に背後から降ってきた声に、イオタは声の主を見上げた。戻ってきたガンマは跪くと、駆け回る中で預かってきた伝言を告げる。

「量が、想定外です。……誘導幕が、足りないと」

 イオタは顔をしかめると、顔見知りの副神官長の元へ大股で近づいた。二言三言交わし、頷く。

「こっちももうすぐじゃ。儂らに任して行ってきんしゃい」

「仕方あるまいな」

 嘆息し、イオタは声を張った。

「誘導幕の軌道を絞り、洩れたものは各個撃破とする。手の空いたものから対処に回れ、場所の指示は副神官長に仰ぐように!」

 その声を、副神官長が紡いだ風の聖霊術が増幅した。講堂に響いた声の残響が消える前に、イオタは傍らに護衛官を伴い歩き始める。

「ガンマ、貴様私を抱えて走れるか」

 突然投げられた声に、ガンマは一拍置いて答えた。

「……頭上に、注意を」

 ちらりと投げた、イオタの紫の瞳が藍色のそれに映る。それを了承と捉え、ガンマはイオタの体を掬い上げた。ひとひとり抱えているとは思えない軽い足取りで、講堂の絨毯を踏み駆け出す。

「まず誘導幕の位置変更だ。言う通りに進め」

 身を屈めて腕の中に収まったまま、イオタは扇子で廊下の先を指し示した。



 目の前には忙しげな神官、あるいは護衛官の姿がいくつも見える。それをただ眺めるだけのデルタは、隣の少女の頭をぽんぽん、と叩いた。

「ま、オレたちはどうしようもないし」

 軽い調子で言って、講堂の隅のベンチに深く座り込む。その横顔をじっと見つめていた赤い瞳がつい、と下を向き、アルファはぱたぱたと両足で床を打った。

「……でも」

 物憂げな少女に、デルタは肩を竦める。室内に響き渡った声の主が護衛官と共に開け放たれた扉から出て行くのを横目で見送って、拗ねた口調が作られた。

「折角お話出来たのに、名前も答えてくれなかったんだよねえイオタ神官長。ゼータの方はどうもタウが嫌みたいだし」

「……あんた、ここでもやってたの」

 思わず呆れたアルファに、デルタは大仰な動作で嘆く。

「手当たり次第みたいに言わないでってば。あーあ、どうせ顔付き合わせてご飯するなら野郎より素敵な美人がよかったなあ」

 いつもの調子で嘯いた相棒に、アルファは少しだけ笑った。ふたつに結んだ桃色の髪を重力に従って垂らしながら天井を仰ぎ呟く。

「ねえ」

 ぱちぱち赤い瞳が瞬いた、その中に微妙な色を見いだしてデルタはアルファと顔を見合わせた。問いかける表情をじっ、と捉え、ぽつり。

「ここ来る前の仕事、覚えてる?」

「そりゃね」

 デルタはくる、と記憶を掘り起こすように宙に円を描く。

「あれでしょ、曰く付きの廃坑近くで起きた事故の調査。運んでたものが王宮宛てだったからわざわざ出向くことになって、ついでだからってオレらまで連れてこられて」

 話しながら、アルファが気まずげに目線を逸らしていくのにデルタは気づいていた。先に報告するため戻った上司のことまで話そうとしたのを止め、無言になった圧が注がれる。

「……あの、さ」

 それに耐えかねたように、アルファは重たそうな口を開いた。

「そんとき、その。うちイライラしてて」

「あーうん、そんな気はしてた」

 いかにもおざなりな態度の上司には多少思うところがあったのだろう、デルタの相槌にアルファがこく、と頷いて。

「だから、その時――」

 そう、続けた内容に少年は額を覆った。

「……えー、それいつ?」

「着いて最初の野営のとき」

 あーそっか、と呻いたデルタに流石のアルファも眉を下げた。

「やっぱそう、かなぁ」

「正直ありえるね」

 客人である筈の、まだ子どもに近い年頃のふたりが揃って頭を抱える様に、通りがかった護衛官が怪訝な顔をした。



 片腕ほどの長さの杖には球状の輝石が付いていた。それを手足の如く滑らかに操って、宿した光を振り撒き祓う。誘導幕に惹かれ流され、浄化の陣を設置した修練場へと誘導されていく一群からはぐれた悪霊が形無き形を溶かすと、オメガはすぐさま次へと向かう。

「っと」

 その最中に見つけたものに、急ブレーキを掛けて進路を変えた。自身と同じ金の髪を小さな尻尾のように括った、白いコートの後ろ姿が掲げた左手には木を削り出し輝石を填め込んだごく短い杖。

「ちょっと!」

 浄化された悪意の塊が残した黒い塵が、空気に溶けるのを見ることもなくオメガは弟の肩をどついた。容赦はあっても遠慮はないその一撃につんのめったタウは、相手に気づくと焦った顔で振り返る。

「姉さん、ゼータは」

「それはこっちの台詞よ」

 言いながら、オメガは自身の杖をくるり回した。たちまち光を含んだ輝石を真横に突き出し、一瞥もせず唱える。

「打ち払え!」

 言葉の通り広がった光聖霊の力は、向かってきていた悪霊を数体纏めて無に帰した。そのまま杖を肩に担ぎ、もう一度タウの肩に一撃をくれる。

「いっ」

「ほらあっち、さっさと走る!」

 オメガにもたらされる天啓は他の誰より正確で具体的だった。それを知っているタウは短杖を握り直し、力強く頷いて走り出す。

「ここで気合い見せないでどうするの」

 彼女なりの激励を遠ざかっていく足音に向けて、オメガは杖を構え直す。強い光は誘蛾灯のように悪霊を引き寄せたが、オメガの顔には余裕の笑みがあった。

「総力戦だし、あたしもちょっとは頑張ってみせますか」



 行き会った黒い影を光を紡いで消し去って、タウは咳き込んだ。運動不足の体が限界を訴えるが、それでも引き摺り進んできた先に異変が表れる。

「……っは、あれ、は」

 痛む脇腹を押さえ、ずり落ちる眼鏡を上げて見たのは何か鋭い物で傷つけられた壁だった。点々と続く傷跡を追いかけていったタウの耳に、聞き覚えのある声が微かに届く。

「――……ぅわ……」

「ゼータっ」

 聞こえた方向、ドアの開いた一室に半ば転げるように飛び込んだタウが短杖を持つ手を振るった。

「清め祓う波よ!」

 広がり打ち寄せた力が目の前の実体なきものを纏めて飲み込む光景を、壁際に追い詰められたゼータは茫然と眺めていた。両手に扱い始めたばかりの大鎌を握ったまま立ち竦んでいた彼女の元へ、タウは足早に近づく。

「ゼータ、怪我は」

「……タウ……?」

 いつの間にか追いつかれていた身長を屈め、顔を覗き込まれてゼータは。

「う、えっ」

 手から武器を取り落としてくしゃりと顔を歪め、救世主に縋り付いた。頬を黄緑の髪にくすぐられ、背中に回された腕の力に締め付けられてタウは狼狽える。

「ぜ、ゼータ、あの、えっと」

 ぐすぐすと耳元で聞こえる嗚咽にただ固まるしかない、そんな様子に気づく様子など欠片もなくゼータは神官のコートを握り締めた。

「なんも、効かねぇ、し、……ケラケラ、うるせえし」

 こわかった、と小さく小さく呟かれて、タウはようやく体の硬直が解けていくのが分かった。胴体ごと掴まった腕を何とか動かし、ぽんぽんと背中を叩く。

「もう大丈夫ですから」

 かけた声からややあって、小さく頷く気配がした。込められた力が抜け離れていくのに一抹の寂しさを感じながらもタウが微笑むと、気恥ずかしそうに目線を逸らしてゼータは押し黙る。

「…………おい」

「はい?」

 何とか押し出したぶっきらぼうな一言に、あまりに優しい声で返されてゼータは顔を歪めた。本来言おうとしたことを飲み込んでしまった代わりにばたばたと離れ、先程取り落とした自分の得物を拾い上げる。

「……遅いんだよ」

 結局飛んできたのは力ない悪態で、タウはそれでも苦笑した。

「すみません」

 そうして差し伸べられた手を、未だ充血が残る目が睨みつける。しかしタウが諦める前に、手のひらはむんずと掴まれた。そのまま引っ張られて歩き出したタウの耳に、進む勢いに任せて発せられた、

「っ、ありがとよ」

 乱暴な音が届いて、受け止められた。



「さて」

 ぽん、と手のひらで杖を受け止め、オメガは淀む修練場を見上げた。後に残るは最後の大仕事だけとなり、神殿の離れに位置するこの建物に全員が集まりつつある。

「先生」

 その間を縫ってやって来た弟子たちを見て、オメガは吹き出し指差した。

「ちょ、あんたなっさけない」

「分かってます……」

 背負って運ばれてきた、ぐったりとしていたタウをしゃがみ込んで下ろし、イヤリングを揺らしてゼータは彼を支え起こした。

「ほらよ」

「ありがとうございます」

 尽きた体力も多少回復したらしい、よろよろと立ち上がったタウが姉を向かい合う。

「……後は浄化の陣だけですか」

「それなんだけど」

 腕を組んだオメガは言葉を途中で切ると、こちらへ向かってくる一団に向かいひらひらと手を振った。

「来た来た」

「連れてきたぞ」

 人波を割って悠然と歩いてきたイオタの背後には、無言で付き従うガンマの他にあとふたり。

「うわぁ見るからにやばそう」

 目の前の建物に引いた顔を見せたデルタの陰に隠れ、アルファは黒い淀みをじっと見つめていた。

「で、イオタ。どう思う?」

 オメガに話を振られたイオタは、無言で隣の護衛官に目をやった。それを受け取り、ガンマは暫し瞑目して。

「……怒っている、のでは」

 藍色の瞳をうっすら覗かせた、その返答に闇聖霊の神官も頷いた。

「同感だな。お前はどうだ」

 護衛官でありながら応えを求められ、従ったガンマに目を丸くしていたタウは問われて短杖に額を付ける。

「そうですね、……僕も怒りや恨みの念を感じます。けど」

 腕を下げ現れた顔には戸惑いの表情があった。

「悪霊は得てしてそういうものなのでは」

「んー、今回に限っては指向性があんのよね」

 言って、オメガは渡り廊下の石材の上を無音で歩いた。

「ただの根性曲がりじゃねえってのか」

「あんたそういうこと言うとまた虐められるわよ」

 オメガの切り返しに、ゼータがぐっと黙り込む。横に立っていたタウは、袖を掴まれたことに気づかない振りで精一杯だった。

 イオタの横を通り抜け、デルタと並ぶ位置まで進んでオメガは片膝を着くと、

「そういうわけだから。事情、話してくれる?」

 青ざめたアルファににっこり笑いかけた。



「…………」

 俯く少女の頭と、未だ微笑んだままの師とを見比べてゼータは首を捻る。

「はぁ?」

「オメガの言い出したことだ、当てずっぽうではないだろうさ」

 肩を竦めたイオタは、それきり静観の姿勢を取った。その場の誰もが言葉を待つ空気の中で、溜め息がひとつ吐かれる。

「先に言っておくけど、悪意があったわけじゃないからさ」

 相棒の肩を叩いて、デルタが口火を切った。ごく普通の会話と同じトーンで置かれた台詞に背中を押され、アルファは顔を上げた。

「でも、……うん、うちのせい、だと思う」

 アルファの脳裏に思い出されたのは、何処にでもありそうな小石を積み上げた塚の姿だった。おそらく周囲に巡らされていたのだろう縄は長い年月の間に朽ち、間近にまで近寄ることが出来た。

 かつて落盤により廃坑となった場所の、そのすぐ傍とはいえ由縁の看板も自然に返った鎮魂の塚を。

「八つ当たりで殴ったら壊れちゃった」

 最早隠しようも無い、とけろり白状したアルファに、流石のオメガも目を丸めた。

「…………はぁ!?」

 絶句した周囲の中で最も早く立ち直ったゼータの、先の倍ほどの声量がタウの耳を至近距離で殴りつけた。面食らった様子に気づくこともなく、ずかずかとアルファに向かい声を荒げる。

「お前なぁ、そんなもん触ったら危ねぇのなんざ当たり前だろうが」

「だってあれがそーいうのだなんて知らなかったもん!」

 負けじと噛みつき返したアルファの、分けた前髪から覗くおでこをゼータがぺしりと叩いた。たちまちアルファが眉を吊り上げ、すぐ目の前の腹に頭突きをかます。

「痛って、この……」

 反撃に出ようとしたゼータの腕をぱしりと掴み、オメガがぽいっと後ろに投げ捨てた。

「うおっ」

「はいはいじゃれあいは後でね」

 たたらを踏んで文句を言う弟子は無視して、しゃがんだままだったオメガはふと隣の少年を見やる。

「あら、どうしちゃったのぼーっとして」

「……いや」

 一連のやりとりをぽかんと見ていたデルタは、我に返ると首を振った。何処か嬉しそうな空気には触れぬまま、オメガは一度手を叩いた。

「話を戻しましょ。お察しの通り、あのお化け軍団はその塚に封じられてた奴らでしょうね」

 黙って話を聞く真っ直ぐな赤い瞳に、差し出された手が映る。

「だから、ちょっとだけ手伝ってちょうだい。怖くないから」

 その手を見つめて。隣を見れば、デルタは促すように片目を瞑った。

「うん」

 一度、こくりと大きく頷いてアルファはオメガの手を取った。引かれるままに歩き出す背中を見送りながら、タウはそっとデルタに近寄った。

「……ひとつ、気になることがあるんです」

 潜められた声は、他の耳には届いていないようだった。目線だけを寄越して、デルタは話の続きを促す。

「いくら古いものとはいえ、これだけのものを封印していた塚がただの打撃で壊れるとは思えないんですが」

「……そっか、そういう見方もあるんだね」

 独り呟いて、デルタはタウの顔を見上げた。

「その話は終わった後で。本人次第ではあるけど」

 赤いワンピースの後ろ姿に向いた茶色の瞳に、タウは頷き口を閉じた。

 周囲を台座付きの輝石に囲まれ、祈りの言葉を織り込んだ布を床一面に敷き詰めた修練場の正面に立って、アルファはオメガに尋ねる。

「うち、どうすればいいの」

「とっても簡単よ」

 そっと離した手を杖に添え、捧げ持ってオメガは問い返す。

「アルファちゃん、誰かに悪いことしちゃったらどうする?」

 ぱちり、瞬いたアルファにオメガはウィンクした。そのまま朗々と声を張り、周囲の神官の声が重なって高く低く夜中の空気を揺らしていく。

「希望司る光、愛司る炎、自由司る風」

 タウは短杖を両手で握り、ゼータは外したイヤリングを手の中に握り込む。

「死司る闇、流転司る水、豊穣司る地」

 イオタは扇子の輝石を空に掲げ、ガンマはイヤリングの輝石を額の前に翳す。

「偉大なる神の元に集いし六の聖霊に、我ら祈りを捧げましょう」

 誰も彼も、各々祈る様をデルタは見ていた。その中で、全員を導き言葉を謳い上げる神官長の隣に立つ小さな少女を、見ていた。

「未だ彷徨う者たちに、静めの言葉を」

 途切れた一瞬が分かっていたかのように、アルファは大きく息を吸って。

「――壊してごめんなさいっ!」

 ありふれた、真っ正直な謝罪を叫んだ。途端に何か、その場にあったものが変わったことを誰もが感じる。

 その空気を逃さず、オメガは六色を内包した輝石を高々と掲げた。

「彼の者らに安息の眠りあれ」

 その光はその場にいた全ての者の目を灼く程強く、一時空を真昼のように照らす。反射的に閉じた瞼の裏すら明るくした光が徐々に弱まり、目を開いた先には。

「……はい、一件落着っと!」

 機嫌良く笑うオメガの向こう、すっかり夜の静けさを取り戻した建物の影だけが聳えていた。



 コンコン、とノックが聞こえて、デルタは客室の扉を開けた。

「おはようございます」

「もう昼前だけどね」

 デルタの返事に苦笑して、招き入れられるままタウは部屋に足を踏み入れた。

「俺もいいのか」

 食事を詰めた大きなバスケットを片腕で軽々持って、ゼータが部屋を覗き込むとデルタはぱっと笑顔で両手を広げた。

「いいよいいよ、大歓迎」

「デルタさん」

 そこに飛んできたらしからぬ尖った声にゼータが目を見開いた、その様をおかしそうに見てデルタは廊下へ足を向けた。

「待ってて、アルファ起こしてくる」

 昨夜のうちに預かった予備の鍵を手に出て行った、仮初の部屋の主をぽかんとしたまま見送ったゼータをタウが招き寄せる。

「ここ置かせてもらいましょう」

「え、ああ。よっと」

 どさ、と机に置かれたバスケットから手際よく四人分の食事を用意する横顔は、いつも通りの穏やかなものに見えた。首を捻るゼータをよそに支度を調えたタウは、空いたバスケットを出窓に避けて頷く。

「お待たせー」

 丁度良くがちゃり、と開いた扉から顔を覗かせたデルタは、まだ寝ぼけたアルファの手を引いて入ってきた。辛うじて櫛は通されたらしい桃色の髪を垂らしたままぽすん、と椅子代わりのベッドに腰掛けたアルファが傾くのを、

「おっと、ほらご飯だって」

 支えたデルタの一言で、微睡んでいた大きな瞳がぱちりと開かれた。

「ごはん!」

「はい、ありますよ」

 微笑ましいと言わんばかりの声で応えたタウの目の前に、ずいと小さな手のひらが差し出される。ひとり用の客室に四人収まるのは窮屈ではあったが、すぐに手が届くのは利点でもあった。

「ベッドにこぼさないでね」

「しないもん」

 川魚の燻製と野菜を挟んだサンドイッチに齧りつくアルファに注意を促して、デルタはポットから注がれた紅茶を啜った。

「はい、……ゼータ?」

 自分たちの分、と取り分けたサンドイッチを渡そうとして、タウはゼータの仏頂面にまた喧嘩かと眉を下げた。が、

「……おう」

 予想に反して大人しく、ゼータは渡されたサンドイッチを受け取った。そのままもしゃもしゃ食べ始めた様子に異変はなく、タウもひとまず安心して自分の食事に手を着ける。

 ポットに詰めた紅茶とひとり二つのサンドイッチ、デザート代わりの果物という献立はあっさり無くなって、残された食器をバスケットに片付ければ僅かなパン屑程度の痕跡しか残らなかった。

「じゃ、本題といこうか」

 ベッドから立ち上がり、窓際に寄りかかってデルタは切り出した。それに対して片眉を上げてゼータは問う。

「タウから昨日聞いたけどよ、そいつが単に馬鹿力ってわけじゃねえんだな」

「あんたにバカって言われると腹立つんだけど」

 早速脱線しかけたのを諫めるようにタウが口を挟んだ。

「単純な力でどうにかなるものではない、と思います」

「それに、力が強いって言ったって限度があるでしょ」

 続いたデルタに、ゼータはアルファを見据えて。

「……そりゃそうだな」

「ねえやっぱ馬鹿にしてない?」

 ベッドから飛び降りようとしたアルファを押し止め、デルタは真面目な顔で口調を押さえた。

「……一応、神官長クラスのひとは知ってるらしいけど。信用して話すんだ、ってことでよろしく」

 真剣な色は伝わり、ゼータとタウは顔を見合わせてから向き直った。

「アルファ」

「……わかってる。うちも賛成しちゃったもん」

 名前を呼ばれ息を吐いて、アルファは両袖をまくった。華奢で白い、見た目通りの二の腕から肘に掛けてを晒し、二対の視線の前に突きつける。

 それは入れ墨に似ていた。おそらくは服で隠された先の肩、もしかしたら胴体まで及ぶであろう、血より鮮やかな赤い線。燃え盛る火を彷彿とさせるそれが不規則ではない、と気がついたのはタウの方だった。

「これは祈りの言葉……いえ、似ていますが何か違う……?」

「すごくすごく古い言葉、だって言ってた」

 ぱたり、と幼い動作で足を揺らし、アルファはかつて言われたことを思い出す。

「うちの家って、ふっるい騎士の家系で。ずーっと王家に仕えてきたの」

 目を細める様を、デルタは黙って見ていた。かつて己は上司――騎士団長から聞いたその話が、本人の口から語られるのを。

「そうするとね、たまーに先祖返りっていうらしいんだけど。出るんだって、こういうのが」

「……神に愛されし一族に仕える者もまた、その恩恵を受ける、ですか」

 タウが呟いたのは歴史書に埋もれた一文だった。こっくん、と頷いて、アルファは話を続ける。

「何年前だったかなあ、急に出たの。ものすっごく力が強くなって、強すぎて色々壊して。時間が経てばだんだん落ち着く、って言われてもさー、じゃー今どうすんのって」

「それで騎士団に預けられたんだよ」

 引き継いだデルタは、向けられた視線を受け止めて肩を竦めた。

「アルファの家柄的に、困ったら神殿より騎士団だったんだよね。結局王宮の神官やらにはお世話になったらしいけど」

「あのおばあちゃんこっわいんだから」

 口を尖らせたアルファの頭をぽん、と叩いて話を聞くふたりを振り返る。

「そんでまあ紆余曲折あって、我らがユプシロン姫様の預かりになったわけ」

「ゆぷしろん……」

 何処かで聞いた名前をゼータが思い出すより早く、瞬時に思い当たったタウが並ぶ少年少女を凝視した。

「第二王女のユプシロン様ですか!?」

「そうそう」

 えへん、と胸を張ったアルファの隣でデルタが荷物を漁り、取り出したのは深紅と濃紺ふたつのベレー帽だった。濃紺のそれをデルタは被り、

「ちなみにオレもアルファと同じ王立騎士団だから」

 縁に縫い止められた騎士団のエンブレムを見せる。今度こそ見知った物が出てきて、ゼータは感心したように息を吐いた。

「ただのチビじゃなかったんだな」

「ほんとケンカ売ってるでしょ!」

 じたじた暴れる首元をデルタに掴まれ、せめてもとアルファが舌を出す。顔を背けた先でタウが苦笑していて、返ってそのことにゼータは表情を歪めた。



「あらおそよう」

 神官長室に訪ねてきた顔に、オメガはひらひら手を振って招き入れた。陰鬱な顔でのっそりと近づいてくるイオタに、見慣れている従姉妹はけらけらと笑うばかりだ。

「やっぱり寝起き死にそうなのねあんた」

「……うるさい」

 不機嫌極まりない声すら笑い飛ばして、オメガはイオタの後ろに立つ巨漢へ声をかけた。

「ガンマごめんね、ちょっと食堂で紅茶もらってきて。イオタの分って言えばたぶん分かるわ」

 ちらりと見下ろした主人は声のひとつも億劫そうに見える。ガンマは一度頷き、イオタをソファへ導いてから部屋を出て行った。

「いやーほんとよく出来た男ねぇ」

「……」

 軽口を黙殺し、ソファに横たわったままイオタは唸るように話す。

「……お前、いつから関わっていた?」

「んー、わりと最近よ。直接会ったのは初めてだし」

 報告書になる筈だった紙にさらさらと曲線を描いて、オメガはぺらり持ち上げ透かして見る。

「あの部屋で沐浴など、行わなくなって久しいだろうに」

「ひとり風呂って楽しいのよねー」

 罰当たりな、という言葉の代わりに舌打ちをひとつして、ずるずるとイオタは寝返りを打った。

「……コレを放り出してほっつき歩くなど、全く無責任な」

「あいつ何て言って出てったと思う?」

 再びペンを走らせ満足げに頷いた顔を、たちまちわざとらしいしかめっ面に変えてオメガは声を低くする。

「遅れてきた反抗期だ、悪いな。ですって」

「阿呆だな」

 一言で切り捨てた様がよほどおかしかったのか、オメガの表情はあっさり崩れた。笑みを引き連れ音も無く席を立ち、手にした紙をぺらぺらと遊ばせる。それを間近で見せられて、イオタは眉間の皺を深くした。

「…………何だこの怪物は」

「熊だけど。ガンマって熊っぽくない?」

 年端もいかぬ子の落書きを複数掛け合わせたかのような線の塊に、目眩を覚えてイオタは目を閉じた。

「お前のそれも変わらんのか……」

 そのリアクションが意に沿わなかったオメガが紙の中の怪物とにらめっこを始めるのを、ノックの音が制止した。

「あっガンマ、見てこれ」

「………………はぁ」

 ミルク半分と砂糖一杯、飲み慣れた紅茶の香りが運ばれてくると共に会話がイオタの耳に入る。困り果てているだろう従者からの視線を、イオタは寝たふりでやり過ごした。


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