第六話――抱き照らす陽光
突如目を眩ませた光が止んで、アルファは掲げた腕を下ろした。
「何もー、いきな……り……」
ぱしぱしと瞬いて取り戻した視界に、暗闇を抜け出た先の光景を映して少女騎士は絶句する。その隣に並んだデルタも硬直したのを訝しんで、追い越したタウは周囲を見渡した。
「ここは」
「……王宮、じゃねえのか」
言いつつも、ゼータは大鎌を手に警戒を強めた。遠目に見える荘厳な建物は話に聞く通りでも、本物ではないことは確かであった。
広く、美しいのだろう王宮の中庭は、咲き誇る花々も仰いだ先に広がる晴天も全てにおいて本来の色がなかった。セピアの濃淡で表現された世界で、我に返ったデルタが傍らの花に手を伸ばす。
「随分とまあ、悪趣味だね」
みるみる朽ち果て風化した花の、欠片ひとつも残らなかった手のひらを見て呟いた。細められた濃茶の瞳が、気配を感じてふいと向けられる。
「アラァ、失礼だこと」
笑みを含ませ、わざとらしい抑揚をつけた声が空気を揺らした。四人の背後、設えられたベンチが玉座であるかのように悠然と腰掛けて彼女は笑う。
「……あんた」
「遅かったじゃなあい?」
アルファの眼光に臆した様子は微塵も無く、紺碧のドレスを纏ったまま脚を組んだ。整った顔にニタリとした表情を張り付け、対する顔を睥睨する。
「ひとりくらい居なくなってくれるかと思ったんだけどぉ」
「そいつは残念だったな」
挑発を吐き捨てて、ゼータはタウを背に庇った。両手に大鎌を構えた姿を見つめ、眼鏡を押さえてタウは姫君の姿をしたソレを見据える。
「僕たちを傷つけるために、わざわざあんなことをしたんですか」
「そおよぉ?」
銀の杖の石突で石畳をこつり叩き、ゆらりふらりと立ち上がった。本来ならば暖かい海の色を映すのだろう瞳がひどく冷めていて、生気なく虚ろなことがかえってアルファを奮い立たせる。
「顔はおんなじでも、あんたなんか姫さまとは全然違う」
革をきつく巻いた大剣の柄を握り締め、切っ先を突きつけ瞳を燃やして騎士は告げた。
「あんたが誰でもどうでもいいの。ユプシロン様を、うちらの姫さまを返して」
対して仮面のような冷笑を浮かべたまま、彼女は白い指先を胸元に当てる。
「コレならアナタたちはなぁんにも出来ないもの、返すワケないじゃなぁい」
す、と表情が抜け落ち、
「……だけどぉ」
再度作られた微笑みは、悍ましく歪んでいた。鈍く淀んで光る銀の杖をくるり、と回して、片手で鳥籠のレリーフを刻まれた先端を受け止める。その中央の輝石に指を這わせ、向いた視線の先には。
「取り替えてくれるなら、考えてアゲルわぁ?」
金の神官の前で、凜々しく立ち塞がる護衛官が立っていた。
場に落ちた沈黙の中、背後から感じる絶句した気配に反して本人はどこか冷静なまま呟く。
「……俺に、お姫さんの身代わりになれってか」
「えぇそう」
ゆったり頷いた頭が傾いて、ようやくアルファは言葉を絞り出した。
「なに、言ってんの」
「イイ話じゃなぁい? だーいじなオヒメサマが返ってくるのよぉ」
クスクスと零した笑みに混ぜて、アァでも、と彼女は続ける。
「ホントはぁ、お嬢ちゃんがいいカナァって思ったんだけど」
細められた瞳が、小さな体をじろじろと眺めて溜め息を吐く。
「余計なコトしてるみたいだからぁ、そんな体はイヤなのよねぇ」
「うちがダメでこいつは良いってゆーのあんた」
「ちょっと」
露骨な苛立ちを見せたアルファの肩を叩いて制止し、デルタが見たのはタウだった。本人さえ知らぬ間に外套を掴んでいた手に力を込め、視線に気がついたタウが俯く。
「…………それ、は」
背に押しつけられる震える手にゼータが深く息を吐いて、退屈そうに銀糸を揺らすソレに向かって口を開いた。
「お前、つまり自由に使える体が欲しいんだろ」
大鎌の刃の背を地につけ、突き立つ柄に寄りかかって緑の目を眇める。
「神殿に喧嘩売るだの、俺たちとドンパチやるだののためによ」
「……そうよぉ」
同意を示し、彼女は杖の切っ先をゼータへ、その背後のタウへ向けた。
「アナタのその手に縊り殺されたとしたら、彼はどんな顔するのか、トカねぇ?」
興味あるわぁ。そう口の端を上げたソレにゼータは顔をしかめた。
「ひん曲がった性格しやがって」
言い捨てて、堪えた様子も無い顔を見たまま問いかける。
「タウ、どうだ」
「……すみません」
ちらりと横を窺った気遣わしげな目を、デルタが受け取った。無言で促すその仕草に、タウは言葉を探す。
「受け入れて、しまっているんです。内側で近づきすぎて、引き剥がせない」
「それって姫が、ってこと?」
少年が確認した言葉には小さな頷きが返り、少年は拳を握り締めた。一度瞼を伏せたデルタは、ふっと常のように雰囲気を軽くした。
「それ、オレじゃ駄目なの?」
「デルタ!?」
ばっと振り仰いだ相棒の顔は見ず、少年は述べる。
「そりゃこのふたりほど腕が立つわけじゃないけどさ」
「アナタはダーメ、よ。坊や」
それを一蹴して、小首を傾げ視線で刺す。
「だって死ねるでしょうアナタ。それじゃ面白くないもの」
「……積極的にやるつもりはないんだけど」
否定しなかった苦笑は腕に打ち込まれた拳で消えた。犯人を見下ろして、デルタは肩を竦める。
「ばかじゃないの」
「死にたがりみたいな言い方やめてってば」
しかめっ面のまま口を引き結んだアルファが俯きかけた、その視界の端で揺れた影。無造作に歩きだそうとしたゼータを、その二の腕を掴んでタウが引き留めた。
「ゼータ……?」
振り向いた先で、少し高い位置から縋る色を含んだ目線で見つめる目を見据えて。ゼータは、
「あいつ、ねじ伏せられりゃいいんだろ」
「そ、れって」
力強く微笑んだ、その意味を理解してタウの手から力が抜けた。
「出来ねぇなんざ言わねえよな」
緩い風を伴い、大鎌が姿を崩す。残ったイヤリングをぐい、とタウに押しつけ、ゼータは目線を落とした。決めたことが分かったのだろう、アルファも負けじと見返してみせる。
「骨折くらいは覚悟しとけよ」
「……そっくりそのまま返したげる」
「ゼータ」
呼んで、しかしデルタは言葉を切った。咄嗟に言葉を選べなかった少年を物珍しそうに見て、小さく笑ってゼータはひらりと手を振った。
ひとりソレと向かい合い、丸腰であるというのに余裕を保って腕を組む。
「んだよ、随分嫌そうな顔しやがって」
「……ほんっと、バカみたいじゃない?」
不愉快を隠すことも無く、ソレは鳥籠のレリーフの中央に座す濁った輝石に触れた。黒い光としか形容出来ないものが輝石の内側から徐々に滲み出したその杖を、無造作に差し出した、
「後悔して、絶望して、……壊れちゃえばいいわ」
姫君の滑らかな手から、
「思い通りには、させねぇよ」
護衛官は強引にもぎ取った。
「っ!」
耳を劈いた落雷じみた轟音は強烈な光を伴い、その全てが静まる頃には状況は整っていた。反射的に閉じた瞼を上げたアルファの目の前で、ふたりの女性が寄り添うように立っている。と、呼ばれる前に気づいたようにその片方が振り向いて。
「約束、だものねぇ?」
片手で抱えていた華奢な体を、無造作な仕草でいとも容易く投げた。慌てて両腕を伸ばしたアルファの腕の中に、銀の糸を散らして落ちてくる。
「姫!」
血の気の引いた顔で瞼を伏せる姿に叫んだ、それに応えるのは、
「ちょぉっと疲れちゃってるダケ。ほんとよ?」
その声帯が持つ声に、わずかにノイズが混じったもの。ニタリと笑むその口元を、銀の杖を携え立つ姿を見据えてタウは短杖を胸元に抱いた。
「……ゼータ」
静かに呟いた音に、ソレの表情が崩れる。忌々しそうに額を覆って睨みつけられ、なおタウは揺らがなかった。
「コロして、やるから」
「いいえ」
イヤリングを握り締めて、祈りの言葉に似た厳かさで強く紡ぐ。
「させません。その手は守るための、優しい手だから」
片膝を着いて低く謳う声に応えて温かな光が集う、それを防がんとソレは外套を翻し石畳を蹴った。
「っ!」
咄嗟にホルスターから抜き撃った銃弾が足下の石を割り、急停止した拍子に長い髪が揺れる。銀の杖をひゅ、と回し構える動きは体が覚えているものだった。
「おねがい」
「え、っわ!」
ずい、と目の前に差し出された姫君の体をデルタは受け取った。抱えていた重みの名残を持ったままアルファは取り落としていた大剣を拾い上げる。
たん、軽い足音ひとつで小さな体躯が駆ける。
「――やぁあッ!」
そのまま衝突すればただでは済まないだろう大剣の突撃を、たじろぐ気配も無くソレは半歩退き杖を体の前に翳して受け流した。
「……あれって」
眉を顰めたデルタの目の前で、ゼータの姿をしたモノはアルファの攻撃をひたすら捌いていた。何度か目にした大鎌の扱いとは似て非なる動きに、抱える体を気遣いながらも片手の銃の撃鉄を起こす。
「ゼータの戦い方の基礎は、姉さんから教わったものですから」
視線を落とした先、セピア色の石畳を照らす範囲が徐々に増えていくのを、眺めるとはなしに映しながらタウは思い返していた。
「杖術、使うんだっけ」
「はい、……きっと、無意識に動くくらいに」
長物と体術を組み合わせる動きを、正確に見極める目をタウは持っているわけではなかった。そんな彼でも分かるのは、遠くからでも長く見てきた故のこと。
と、アルファが大剣を振り切った一瞬の隙に滑り込んで、ブーツが不安定な足下を刈り取った。派手に転げたその喉元を石突で打ち抜こうと振り上げ、
「が、ッぐ」
その身ががくんと崩れた。得物で仮初の石畳を殴りつけ勢いを相殺し、体勢を立て直したアルファが剣の腹で躊躇いなく立ち竦むソレを殴り抜く。
「うあぁあああっ!」
「ぐぁ、っつ」
間一髪受け止めた杖が軋んで悲鳴を上げ、散った端から霞のように掻き消える花を薙ぎ倒して、それでもソレは倒れなかった。髪を片手で掻き毟り、ずり下がったヘアバンドと乱れた前髪の隙間からぎょろりと覗いた瞳が見たのは、
「忌々、しい……!」
今や天に昇る陽光ほどに大きく、全てを照らしだそうとする光。その核となる短杖を高く掲げ、もう片方の手に握る物を胸に神官は祈りを捧げる。
「助ける、だなんて。助かる、だナン、て」
きつくきつく歯を食い縛り、振り上げた銀の杖に暗雲が集い淀む。
「バカバカ、しいの、よ、そんな、モノ……っ!」
悲鳴じみた稲光が周囲に舞い散り、近づくことを阻まれてアルファは険しい色を浮かべる。憎悪に揺れる瞳が睨み据えた先、眩い光の根源に向かい振り下ろされた、
「――救いなんて、何処にもナイのよォオオオッ!」
無防備に跪くタウを打ち抜こうとした稲妻は、響いた銃声で掻き消えた。
「……エ?」
衝撃で跳ね上がった杖と痺れる腕に愕然としたソレが、動かした視線の先で。
「残念でした、ってね」
片腕で青いドレスの背を庇い、突きつけた銃口の向こうで鋭く細めた目を笑わせるデルタを捉えた。
「キサマ、ァ」
「おっと余所見はよくないよ」
歪めた顔に返したデルタの言葉が、その耳に届いたのと同時に襲い来る。
「せやッ」
両足を踏ん張り、軽々と振った大剣が長身を掬って打ち上げた。迷いない赤い瞳を咄嗟に振り返った視界に映したソレは、
「……は、マヌケ、ねぇ」
異形の翼を喚ばんと杖を振り上げ力を込めて、ぱきんという音を聞いた。ヒビが入っていた輝石が耐えきれず砕けた欠片がぱらぱら散って、追って外套を黄緑の髪を靡かせ落ちていく体。
「応えよ」
それに向かい手を差し伸べて、伏せていた瞼をゆっくりと開けたタウの黄褐色の瞳を、眼前に浮かぶ短杖に宿る輝きが光らせていた。
「我が声と心に因りて、希望の光たる聖霊レイティスに乞い願う」
祈りを紡ぎ織り上げた、球体を取った温もりがソレを受け止め包み込んだ。だらん、と脱力した四肢、右手から零れ落ちた銀の杖もまたふわり浮かぶ。
「我が願うはこの手を超えた救いの道、彼の者らに与えられるべき自由。ここに在るよりなお善き先へと辿り着くことなり」
上を向いたデルタは、凝固し重なっていた影がゼータから剥離したのを見た。暴れるでもなく漂うソレは、ゆっくり唱えられていく言葉を微かに震えながら聞いていた。
「苦痛よ去れよ、嘆きよ晴れよ」
緩やかに下りてくる体は、タウが差し伸べた両の手の上で静止した。眠るように瞼を閉じた顔を見下ろして、張り詰めていた顔を少しだけ綻ばせる。そのまま彼は、ゼータの上に蟠ったモノへと向けた聖霊の祈りを、
「ただ安らかなることを、我は汝に願い奉る」
静かに、柔らかく結んだ。
動きを止めた黒い靄を抱いたまま、淡い光を帯びた球体は縮み始める。そこからはみ出した途端にずる、と落ちた体を支え切れず、
「うわっ」
共々に崩れてタウは尻餅を着いた。脚の上に横たわるゼータの脈を確認して、タウは大きく息を吐く。
「あれ、どうなんの」
その隣へ歩み寄って、アルファは靄を包み込む光を見上げた。ユプシロンを抱え、同じく傍へ寄ってきたデルタの方も窺ってからタウは振り仰ぐ。
「また杖で眠るか、……望んでくれさえすれば、浄化されるか。どちらか、ですね」
言葉の通り、落ちていた銀の杖がひとりでに吸い寄せられる。輝石を失ってぽっかりと空いた鳥籠のレリーフの中央へと揺らめきながら靄が集い、タウはそっと目を伏せた、と。
「……なに?」
気づいたアルファが下を向く。
石畳柄の床の奥底から生まれた地響きは、ほどなく揺れを伴ってせり上がってきた。取り落としかけた短杖を握り直し、ゼータの体を抱きしめたタウが愕然と辺りを見回す。
「分かりません、これは」
「まだ何か起こるって?」
余裕ぶった口振りと裏腹に真剣な表情でデルタは身構えた。アルファも大剣を握り直した、その瞬間に一際強い振動が突き上げる。
「きゃあっ!」
やってきたものに耐えきれず石畳が砕け散り、それを皮切りに空間自体がひび割れ崩れ、端から消えていく。
造られた空間が壊れていく中で、得物だけを抱えて宙へと放り出されたアルファはひとり見ていた。
「……ひと……?」
それは鎧のようなものを身に付け、手を差し伸べたシルエットだった。取り巻いていた光を吸い込み薄まった靄はやがてはっきりとした形を取り、長い髪と服の裾とを揺らめかせる。
躊躇い戸惑う女性のようなものは、恐れるように身を縮めた。それでも、恐る恐る伸ばされた腕は応えて繋がれた。
――いいの?
鈴の音のような女性の声は問いかける。迎えに来たシルエットは頷いて、引き寄せ力強く抱きしめた。
――俺は、そのために。
ふたつのシルエットは急速に崩れ、それに伴うようにアルファの意識も遠ざかっていく。残ったのはたったひとつの声。
――やっと、君を救えた。
それだけだった。
「……ルファ、アルファ!」
「んー……」
揺すぶられて、意識が引き戻される。アルファが重たい瞼を何とか引き上げて、赤い瞳を向けたことにデルタは安堵の息を吐いた。
「……でるた」
「そう。大丈夫?」
のそり起き上がって頷き、元の屋敷の一室らしき部屋を見回して少女は目を見開いた。
「ひめ、さま」
長く伸びた髪をそのまま垂らし、俯き座るのは紛れもなく探し続けた主の姿だった。未だ信じられない、という気持ちの籠もった声に呼ばれ、細い肩を揺らす。
「アルファ……」
か細い声を押し出し、くたびれてしまったドレスを握り締めてユプシロンは顔を上げた。
「アルファ、……すまぬ、妾は」
眉根を寄せたその顔は、目の前に飛び込んできた影に驚き瞳を丸める。
「ごめんね」
湿って震えた声で、確かにそこに居るひとにアルファは縋った。一度ぎゅっと唇を噛み締め、深呼吸して調える。
「心細かったよね。……一緒に居られなくって、ほんとに、ごめん」
力の籠もる小さな拳がそのまま己を壊してしまいそうに見えて、姫君は思わず白い手を伸ばした。手の甲をそっと撫でた指先を、そっとそっと掬って触れてアルファは涙を堪える。
「姫さま、うちの大事な主様。だいすきだから、もう、絶対ひとりにしないから」
それでも抑えきれないで落ちた一滴に呼ばれて、雨が降る。
「妾も、信じられなかった。主らのことを」
ぽたぽたと、深い海色の瞳を溢れさせて姫君は騎士の手を取った。
「すまぬ、……ありがとうな」
「う、ん……っ」
頷き、嗚咽に喉を引き攣らせるアルファの桃色の頭を抱き寄せて、抱き寄せられて決壊した。
泣きじゃくる少女を抱えたまま、濡れた瞳を動かして捉えて姫君は微笑む。
「デルタ」
見守っていたもうひとりの騎士は名を呼ばれ、その目の前に跪いた。
「遅くなっちゃったね」
「共に来てくれたのであろう」
少年は見栄を張るのが得意だと知っていたから、ユプシロンはもう片方の手を伸ばした。堪える目元を撫でて行くのを、デルタは苦笑し受け入れる。
「オレの主は、姫だけだからさ」
「……そうか」
綻んだ頬を濡らしたままで、姫君は目を細めた。
「……入れないですね」
部屋の外。
老朽化した壁は室内でのやりとりを筒抜けにしていた。すぐ外の廊下に座り込み、聞こえる会話にタウは微笑みつつも呟く。
「ったく」
投げ出された脚を枕に、力なく横たわってゼータはしかめっ面を浮かべていた。目立つ外傷はないが酷く怠い体を動かす気力もなく、白いコートの裾に頭を乗せたまま唸る。
「あー……宿戻んのめんどくせぇ……」
「アルファさんに運んでもらうのが一番、なんですけどね」
言いつつも邪魔をする気にはならず、疲労感に溜め息を吐いたタウはふと視線を落とした。
「んだよ」
「……いえ」
睨み上げる顔にいつものヘアバンドはなく、掛かる前髪をタウはそっと払ってやった。訝しげながらもさせるがままにしていたゼータだったが、不意に耳に触れられぎょっと目を剥く。
「は、おい」
凄んだにも関わらず、じっと見下ろす眼鏡越しの視線は揺らがなかった。イヤリングを付け直した後も頬を覆う手のひらに、だんだん困惑に塗り変わっていく顔。そこに触れて分かる温度にタウは、
「……助けられて、本当に良かった」
泣きそうに笑っていた。言葉を失って固まるゼータの髪に指を絡ませ、訥々と零す。
「貴女が信じてくれて、任せてくれて嬉しかったんです。でも、同じくらいに怖くて」
ゆらゆらと髪を弄ぶ手を掴まれて、タウは言葉を切った。重たい腕を何とか動かし捕まえたゼータは目線を逸らさない。
「お前はやってのけたんだ」
なあ、と呼んだ、咲いた笑顔にタウは声を詰まらせた。俯き近づいた頬をお返しとばかりに軽く叩いた、
「お前の祈りはちゃんと届いてた。信じさせてくれて、ありがとよ」
金の髪を掻き乱したゼータはそんな彼を、愛おしんで笑っていた。
緩く纏めた、空より深い青が滲む銀糸が身を翻した拍子に揺れた。ひとけの無い森はもうすぐ途切れ、そこで道は分かれることになる。
「……お主らには、大変に世話になった」
その前で足を止めた姫君は、急ぎ揃えた旅支度に身を包んでいた。デルタが伝手を頼って飛ばした鳩が無事に着けば迎えは来るだろうが、それまでは徒歩の旅となる。
「ちゃんとそれ、被ってけよ」
「ふふ、分かっておる」
真新しい外套に付けられたフードを指してゼータが言えば、笑うユプシロンを横目にアルファが噛みついた。
「姫さまにえらそーな口利いてんじゃないわよ!」
「ぎゃーぎゃーうっせぇな」
そんなふたりを楽しげに眺めて、隣に歩み出たデルタへ無邪気に言う。
「ほんにふたりは仲が良いのう」
「本人達は認めないけどねぇ」
肩を竦めた少年に苦笑してタウは足を踏み出した。
「ゼータ」
「あぁ?」
不機嫌を引き摺って振り向いた顔に臆する気配もなく、伸ばした手がつい、と袖を引く。無言の笑顔に言葉が詰まり、掴まれた袖を振り払うことも出来ずにゼータはがりがりと頭を掻いた。
「……んだよ……」
「あまりお引き留めするのも悪いですからね」
朗らかな表情から恐ろしげに目を逸らしてデルタもアルファを招き寄せた。とさとさ、と下生えを踏む足音がして、二組の間に距離が開く。
「……そっちの決めたことに、いちいち口出すつもりもねぇけどよ」
乱れた髪の一部を払い落とした拍子に、アクアグリーンの輝石が木漏れ日を反射した。
「今度はひとりで家出すんじゃねぇぞ。そこのちびがうるせえからな」
「いちいちうるっさいのはそっちじゃん!」
飛びかかろうとした小さな体を押し止め、デルタは片目を瞑る。
「タウ、例の件よろしく」
「姉さん伝いにはなりますが、出来るだけ上手くやってもらいますよ」
応えたタウはそのまま視線を動かし、外套に身を隠した姿へ礼を取った。
「ユプシロン姫」
呼ばれ、陰から覗いた紺碧の青には金の神官が映る。
「どうか貴女の行く道が、レイティスのもたらす希望に照らされているよう。お祈りしています」
その傍には暗雲を払う風に似た強さを緑の瞳に宿す護衛官がいて、木々から差し込む日の光がふたりを照らしていた。
「……お主の言葉なら、心強いのう」
眩しげに見て、身についた優雅な一礼を返して姫君は踵を返す。ゆっくりと背の低い草を踏み分ける足を追い越して目の前に踊り出し、
「うちらがついてるから!」
大剣の重さなど感じさせない足取りで、少女騎士は桃色の髪を弾ませる。向けられる瞳のきらきらした赤色は意志の強さを宿し、進む姿に迷いはない。
「うむ、っと」
不注意だった足下を木の根に取られ、転びかけた体は隣からの腕に支えられた。
「僭越ながら、エスコートはオレが」
なんてね、と戯けた、しかし導く動作に淀みのない少年騎士に手を引かれ、
「……頼りにしておるぞ」
ユプシロンは笑顔で、陽光照らす街道へ歩み出た。
終
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