アンコール

その一――Recollection Rhapsody・上

「遠すぎるんだけどぉ!」

 大陸の西、大丘陵地帯。深い森に分け入ったときには昇ったばかりだった太陽は、天の中心からすこし傾こうとしてる。

 いくら進んでも変わらない周囲の光景に、幼い顔立ちの少女はとうとう音を上げて座り込んだ。二つに結んだパステルピンクの髪は道中で乱れ、長袖の赤いワンピースには木の葉が引っかかっている。

 その傍らに膝を着いたのは、黒に近い濃紺の動きやすそうな服を身につけた茶髪の少年だった。少女よりは年嵩に見える、しかしまだ子どもらしさの抜けきらない顔には困った表情が浮かんでいる。

「そう言わないで頑張ってよ」

「やーだぁもー、デルタおんぶして」

 じたばたと駄々を捏ねる少女に、デルタと呼ばれた彼は唸った。その視線は少女の背後に向けられている。

「無茶言うよね」

 少女が背負っているのは、鉄の塊と見紛う鈍色の剣だった。大男が扱うと言われれば納得できそうな長さの武器を、身の丈も及ばなさそうな少女が持って歩いていたのだった。

 少女のみならともかく、外見通りの重量を備える大剣は少年の手に負える物では無かった。立ち上がった少年は癖の付いた髪を掻き上げ、振り返って同行者を見る。

「お兄さん、どう?」

「……出来なくはない、がなぁ」

 道案内をしていた青年が首を振り、ショートの髪がそれに沿って揺れた。街で何でも屋のようなことをしていたという青年は悪くない体格をしていたが、それでも否定の意を示して先を見やる。

「もうそう遠くはないんだ、あとちょっと頑張りゃ休めるんだが」

「ほんとっ?」

 ぴょこん、と立ち上がった少女が駆け足で青年を追い抜く。呆気に取られた連れふたりに振り向いて、勢いよく手を振った。

「なにしてんの、置いてくよー!」

「……元気じゃん」

 呆れた少年の肩を叩き、歩き始めて青年は腕を組む。

「にしても、お前らの保護者だか何だか知らねえが何考えてんだあのおっさん」

「保護者っていうか、一応上司みたいなひとなんだけど。用事は、まあ」

 前方、途切れた梢の向こうに見えた建物の影から青年の横顔に視線を移し、

「あそこの一番偉いひとにちょっと、ね」

 何度目かの返事をデルタは返した。



「それはそれは、お疲れ様」

「ほんと、ここまで遠いとは思わなかったよ」

 不遜と取られても仕方ない態度に、しかしオメガ・ルートは鷹揚に笑った。彼女が羽織った半袖のショートジャケットの胸元には、聖印である六芒星が刺繍されている。

「偉いひとが直接ここまで来ることなんてまあないし、よく分かってなかったんでしょうね」

 神官長室の立派な椅子にどっかり寄りかかりオメガは脚を組む。執務机を挟んだ向こう側でソファに座る少女が、落ち着かなげに足を揺らして頬を膨らませた。

「なにそれ」

「ま、実際行かされる方は堪ったもんじゃないけどさ、少なくとも姫には悪気無いわけだし」

 取りなした少年に渋々頷いた、そんな様子をどこか微笑ましげに見ていたオメガが手を打った。

「お仕事してそのまま来たなら疲れてるでしょ、とにかく今日はゆっくりしてきなさいな。客室に案内するわ」

 長いワンピースの裾を捌き勢いをつけて立ち上がって、布製の室内履きで歩み寄った女性は少女に手を差し伸べる。

「ね、アルファちゃん」

「……あ」

 見開いた赤い目でその手を見つめ、そろそろ乗せた小さな手のひらをオメガは引っ張り上げた。そのまま客室目指して扉に向かい、ふと振り返ってデルタに問う。

「ところで案内してた何でも屋だっけ。どこ行っちゃったの?」

 対して、本人も不可解そうにデルタは答えた。

「さあ、引き返したみたいだけど。別の仕事だとかで」

「あらそ」

 それきり興味を無くしたように、オメガは目的地まで振り返らなかった。



 そこから少し時間を置いて。

「んで、なんで俺だよ」

 嫌そうな顔を隠しもせず、護衛官見習いのゼータ・サインは頭を掻いた。真新しい金細工のイヤリングが、持ち主に応じるように微かな音を立てる。

 昼食後の修練場はまばらに人が居るのみで、各々素振りや鍛錬に勤しんでいた。それらを避けた部屋の隅へと呼び寄せて、訓練用の棍を担いだゼータの腕をオメガは叩く。

「年もわりと近いし、あんたはあたしの直弟子だし?」

「関係あんのかよそれ」

 溜め息を吐いた拍子に簡素な訓練着の上を結った黄緑の髪が流れ、伸びた前髪の隙間から緑の瞳が睨む。その先に居たのは、オメガに連れられてきたもうひとり。

「そいつにやらせりゃいいだろうが」

「いえ、僕だけではちょっと」

 困った様に主張したタウもまた、姉にここまで引っ張られてくる道中に事情を聞いただけではあった。

 常と変わらぬ聖印入りのコートを纏い、肩に触れそうな長さの金の髪は尻尾のように括っている。きっちりと調えた身なりに似合う眼鏡の奥で、黄褐色の瞳が苦笑していた。

「客人の世話なんざ出来ねぇぞ」

「でも片方は女の子だそうですから、女性の方がいいのでは」

 だからなんでそれが、と言い募ろうとしたゼータと肩を組み、オメガが耳打ちした。

「まーそうぶつくさ言わないの、お客様用のデザートあんたの分も用意したげるから」

「……う」

 ほとんどが自給自足の質素な生活ではちょっとした贅沢も貴重である。押し黙ったゼータの隙を逃すことなく、満面の笑顔で姉は弟を見た。

「ってことでよろしく」

「僕ですか」

 言いながらも予想していたのだろう、タウは反論しなかった。解放されたゼータが棍を片付けに行く背中を見送りつつ、眼鏡を直して神官見習いは隣のオメガを見やった。

「……他人を上手く使いますよねぇ」

「何よ、ちゃーんと約束通り巻き込んであげたじゃない」

 親指でくいっと戻ってくる姿を指してウィンクする顔に、タウは沈黙で返した。曖昧な表情をほぼ同じ高さの目線で捉え、首を傾げつつもゼータは当面の疑問を投げかける。

「で、その客人ってのは」

「今頃食堂でご飯食べてるんじゃないかしら」

 まずは挨拶しましょうね、と修練場を出たオメガを追いかけ、ゼータも怠そうに足を進める。ただ歩くだけでも速いふたりを、タウは慌てて追いかけた。



 ノックの返事を待たずに扉が開く音に、部屋の中で待っていた人物は手元から顔を上げた。

「おっ待たせー」

「遅かったな」

 チャコールグレイのワンピースに、先日仕立て直したばかりの白いロングコート。いくつかある客室のうちひとつのソファに我が物顔で寛いでいたのは、やってきたオメガと同じ年頃の女性だった。紫水晶の髪を結わぬまま肩から長く垂らし、同色の瞳を細めてイオタは従姉妹に対面のソファを勧めた。

「まーでもちゃんと書類は用意したし、これだけ持ってってもらえば」

「結局欠席か」

 オメガがショートジャケットの内側から取り出した三つ折りの紙を受け取り、中身に一度目を通してイオタはひょいと肩越しにそれを差し出した。受け取ったのは、先程から直立不動で控えていた褐色の巨漢だ。護衛官がよく身に纏う訓練着とは違う、よそ行きの生地を使った武闘着に神官のコートに似た上着を重ねた姿を、オメガはまじまじと見る。

「聞いてはいたけど、ほんとにでっかいわねぇ」

 微笑みに隠された好戦的な色に、護衛官ガンマは無表情のまま主を見下ろした。そこに困った様な気配をわずかに感じ取ってイオタは扇子を対面に突きつける。

「話を逸らすな」

「だーって、あんなのじい様方のお喋り会じゃないのよ」

 やだやだ、首を振った拍子にボブカットの金糸が揺れた。言うだけ無駄とは分かりつつも、イオタは腕を組んで言葉を連ねる。

「自分の立場を忘れたか?」

「やめてよあんたまで説教くさいこと言うの」

「今の貴様に言う者がいないから言っているのだ、タウでは聞かせられまい」

 言って、返ってこない言葉にイオタも口を噤んだ。扇子を手慰みに弄び、見据えた先でオメガは嘆息する。

「どうしても、ってときは行ってるわよ」

「そうなる前に対処しろ」

 きっぱり言い捨て、イオタはいつの間にか前のめっていた体を背もたれに預けた。



 空がオレンジ色から深い藍色に変わろうかという中で、人通りの少ない渡り廊下をゼータは急ぎ足で進んでいた。普段使われない一画へ向かう廊下の、突き当たりの角を曲がってきた小さな影が目的と気づいて片眉を上げる。

「おい」

 つかつかと近づいてきた相手が、先程紹介された案内役だと気が付いたのだろう。少女――アルファは赤い眼に力を込めて相手を睨み上げた。

「なに」

「用意出来たら迎えに行くっつったろ」

 不愛想な態度に引きずられゼータも喧嘩腰になれば、応じてアルファも口を尖らせる。

「だってお腹空いたもん、お昼と同じとこ行けばいいんでしょ」

「勝手にうろちょろすんなっつーんだよこのチビ!」

 年頃にしては高い身長を持つゼータが遠慮無く叩きつけた暴言に、アルファの表情がすっ、と消えて。

「……ちょっとでっかい図体してるからって調子乗ってんじゃないわよ!」

 タイル張りの床を弾丸のように駆け抜け突撃してきた少女に面食らった、のも一瞬。

「危ねえ、だろうがっ」

 ギリギリ躱したゼータが悪態を吐けば、勢い余って転げたアルファが立ち上がってスカートを叩く。

「なに避けてんのあんた、なっまいきに」

「生意気なのはお前の方だろ」

 むぐぐぐと口を引き結んでいたアルファに大股で近寄り、ワンピースの袖に包まれた細い二の腕を無造作に掴んで、

「うだうだ言ってねぇで行くぞ」

 言ったゼータの視界が、ぐるりと回った。

「さわんないでっ!」

 腕を振り解く、それだけの動作でゼータは投げ飛ばされた。咄嗟に受け身を取った、その姿勢で緑の瞳が丸まって。

「……てめぇ」

 同じく固まっていたアルファに向かい、

「やってくれんじゃねぇかおい!」

「きゃあっ」

 その場で脚を振り回した。

 予期せぬ膝かっくんにずべん、と尻餅を着いたアルファは馬鹿にした表情の相手を見て、一度引いた血の気が大波になって返ったかのように顔を真っ赤にした。

「いったいじゃんかぁ!」

「お返しだっての」

 浅く笑ったゼータの脛をアルファの拳が打ち据える。蹲る様を笑うアルファの丸い頬を、ずいと伸びた指先が摘まむ。

 エスカレートしていく子供じみた喧嘩は、このふたりだけでは到底収まりそうになかった。



「……はぁ……」

 出てきたばかりの食堂をちらり振り返り、タウは疲労感に肩を落とした。

 食事の前に浴場へ、と希望した客人の少年と穏便にやりとりを終え、先に食堂へ向かったはずのもうひとりはと見に行ってみればまだ居らず。通るであろう廊下を辿った先で行われていた大喧嘩に肝を潰して、慌てて仲裁したのがついさっきのことだった。

「姉さん、焚きつけたりしないですよね」

 宥めすかして連れて行った食堂で出くわした相手なら、再び同じ事が起きても容易く収められるだろう。が、返って面白がる可能性も否定出来ない。沈痛な面持ちで廊下を進むタウは、前から歩いてきた人影に半ば無意識に礼をした。

「……あ」

 そうしてから相手に気づき、声を零して振り返る。不自然に乱れた足音にすれ違った相手も振り返り、藍色の瞳を瞬かせた。

「…………貴殿、は」

「やっぱり、ガンマさんですよね。オプセリオンの」

 初めまして、と微笑んだ己の主の血縁者に、ガンマも肯定の意を示して軽く頭を下げた。

「お話には伺っていたんですけど、本当にその通りですね」

「……話、ですか」

 伝わるとしたら、ひとりを通じてと考えるのが自然だろう。無言ながらも内容を問うような空気を、タウは笑って誤魔化した。

「大変でしょう、イオタの下では」

「…………いえ」

 小さなジェスチャーにつられて、深い青の輝石を填め込んだイヤリングが揺れる。短い否定だけを返した顔にはおよそ表情と言えるものは無かったが、そこに嘘の気配は感じられなかった。最近になって伸び始めた身長でも未だ頭ひとつ分は高く、体格に至っては比べようも無い相手を見上げ、タウは心底感心する。

「あ、すみませんお引き留めして」

 ふと気づいたかのように顔を曇らせたタウに向かって、気にするなと再び首を振り。その動作を突然止めてガンマは黙考した。

「ガンマさん?」

 眉を下げ不安げに呼びかけた声の主をじっと見つめて、

「…………以前、イオタ様は、こちらに」

「え、はい。赴任まではここに居ましたけど」

 尋ねたガンマに戸惑い顔でタウが答えれば、また少しの間沈黙が落ちる。そこに考えつつ、ぽつぽつと低い声が呟かれた。

「……何か」

「何か?」

 復唱の相槌に、呟きの続きが導かれる。

「夕食を、と……」

 途切れた言葉を、タウは自分の脳内から考えついた。

「ああ、イオタに用意してこい、と言われたんですね」

 ぱん、と手を打って言われた内容はガンマの伝えたい内容の通りだった。眼鏡を押さえて少し考え込み、にこりと微笑み上げる。

「用事があるので、イオタのお気に入りをお教えするくらいなら」

「……助かります」

 頭を下げるガンマに並び、追い越してタウは元来た方へと足を向けた。



 湯浴み後の髪はまだ湿っている。一度拭った後もまだうっすらと水気のある、緩い癖のついた茶色の髪を指先で弄び、廊下を歩いていたデルタはふと外に目をやった。

「へぇ」

 きょろ、と見回し中庭への出入り口を見つけ、するりと今見たばかりの光景の中へ滑り込む。かさり、と夜風ではないものに草が揺れた音に、月を見上げていた人影は振り返った。

「……見ない顔だな」

 丈の長いノースリーブのワンピースの背に流れる、鈍く紫に輝く長い髪を払ってイオタは片眉を上げる。デルタはさくさく、と丈の短い草を踏みしめて近寄り、手を差し伸べれば届くほどの距離で止まった。

「うん、多分初対面だと思うよ」

 人懐っこい笑みと、少々大袈裟な身振りを添えて少年は一礼してみせる。

「はじめまして」

 神官のお姉さん、と片目を瞑った相手に、察してイオタは目を眇めた。

「……成程、オメガの言っていた客人とやらか」

「分かっちゃった?」

 澄ました態度から一転、悪戯っぽく戯けたデルタ。肩を竦めたイオタが再び月を振り仰ぎ、

「あまり無闇とうろつくものではない。部屋に戻りたまえよ」

 口端を冷たく吊り上げて、ひらり手を振った。と、

「まあ、そんなつれないこと言わないで」

 さりげなく回り込んだ少年が、イオタの顔を下から覗き込んだ。絶やされることのない笑みは返って空々しく、辟易した色を隠しもせずに神官は袖口から取り出した扇子で相手の額を小突いた。

「っと」

「名乗りもしない怪しい輩とお喋りする趣味はなくてな」

 額を押さえていたデルタは、ぱちぱちと瞬きをすると崩れた表情を作り直す。

「オレとしたことが、っと。……デルタ、って呼んでね」

 その後の、無言の催促を躱してイオタは扇子を広げ口元を遮った。

「気が向いたら覚えておこう」

「もう行っちゃうの?」

 そのまま中庭を横断し戻ろうとした、翻る長い裾をデルタは追いかける。

「そろそろ戻らねば、連れを待たせることになるからな」

「へぇ、そういうの気にするんだ」

 好奇心に煌めいた瞳からの視線を断ち切るように、音を立てて扇子が閉じられた。軽い調子の、おそらくは話すこと自体に慣れた言葉を適当にあしらっていた最中に。

「……っ」

 ぞわり、と。

 剥き出しの腕を撫でて行った生温い風が、イオタの歩みを縫い止め背を震わせた。途端言葉を切ったデルタは上着のひとつも手元にないことを確認して、風上に回り背に手を添える。

「ちょっとごめんね」

 自然な動作で誘導し廊下へと戻ってから、再びイオタの顔を覗き込んだデルタはうってかわって真面目だった。それに気がつき眉間の皺を解いて、イオタは苦笑する。

「大事ないさ、おそらくな」

「ほんと?」

 応えるように表情を戻したデルタは、背から離した手で恭しく華奢な手のひらを掬い上げた。

「でも、心配だし。部屋まで送っていくよ」

 手を引き進もうとした足は、手を解かれて止まった。自ら廊下を歩き出したイオタは、扇子を口元に当てて薄く笑う。

「私のことより、自分の身を気にした方が良いかも分からんぞ」

「へ?」

 首を傾げた動作にくすり零した、小さな声を聞かせる前に紫水晶の瞳が少年のそれを射貫いた。

「神官としての助言さ」



 金糸の姉弟に釘を刺され、どうにか口喧嘩で済むうちにアルファを指示通りの浴場へと半ば押し込むように置いてきて。待つにも困って廊下をふらふらと歩いていたゼータは、ふわり大きく欠伸をした。そのまま伸びてきた前髪をついつい、と邪魔そうに指先でつつく。

「あー、さっさと寝てぇな……」

 髪をかけた左耳で、まだ着け慣れないイヤリングが揺れた。と、

「……あ?」

 廊下に反響する、重たく速い足音。近づいてくるそれに見渡せば、緑の瞳が大きなシルエットを映した。

「お前、確かイオタの」

「…………」

 急いでいた足を止め、ガンマはまだ年若い護衛官を見下ろした。どこかで見た顔だ、と頭を巡らし思い当たり、ゼータの肩を叩く。

「わ、何だ」

「……オメガ神官長、は」

 そこにどことなく焦った気配を感じ、ゼータはガンマの腕を叩き返して廊下を蹴った。

「多分、もう飯終わったろうから風呂か、自分の部屋だと思うけどな」

 言いながら振り返れば、それなりのスピードでもぴったり真後ろについて追ってくるのが分かった。ゼータは努めて速度を維持しながら、再び口を開く。

「でも、なんで先生に」

 その問いに、感覚を言葉に換えかねてガンマは黙った。速度を下げぬまま角を曲がり、神官長室が見えたところでようやく。

「……近づいて」

 呟き、扉をノックするゼータに並んで止まる。間延びした返事と共に突き開けられた扉の向こうへ、ガンマは低く響く声で告げた。

「何か、来ます」

 夜を騒がしくする、その第一報を。



 大浴場の横、案内された入り口からひょっこりと顔を覗かせたアルファは目を丸くした。目の前を行き交うひとの数は先程よりも確実に増えていて、とてもこれから寝静まるようには見えない。

「……なんかあったのこれ」

 首を傾げつつも、とにかく自分には関わりないとアルファは一歩踏み出した。待っていると言っていた筈の案内役の姿がないことは、彼女にとってさして気になることではないらしい。

 きょろきょろと見回しつつ、通り過ぎていく神官や護衛官たちの間をすり抜け客室に戻ろうと進む少女。その姿を見咎めて、コートの裾を翻し小さな背を呼び止める。

「そこの」

「んえ」

 振り返った先に立っていた女性に見覚えはなく、アルファは首を傾けその顔を見上げた。相手を知らないのは実は呼び止めたイオタも同様だったが、構うことなく話し始める。

「貴様も客人……部外者だな。生意気な少年の連れが居るだろう」

「なにあんた。デルタの知り合い?」

 目尻を吊り上げた顔にも動じる様子なく、イオタはじろじろとアルファの全身を見渡した。居心地の悪さに身動がれ、ようやくふむ、と唸る。

「急な客人というから何者かと思ったが、そういうことか」

 納得した声色で呟いて、イオタはアルファを手招きつつ目的地を変えた。

「これから慌ただしくなる、ついてこい」

 スカートの許す限りの大股で歩くイオタを追いかけて、アルファはしかめっ面のまま疑問を投げ上げた。

「やっぱ、なんかあったわけ」

「正確には、これから起こる、だな」

 たかたかと並んできた桃色の頭を見下ろし、白い袖に包まれた腕が組まれる。

「目の届くところにいてもらわんと少々面倒そうなのでな、付き合ってもらうぞ。連れも今呼びに行かせている」

 そのまま横目で窺った顔は伏せられ表情は見えなかったが、拳を握り締める力は強くなっていた。勢いよく振られる腕から半歩距離を取り、イオタは小さく溜め息を吐く。

「大人しくしていろよ」

「……え?」

 跳ね上がって見えた深紅の瞳を、紫のそれが真っ直ぐ見返した。廊下は講堂に続く大きなものへと合流し、ふたりの横を儀式用の大きな輝石を抱えた神官が足早に追い越していく。

「私とて伝聞でしかないが、貴様のそれは此度のことには役に立たんさ」

「……知ってるんだ」

 瞳が曇り、動かしていた四肢から力が抜けた。それでも、速度は落ちてもついてくることを確認しながらイオタは開け放たれた扉を潜ってから向き直った。

「これでも情報は得やすい立場でな。申し遅れた、港街オプセリオンの神官長イオタだ」

「神官長、って、あの金髪の……」

 思わずまじまじと見つめて零したアルファに小さく頷いてみせ、イオタは取り出した扇子ですい、と横を指す。

「一応、オメガと同じようなものということさ。……こっちだ」

 一画を示され初めて、少女はいつの間にか広々とした講堂に足を踏み入れていたことに気がついた。首を回したその先に見えた、知った姿がアルファを見つけて手を振る。そこに向かい赤いスカートを蹴立てて、アルファは駆け出した。



 イオタと別れたデルタは、食堂の前で探していた人物を見つけ近寄った。

「どうも、タウさん」

「呼び捨てで構いませんよ」

 にこりと柔らかく笑ったタウは、歩いてきたデルタと共に食堂内に入り直した。短時間で四回訪れた顔に、食事当番を担う神官が呆れた顔をした。

「タウお前、当番やった方が手間少なかったんじゃないのか」

「こんなことになるとは思わなかったんですよ」

 苦笑を返し、タウは適当な席を指し示す。いくつか並んだ長机は、ひとの集まる時間は過ぎたのか何処も閑散としていた。

「持ってきますから、座っておいてください」

「じゃあよろしく」

 机の端の適当な席に腰掛け、待つ間にデルタは周囲を見渡す。席を全て詰めれば五十人ほどが入れそうな食堂は、タウが向かったカウンターの向こうが厨房になっている。壁に吊られた木製の当番表には、班が作られているのか番号で当番が割り振られていた。

「お待たせしました」

 大きなトレイを机に下ろし、タウが運んできた食器を並べ始める。焼き色の香ばしい丸パンはバターと蜜がそれぞれ入った小瓶が付いていて、小皿には手作りのドレッシングをかけたグリーンサラダが盛られている。メインは根菜と野鳥の肉を煮込んだスープだった。

「これは?」

「おまけと思ってください」

 周囲が同じ物を食べているように見える中で、余分に乗せられてきた小さな器をデルタは手に取った。薄黄色のつるりとした表面からはほのかに甘い匂いがする。

「……ひょっとして、甘い?」

「そこまできつくはないと思いますけど……、苦手ですか?」

 小首を傾げたタウに向かって手を振って、デルタは立ったままの相手に対面の椅子を勧めた。

「ま、大丈夫だと思うよ。ありがと」

「無理はしないでくださいね」

 かたり、と椅子に座り、食前の礼をしてタウはスプーンを手に取った。同じく染みついた礼の動作からそのまま丸パンに手を伸ばしたデルタは、ふたつに割った断面にバターをたっぷり乗せる。

「あ、うま」

 大口を開けて食べる仕草は食べ盛りの少年らしく、その様を微笑ましく見ながらタウはスープを掬った。香草と塩、それから野鳥の出汁の利いた味を飲み込み、次いで柔らかく煮えた人参を口に運ぶ。

「意外だったんだけど、皆で食べないんだね」

「ああ、それぞれの仕事がありますから。手が空いたときに頂くんです」

 答えながらタウは小さく分けたパンを広げ、丁寧にバターを塗ったところにサラダを挟んで咀嚼した。

「朝は全員一緒ですけどね」

「へぇ」

 長く煮込まれた肉を噛みしめ、残ったスープを持ち上げた器から飲み干したデルタはふう、と一息吐いた。共に持ってこられていたグラスを傾け、今度は小さなスプーンを手にする。素朴なプリンは卵の味がして、底までスプーンを差し込むとほろ苦いカラメルが溢れ出す。

「うん、これは美味しい」

 これもあっさりと平らげたデルタを安心したように見て、タウは自分の食事を再開した。手持ち無沙汰になったデルタは木製の椅子の背もたれに体重を預けると、暫し考える素振りを見せて。

「ところでさあ、あの、もうひとりの案内のひと」

「ゼータですか?」

 タウがパンの最後の一欠片を飲み込んだ、丁度そのタイミングを見計らったかのように話を始める。

「そうそう、仲いいの?」

 やけにニコニコと話しかけてくる様子に、柔和な表情が少し陰った。

「……まあ、はい。それが何か」

 それを知ってか知らずか、楽しげなまま声を潜めてデルタは対面に囁いた。

「可愛いっていうよりはかっこいい感じだけどさ、美人さんじゃん。紹介してくれない?」

「それは」

 口籠もったタウがスプーンを下ろした、その様にデルタは察して取る。

「え、まさかフレイアスに誓った仲とか」

「いえそんなっ」

 慌てたタウが周囲を見渡した。幸い誰にも聞かれていなかったと見えると、深々と息を吐いて椅子にもたれかかる。

「えーあーそっかぁ。でもまだならオレが話しかけたっていいよね」

 ごちそうさまでした、と立ち上がったデルタがひょいひょいと空いた皿をトレイに乗せていく。慌てて自分の分のプリンの残りを流し込んだタウが勢い余って咳き込み、水を流し込んだ。

「え、あの、それは」

「これあっち戻しとけばいいのかな」

 すたすたとカウンターに向かうデルタに手を伸ばし、追いつき損ねて今度は食堂を出る背中をばたばたと追いかける。

「その、デルタさん」

 後ろから聞こえる困り果てたような声音の、おそらくいくつか年上であろう相手にデルタはひっそりと笑っていた。他愛ない会話は久しいもので、愉快に思う気持ちが洩れないよう声を殺す。

「もう遅いですし、部屋まで戻りましょう、ね」

「んーでもあんまり眠くないなぁ」

 わざとらしい言い方におろおろと狼狽えていたタウが、ふと真顔になった。止まった足音に気がつきデルタが振り返ると、俯き瞳を伏せていた顔を持ち上げていた。

「……すみません、緊急事態です」

 そのまま踵を返したタウの後を反射的についていきながら、急に変わった雰囲気にデルタは困惑する。

「ちょっと、どうしたのさ」

「前言撤回です、貴方には部屋にいるより来てもらった方が安全でしょう」

 それは剣呑な気配を孕んだ台詞だった。にわかに慌ただしくなり始めた神殿の中、有事の際の拠点となる講堂へ向かいながらタウは言葉を続ける。

「悪霊の群れが、やって来ます」


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