第四話――響き封じる風笛

 朝市の喧噪を壁の向こうに聞きながら、デルタは割り当てられた部屋を後にした。欠伸を噛み殺しつつ階段を下った先からは香ばしく焼けたパンの香りが漂う。

 強行軍の旅の疲れは久々のベッドでも抜け切らず、空腹も抱えて少年は宿泊客向けの食堂を見回した。そんなデルタの姿を捉え、既にテーブルに着いていた女性がひらり手を振る。

「よ、お前にしちゃ遅かったな」

「おはよー、そっちは元気だね」

 まあな、と肩を竦めたゼータがトーストに目玉焼きを乗せて齧りついた。その隣でマグカップを傾けるタウは眼鏡の奥の目を瞬かせる。

「おはようございます、デルタさん」

「……タウ、もしかしてあのままずっと起きてたの?」

 寝た気配の無かったもう一つのベッドを思い出したのだろう、同室者から尋ねられてタウは無言で微笑んだ。対照的にしかめっ面を浮かび上がらせたゼータにじとりと睨まれ、

「あともう少しでひと段落着きますから、そうしたら休みますよ」

 慌てて言い繕ったことへの返事は舌打ちだった。

「倒れられるとゼータが怖いからさぁ、無理はしないでおいてよね」

「おい」

 芝居がかって言ったデルタも睨みつけて、ゼータは乱雑にフォークを取り上げた。残りの朝食を口に運ぶ彼女を正面に見つつ、デルタは椅子に腰掛けながら給仕を呼ぶ。

「トーストとサラダのセット、あと珈琲もよろしく」

 人好きのする笑顔を添えて注文を終えた、その背後からとたとたと板張りの床を走る音が響く。

「おはようアルファ」

「おはよっ!」

 桃色のセミロングをふたつに結んだ少女が階段を駆け下りたのを、椅子の背に手をかけ振り返ってデルタは出迎えた。赤いワンピースの形ではあるが、その実騎士の制服としてきちんとオーダーメイドされた服の裾を翻して最後の三段ほどを飛び降りる。鎧をまだ身に付けていない身軽な姿で、そのまま空いていた椅子にとんと腰掛けたアルファに向かい。

「まーたお前が最後じゃねえか」

 隣で頬杖をついて、ゼータは意地の悪い顔を作って見せた。途端アルファは頬を膨らませる。

「うっさいな、あんたたちが早すぎんの!」

「オレたちもそこまで遅くないつもりだったけど、そっちの習慣もすごいよね」

 デルタの前に注文した料理とマグカップが置かれると、入れ替わりにアルファの注文を取って給仕は去っていった。

「まあな。……こいつは違うみてぇだけど」

 じろ、とタウを目線で刺して、自分の皿を空にしたゼータは立ち上がった。腕を掴まれ引き摺られて立ったタウの困惑は意に介さず、

「こいつがこのザマだからな、俺ひとりで行ってくる」

「え、でも僕も」

 言いかけた主張も黙殺して、部屋に叩き返さんと連行していく。

「……よろしくー」

 苦笑したまま見送り、ようやくデルタはトーストを手に取った。朝食を待つアルファがぱたぱたとブーツの底で床を叩く。

「って、結局例の話はどーなったわけ」

「あ、聞いてない」

「えー」

 口を尖らせ不満を滲ませるアルファに対し、デルタは落ち着いた動作で黒い珈琲を啜った。

「肝心のタウがあの状態じゃあ、ね。どっちにしろ買い出しがあるし」

 丁度運ばれてきたパンかごとソーセージや目玉焼き、サラダの載った大皿にスープの入った大振りのボウルを見て少年は言葉を切る。小さな体にたっぷりの朝食を詰め込みはじめた少女に話を続けたとしても、半分聞き取ってもらえるかも怪しかった。



 タウを部屋に放り込んだゼータは、身支度を調えひとりで宿を出た。昨日の夕方近くに街に着き、慌ただしく駆け込んだ神殿も今日は用無しと前を通り過ぎる。

 オプセリオンから西へ、内陸側に進んだ位置に存在するアイドスと呼ばれる街は、交通の要とされる大きな街道からは少し離れている。そんな所を目的地と定めた理由は、森林の静けさが空気を支配しはじめる街外れにあった。

 ヘアバンドから零れた前髪を邪魔そうに掻き上げ、ゼータは半ばから朽ちた石柱を見上げる。年月に表面を削られた石造りの建物は、遺跡と表現されるのがよく似合っていた。

「おい、そこの」

 研究の為か散見される何人かを見回し、見つけた目的の相手に声をかける。振り返った神官服の、明るい黄緑色の髪を束ねた女性はぞんざいな口調に気を悪くした様子もなく微笑んだ。

「昨日の護衛官の、……ゼータ様ですね。待ってました」

「様いらねぇって」

 調査の依頼は予定通り伝えられていた。カンテラを手に先導する地元の神官について建物に足を踏み入れると、森の中とはまた違った冷たい空気がゼータを包む。

「ですが、イオタ神官長からの紹介状には」

「緊急事態だからタウ、……あの神官が頼んだだけなんだよ。俺は関係ねぇんだ」

 一方的に言い切った護衛官に、そういえばと神官は目を向けた。

「タウ様はご一緒ではないのですね」

 模様らしきものが刻まれた壁を眺めていたゼータは案の定、という顔をしてがりがりと頭を掻く。

「あー……、ちょっとな」

 その様に質問を取り下げて、神官は通路の奥を指しつつ話した。

「資料は昨日お渡ししたものをご覧頂けばいいかと思いますから」

 それはタウがゼータを送り出すときにも言っていたことだった。専門の学者には敵わないだろうから、主目的だけ果たしてきてもらえますか。そう言った声を思い返してゼータが頷いてみせると、神官は安心した笑みで応えた。

「……こちらです」

 見張りなのだろう、屈強な護衛官らしき男に会釈して進んだ先は小部屋になっていた。石を丁寧に細工したのだろう台座は古びていたが、まだその役目を果たしている。

 その上に飾られていたのは、細身の横笛だった。カンテラの火を明るく照り返す金属は混じりけのない銀色で、輝石の粒を組み込んだ鎖が巻き付けられている。鎖がところどころ錆びているのに対してくすみひとつ無い横笛は、得体の知れない不自然さを纏っていた。

「これが話の元になったって笛か」

「そう伝わっています」

 胡散臭げな目で眺めていたゼータが、屈めていた背を伸ばして返事をした神官を見る。彼女が頷いて取り出した細長い袋を受け取り、カンテラの下で観察する。

「ウィンディアルの名だな」

 神殿の聖印と合わせて刺繍されているのは、風聖霊ウィンディアルに祈りを捧げる言葉だ。自分の扱うものと近いそれを指で辿り、呟いたゼータはもう一度確認する。

「いいんだな?」

「はい」

 はっきり返され、今度こそゼータは巻かれた鎖ごと横笛を取り上げた。それをそっと渡された袋にしまい、自分のリュックに入れる。

「……動かしていいのかよ」

「三月に一度、確認の為に神殿に持ち帰りますから」

 言われた内容に、気負っていた背から少し力が抜けた。そのまま礼を述べたゼータは外に出ると、ふと思い立って遺跡に向き直る。

「…………」

 神官ならば身に染みついているだろう動作だが、護衛官であればそれほど機会があるわけではない。イヤリングの輝石を外して祈りの動作を思い起こし、呟く。

「自由司りし風の聖霊、我らがウィンディアルよ」

 どうか、と続けた言葉は、突然吹き抜けた強風に攫われていった。



「どーだった?」

「いやー、厳しいね」

 片手に日持ちのする食料を詰めた紙袋を抱え、もう片方の手に鮮やかなオレンジの液体が揺れる瓶を持ってアルファは待っていた。待ち合わせ場所にしていた市場の入り口に小走りで寄ってきたデルタは、小さな木箱を脇に抱えている。

「おじさんに手紙飛ばしちゃえば」

 瓶に差さったストローをくわえてアルファがジュースを吸い上げた。並んで歩くデルタは宙を睨んで考える素振りを見せ、すぐに首を振る。

「んー、物が物だから厳しいんじゃないかなぁ。持ってる分で騙し騙しやるしかないね」

「あんな派手なことするからー」

 責めて聞こえる強い物言いはいつものことで、分かっているからこそデルタも平然と笑った。

「まあ今は心強い味方もいるわけだし」

 知らなければ無責任にも見える態度にアルファは口を尖らせるが、結局何も吐き出さずにストローを噛んだ。小さな背丈に頬を膨らませる様子は子どもが拗ねた様子に似て、しかし。

「そっちの方がキミっぽいよね」

「む?」

 からからと笑うデルタに、アルファは頭がおかしくなったのかと言いたげな目を向けた。声に出したならば心外だと否定しただろうが、言葉にはされなかったために別の発言がデルタから為された。

「オレはやることあるからさぁ、ゼータに頼んでみたら」

「……ゼータにぃ?」

 むぐぐと浮かんだ嫌そうな顔のまま、しかしアルファは考える。空になった瓶でからから回るストローを噛み潰し、深々と溜め息。

「しょーがないかぁ」



「そんなに嫌なら付き合わねぇぞ俺は」

 宿の裏手から少し離れた、森に面したその場所は新しく小屋を建てるために切り開かれた土地だった。これから整地するから多少荒らしてもいい、と宿の主人経由で持ち主から許可を得て、ふたつの人影が相対している。

「あんたは鈍ってもいいっての?」

 積み上げられた丸太の山に鞘に収めた大剣を立てかけて、アルファは肩を回した。服の袖とロンググローブに覆われた腕をぐ、と伸ばす少女に、怠そうに立っていたゼータが片眉を吊り上げる。

「んだと」

「それともうちに敵わないって分かるのがいや?」

 真っ正面からの挑発にゼータは大きく舌を打った。乱雑な動作でイヤリングを握り金具を外して、金で飾られたアクアグリーンの輝石を宙へ弾き上げる。呼び寄せた暴風を食って長く伸びた柄を片手で受け止め振り回す、その間に出来上がった婉曲した刃の先を正面に構えた。

「手足持ってかれねぇよう気をつけろよ。タウの奴もそこまでは治せねぇからな」

 口の端を吊り上げ人相悪く笑ったゼータに向かい、片手で柄を掴み引き寄せた大剣の切っ先を突きつけ返してアルファは鞘を傍らに投げ捨てる。

「そっちこそ、堂々とタウに甘えられるようにしてあげよっか」

 馬鹿にした声音で言った、それとほぼ同時に大剣を旋回させて頭上に振り上げた。アルファの身の丈と同じ程の、深紅の塗装が施された金属の塊は振り下ろされた大鎌の刃を弾き返す。

 軽々と行われた動作と裏腹に武器相応の重量感で跳ね返った勢いを身を翻して殺し、そのまま柄の先を持って大鎌が振り回された。横から刃をアルファの背後に回り込ませながらゼータは相手を睨む。

「どういう意味だよ」

「本気で言ってる?」

 迫る危機を、今度は剣の腹で大鎌の柄を弾くことで防いでアルファは跳んだ。再び弾かれた衝撃でたたらを踏んだゼータは頭上から振り下ろされんとする大剣を察し、前方へ飛び込み受け身を取って間合いを外す。

「……ほーんと、呆れちゃう」

 地面を派手に抉った大剣を引き抜いて、アルファはズレたベレー帽を片手で直し振り向いた。立ち上がったゼータが大鎌をひゅひゅん、と回して構え直すと、小柄な体がそちらに真っ直ぐ突っ込む。

「なんなんだ、よっ!」

 低めた姿勢から足下を切り払う大剣を跳び躱し、大鎌で地を突いてアルファの背後に着地したゼータはお返しとばかりに足払いをかけた。金属に覆われた爪先がブーツを履いた足首を刈り取って、小さな悲鳴と共に尻餅を着く。

「いったい!」

 憤慨するアルファの首元に後ろから大鎌の刃を沿わせて、ゼータは息を吐いた。

「んじゃ俺の勝ち、ってな。……けどよ」

 突きつけていた得物を引いて肩に担ぎ、ヘアバンドから溢れた前髪を掻き上げる。立ち上がって付いた土を叩き払ったアルファは宣言した護衛官を見上げ、予期しているように呆れ顔を見せた。

「なんで俺があいつに甘えることになんだよ」

「うわーやだー」

 ほんとに本気じゃんか、と呻いたアルファにゼータはますます顔をしかめる。

「あ?」

「もーあれだけ分かりやすいのにそういうことになんの、ってかタウも言ってないわけ?」

 言うだけ言って、アルファは投げ捨てた鞘を拾って大剣を収めた。帰り支度を始めた少女を大股で追って、不可解を不愉快がる色が緑の瞳に映る。

「俺に分かんねえことがお前に分かんのかよ」

「分かる、ってあんたさー」

 その目をじとりと赤い目で見返して、指を突きつけアルファは問う。

「なんでタウについて回ってるわけ」

「そりゃ、護衛官は神官の護衛するもんだろうが」

 即答する迷いのない顔に目眩を感じつつ、若干ここにいない神官が不憫になって言葉は続けられた。

「じゃああんた、神官なら誰でも一緒なの」

「…………は?」

 ぱちり、と瞬きがひとつ。ぽかんとしたゼータの思考が止まった、それを無理やり突き動かす様に。

 ドォオオン――

「何!?」

「な、っ」

 宿から轟音が響いた。



 どん、とぶつかるようなノックに応え、タウがドアノブを捻る。廊下に立っていた茶髪の少年は中身の詰まった紙袋を抱え直し、出迎えた同室者に礼代わりの笑みを向けた。

「ただいま」

「お疲れ様です」

両腕に荷物を抱えたデルタが部屋に入ったのを見届けて、タウはぱたり扉を閉める。

 広げられていた本やメモの類いを避けて、紙袋と木箱をデルタは並べた。追いついたタウが紙袋から箱や油紙に収められた食料を取り出し、荷物に詰め直す。

「アルファさんはどうしたんです?」

「ああ、ゼータに会いに行ったよ」

 釘で留められていた木箱に苦戦しながら返され、紙袋を畳む眼鏡の神官は首を傾げた。

「部屋に戻った、ではなく」

「うん。もう外出したんじゃないかな」

 結局自分の荷物から工具を取り出し蓋を外したデルタが、金属を磨く油と細い紐状に裁断された革を机上に置く。それを横から覗き込んだタウが、木箱に残されたものを見て目を丸くした。

「……それ、火薬ですか?」

 木を削り出したケースの表面に、内容物を示す焼き印が押されている。片手に乗りそうなサイズのそれを慎重に取り出して、デルタは空になった木箱を床に下ろした。

「よく手に入りましたね」

「オレ、こういうのに顔が利くんだよ」

 言いながらデルタが懐から取り出したのは金属のプレートだった。王冠をモチーフにした王立騎士団のシンボルの下には、デルタ・ログという名と身分を証明する文字が刻まれている。手渡されたタウが向けていた視線を正面に戻すと、デルタは自分のベッドの上に分厚いマットを敷いていた。見られていることに気がついた少年は返された身分証を元の場所に仕舞うと、火薬のケースと油の瓶を手にベッドに腰掛ける。

「机、片付けましょうか?」

「こっちで大丈夫だから続けていいよ」

 ベッドサイドの狭いテーブルに道具を広げて腰のホルスターを外し、小型の工具箱を漁る。波打つ長めの前髪をヘアバンドで押さえ、マットの上で銃の整備を始めたデルタを対面に見る位置に座り直してタウは再び本を開いた。と、

「それが例のやつ?」

 手元を見たままの声にタウはちら、と視線を上げた。二丁ある拳銃のうち片方を手にしているデルタから、机の上へと目線を動かして。

「ええ。ゼータが預かってきてくれたので」

 万年筆と並んだ、複雑な刺繍の施された袋に収まる細長い物に手を乗せた。寝起きのぼんやりした頭で出迎えた自分に少し安堵していた護衛官を思い出す、その顔を見ていないはずのデルタが笑う。

「起きててゼータに怒鳴られたりはしなかったんだ」

「ちゃんと寝ましたから」

 苦笑で返して、タウは借りてきた寓話集と地元の伝承を纏めた資料とを並べ見る。互いの作業に没頭する沈黙を、不意に割ってデルタが尋ねた。

「……どう?」

「そうですね」

 ふう、と息を吐いてタウは眼鏡を外し、目元を押さえた。数度の瞬きの後眼鏡をかけ直し、鮮明になった視界でメモと手帳を映す。

「……由来まで辿れていませんけど、銀製の道具が邪なる物に対抗するという考えについてはかなり古くから根付くものですね」

「そうだね。オレも聞いたことある」

 デルタは整備の済んだ銃を握り、くるくると眺めて頷きもう一丁に取りかかった。

「この笛もそうなんですが、銀製の道具は何かを封じ込める器に用いられる話がほとんどなんです」

「それって」

 デルタの手が止まる。目が合ってタウは頷いた。

「ヴィアレスタの聖杖もそうして使われていた可能性は高いと思います。何しろ聖女の持ち物ですから、かなり強力な道具になり得ますし。……少し不可解な点はありますが、大筋はそんなところかと」

「それが姫に取り憑いてる何かの正体、ねぇ」

 押し黙ったデルタへ、タウは静かな声で話を続けた。

「現物を調べようが無いのが痛いですが、こういうことは大抵決まった手順によって封印が施されるものです。この街は現物がこうして残っていて、記録も詳細に取ってありますから何か参考になるんじゃないかと、思っているんですが……」

 言葉を途切れさせ唸ったタウは、止まった相槌にふと顔を上げた。その視線を感じ、専用の手袋を嵌めて火薬を量っていたデルタは慎重に手を止める。

「……ああごめん、続けて」

「いえ、ここから先はまだまとまっていないので」

 それよりも、とタウはデルタの手元を凝視した。計量した火薬を小さな筒に詰め、小型の器具で部品を填め込んでいたデルタは火薬のケースを閉め、ようやく緊張していた顔を緩める。

「あんまり見られると恥ずかしいね」

「すみません」

 手製の銃弾を手で弄び、出したままだった銃の弾倉を横にずらすと空いていた穴に滑り込ませた。六つの穴のうち五つに銃弾を装填すると、弾倉を戻して引き金に指を掛けないまま宙に向かって構える。そこまでやって不都合無いと判断したのだろう、ホルスターに収めてヘアバンドを外した。

「デルタさん、何か飲みます?」

 同じく一息吐いたタウが椅子から立ち上がると、ありがたいとばかりに返事をする。

「あ、オレ珈琲。ブラックで」

「分かりました」

 部屋を出たタウが階下のカウンターから戻ってくる頃には、デルタは使っていた道具を綺麗さっぱり片付け終わっていた。

「後でアルファに渡さないと」

 机に置きっぱなしだった革紐を取り上げたデルタが、隣の部屋に渡す分の食料の上にそれを投げ置いた。黒々とした液体が揺れるマグカップを対面に座った少年の前に置いて、元の椅子に座りながらタウは自分の持つカップに口を付けた。砂糖をたっぷり溶かした珈琲を啜って、

「器用ですよね」

 言った言葉に、デルタはカップの持ち手を握った。

「言ってなかったっけ。オレの家そういう家系」

「お父様が作られた、という話なら以前に」

 ちら、とベッドの上に置かれたままのホルスターを見て、タウは眼鏡を押さえた。

「跡を継がれるのですか」

「んー……」

 曖昧な表情は、質問に対する否定とほぼ同義だった。苦い珈琲を飲んで、デルタは減った水面を揺らす。

「嫌いじゃないけどさぁ、他にやりたいことあるし。親父も弟子取ってるし大丈夫でしょ」

 息を吹きかけて生まれる波紋を見ていた褐色の瞳が、硝子の向こうへ視線を投げた。

「タウはさ、神官以外にやりたいことなんて考えたことないんじゃない」

「……そう、ですね」

 蓋を閉めたままの万年筆を手元で回し、タウは考え込む。

「あまりに当たり前でしたし、それを嫌とも思ったことがありませんから」

「だよねー」

 からりと笑ったデルタにタウは微笑み返した。ふと頭を横に向けて見た窓の、そこから差し込む日の光が金の髪を光らせる。

「今が、神と光聖霊の思し召しだというのなら。僕にとっては感謝すべきものです」

 タウが胸を張ってそう言った、その様に目を細めてデルタは薄く笑う。

「……じゃ、いいんじゃない」

 それで、とあっさりした口調の少年がカップを煽った。同じくマグカップを空にしたタウが立ち上がり、

「わ、っと」

 机の脚に足を引っかけ、体勢を崩した。がたんと揺れた机をデルタが咄嗟に押さえたが、堪えきれずに端からそれが転げ落ちる。

「……あ!」

 袋から零れて落下する銀の笛に、目を見開いてタウが手を伸ばす。しかしその手をすり抜けて、銀の笛は床に落ちて跳ね。

 ぱきり、と割れる音がした。



 走る。

 街はざわめいて、訳の分からないままに逃げ惑うひとが道に流れを作っていた。それを避け森に沿って目的の場所を目指すゼータは、不意に急停止して大鎌を眼前に翳した。

 飛んできた土塊を刃の表面で防ぎ、顔をしかめたゼータの背後から止まり損ねてアルファが転がり出る。

「ちょっと」

 文句を吐こうとした少女は、目の前に立つ人影に赤い目を丸くする。彼は防がれたことに気づくと苛立ったように舌を打ち、右手を掲げた。

「ジャマすんな」

 指先が宙を切った、その動きに従って周囲の小石がいくつも浮かび上がる。金の髪に濁った光を絡ませ、彼は眼鏡を投げ捨て唇の端を吊り上げた。

「神殿のなんかだろ、テメェ。丁度いいからボロボロになれや」

 タウの顔でにやりと笑い、彼は礫の雨を降らせた。動く気配のない隣の体に体当たりを食らわせた、その勢いのまま転がったアルファが背の大剣に手をかける。

「何なのあんた、タウじゃないの?」

「ああ? 知るかそんなヤツ」

 普段術を使う際に用いる短杖たんじょうは右腕に留めたまま、不愉快に歪んだ顔で彼は右手でふたりを指さした。途端地面が悲鳴を上げてぱっくりと割れ、飛び退いた拍子に二手に分かれたその片方を睨み据えて彼は吐き捨てる。

「……ウィンディアルの加護か、イヤなもんもってやがる」

 嫌悪の色濃い表情を、茫然としたままゼータは見ていた。武器を持った腕をだらりと垂らし、およそ危機に瀕しているとは思えないほど無防備に立ち尽くす。地割れの向こうで鞘から大剣を抜いたアルファはたん、と踏み切って駆け出した。

「待っ」

「何だって、のよッ!」

 こちらも大地を割らんとするかのような勢いで、ふたりの間に大剣を叩きつける。気圧されよろめいたタウの姿の彼に咄嗟に手を伸ばし、

「ゼータ」

 後ろから鋭く呼ばれ、反射的に振り返った。手招きに応じて駆け寄るゼータを飛び越えて、森から姿を現したデルタは相棒へ叫ぶ。

「アルファ、ほどほどでよろしく!」

「むちゃくちゃじゃん!」

 叫び返したアルファはしかし応じて大剣を構えると、重い武器を自在に振り回し彼をその場に釘付けにした。真横を掠める風圧ひとつに命の危機を忍ばされ、集中する間もなく彼は身を竦ませる。

「知んないけどさっ、その姿のまんまなら運動能力ぜったい負けないもんっ」

「ひっ」

 鈍器の突進じみた突きに悲鳴を零すのが精一杯、そんな表情に顔を曇らせるゼータ。そんな彼女を安心させるためか、デルタはあえて軽い口調を作って声をかけた。

「アルファ、あれで結構コントロール利くから安心してよ」

「……何が」

 対して重苦しく押し出された呟きに、デルタは持っていたものを押しつけた。常に身に付けているベレー帽も、鎧や武器の類いも持たない室内での装いそのままのデルタが渡してきた物を見て、ゼータの表情が嫌な予感に固まる。

 それは、ゼータ自身がこの街の遺跡から借り受けてきたもの。木漏れ日に光る銀の笛に巻き付けられていた鎖は、一カ所が衝撃で歪み壊れていた。

「……思った以上に鎖が痛んでたみたいだ。取り落とした衝撃でそのまま」

「あいつはっ!」

 がっ、と胸ぐらを掴まれデルタが顔を歪めた。衝動的な行動だったのだろう、我に返ってゼータは手を離す。

「……悪い」

「いや」

 けほ、一度咳き込んでデルタはズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「その直後からもうおかしくなっててね。それと、……あとこれだけ持ち出すのが精一杯」

 デルタが握っていたのは、笛を収めるための袋だった。真剣な顔でゼータの目を覗き込み、少年は年に見合わぬ重さを含んで言い聞かせる。

「タウはたぶん、その笛に封じ込められてた何かでおかしくなってる。ああなってる本人は頼れない」

 ゼータの視線が銀の笛から袋へ、施された刺繍――呪文へ移る。辿る。

「……儀式」

 ぽつり呟いたゼータに、デルタは頷き返した。

「タウも言ってた。だいたい決まった手順で封印されるって」

 素早く立ち上がったデルタが踵を返し、

「オレ、この街の神官さんに訊いて」

「待て」

 その腕を掴んでゼータが止めた。強く光を取り戻した視線で射貫いて、銀の笛にまとわりつく鎖を解く。

「こっちを頼む。誰かとっ捕まえて繋ぎ直せ、それだけでいい」

「……了解」

 細いそれを手のひらに握り留め、デルタは今度こそ駆け出した。それを見送る暇も惜しくゼータは布製の袋を両手で掴み、

「う、りゃあっ!」

 縫い止められた両脇を引き裂いた。一枚の細長い布と化したそれをひらり広げ、怒号飛ぶ場へ戻る。

「アルファ」

「おっそい!」

 振り回した大剣を肩に担ぎ、一足跳びで下がったアルファは疲れを滲ませ振り返る。

「行けんの」

 無言で頷き、ゼータは地面に片膝を着いて袋だったものを置いた。銀の笛を横に構えて口を付け、

「……ヤメロっ!」

 肩で息をしていた彼が、苛立ちに焦りを混ぜ合わせて声を荒げた。横に振り切られた手に従い放たれた石塊いしくれの弾丸は、大剣の腹で阻まれる。

 そして。

 銀の笛が、澄んだ音色で鳴いた。ゼータは袋に刺繍されていた呪文、その一節に差し込まれた旋律を目で辿り、笛に歌わせなぞっていく。

「がぁあああっ!」

 その一フレーズが完成した、そのことが合図であったかのように彼がくずおれた。繰り返し奏でられる音を阻み掻き消すように耳を塞ぎ、喚き散らす体から薄暗い靄が剥離する。

「……」

 構えを解き、アルファは後ろへ下がった。入れ替わり前に歩み出たゼータは、儀式の歌を滑らかに聴かせ続ける。

「……う、がぁ……」

 ぱたり、と腕が地面に落ちた。宙に蟠る靄は旋律に震えたまま、奏者の目に見据えられている、と。

「……風聖霊ウィンディアルと、先達の導きにて」

 離れた唇が、それだけをはっきりと唱え上げた。差し出した銀の笛は靄を吸い込み、一度だけ震え転がって、そして静かになる。

 深々と息を吐いたゼータの背中を、大剣を背負い直したアルファはじっと見ていた。ふとその足下に大鎌が投げ出されているのに気づき、拾い上げて呼びかける。

「あんたもそーいうこと出来んじゃん」

 投げ渡された大鎌の柄を片手で掴み、もう片方に握った笛を見つめてゼータは首を振る。

「いや、……こればっかはたまたまだ。元々風聖霊が封じたものだったし、最初に封じた神官が強力だったんだろうよ」

 術を解いて大鎌が形を崩す、その名残の風に吹かれながら膝を着く。

「運が良かったんだ」

 伸ばした指先が、地面に倒れたそのひとの金の髪に触れた。そこから目を逸らし少女は興味無さそうに呟く。

「……あっそ」



「何とかなったみたいだね」

 ブーツの音と共に戻ってきたデルタは、状況を見渡して頷いた。そして振り向いたゼータに向かい手にした物を投げ渡す。

「っと、あんがとな」

 パーツを足されて繋ぎ直された鎖を巻き直し、ようやく安堵の息を吐く。地面から袋の残骸を拾い上げたゼータの目の前に、ずいと差し出される手。

「んだよ」

「もうだいじょぶなんでしょ。あんたはそっち」

 示された方向を見て、アルファの顔を見直して。ゼータはグローブに包まれた小さな手のひらに持っていた物を預けた。

「くれぐれも慎重にね」

「わかってるもん」

 とすとすとデルタに並び、そのまま表通りの方へと足を向ける。

「……ところで、そっちはだいじょぶなわけ」

「あー、宿ねえ。弁償費って神殿に頼んじゃって良いのかなあ」

 オーバーな動作で腕を組んだデルタをじっと見上げ、アルファが脇腹を突いた。

「……っ」

「とりあえず神殿でいいでしょ。あんたも治してもらわなきゃだし」

 革鎧を身に付けていなかった剥き出しの状態に、打ち身を作っていた位置を正確に突かれてデルタは壁に寄りかかる。

「分かってた……?」

「あんだけ派手なことになってて、んで鎧も着てないんじゃ何にもない方がおかしーでしょ」

 呆れ顔を見下ろして苦笑した、そんなデルタの腕を引いてアルファはずんずんと突き進む。

「荷物無事だったの?」

「多分。全部はチェックしてないけど、……あ、アルファちょっと待って」

 呼び止めたデルタは物陰に屈み込む。臨時の作業場だった地面から工具箱を持ち上げて、少年は少女を追いかけた。



 疲れて熟睡しているような顔をじっと見つめ、脈に異常がないことを確認してゼータは細長い体を抱え上げた。本来コートの下に着るものだろうシャツは、土埃で薄汚れている。

 そこでふと気がついて、緑の目が周囲を見回した。きらりと反射したそれを見つけ、男ひとり抱えたままひょい、と屈み込む。

「……あー、いけるかこれ」

 華奢な金属製のフレームを拾い上げ、眺めて眉を顰める。畳んで自分の懐にそれを入れ、振り仰いで宿を見上げ溜め息を吐いて。今度こそ歩き出したゼータの耳に、微かに届く呻き声。

「……ぜー、た?」

「ああ」

 短い返事に、安堵の色でタウは微笑んだ。伸ばそうと動く腕に目をやって、ゼータは上半身を抱えるように腕の中の体を持ち直す。

 ぽんぽん、と背中を叩き、間近で揺れる金の髪に目を細めた。

「……僕、何が……」

「後で説明してやるから」

 まだぼんやりとした言葉にはっきり応えて、ゼータは森を横目に人けの少ない道を進む。聖印を屋根に掲げる神殿を見やり、それでもゆっくりと歩を進める緩やかな振動に、身を預けてタウは温もりに目を閉じた。

「ゼータ……」

 委ねられる重さを抱えて、護衛官は深く考え込む。自分より年下の、似たようで違う生き方をする少女の言葉を思い出して。

「俺は」

 届かなかった悔恨と、決意を思い返して両の腕に力を込めた。

「お前、を」

 続いた言葉は、今はまだゼータしか知らない。


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