第三話――失意の火注ぐ薪

 馬の駆けていく速度が向かい風を強くする。顔を打つ空気は次第に馴染みあるものとは違う、潮気と湿気を含むものに変わってきていた。それをアルファは感じ取って、馬を駆る少年にしがみついたまま前方を覗き込む。

 交通量が減っているのを幸いと、整えられた街道を立派な体躯の馬が二頭駆け抜けていた。緩やかな傾斜を登り切って丘の上、眼下に現れたのは紺碧を臨む白亜の街並みだ。

 港町オプセリオン。タウの提案した目的地はもうすぐだった。



 夜の帳が窓の外に下りている。

 話し終わったあとの沈黙を初めに打ち破ったのは、デルタが紅茶を啜る音だった。

「あー……」

 会議室の椅子にどっかりと座ったまま頭を掻き、ゼータは隣に座るタウに目をやった。考え込んだ体勢のまま話に聞き入っていたタウは眼鏡の位置を直すと正面に視線を移す。

「では。……ユプシロン様を、探していらっしゃったんですね」

 目を伏せたままだったアルファが、深く俯くように頷いた。口元を引き結んだ仏頂面の少女と対照的に、隣の少年は苦笑して肩を竦める。

「ま、そういうこと。王宮に詰めてる神官から、ここに手がかりがあるかもなんて聞いたから来たんだけどさぁ」

「それが、あの」

 言ったタウの脳裏には、地聖霊の祠での出来事が蘇っていた。あの時叫んだ少女は、スカートの厚い生地を握り締めたまま黙りこくっている。

「お前ら、ここの神殿が襲われた件とそっちの事情が関係あるとか言ってなかったか」

 ゼータが思い返したのはつい昨日の会話だった。細めた吊り目が対面を見据えると、それを隣からの手が制した。タウのその行動に、予想がついていると察したのだろう。

「多分、だけど」

 す、と呼吸を整え、デルタは組んだ手に口元を埋める。

「……姫なんだよ、それ」

「はぁ?」

 怪訝な声を上げた、そのゼータの反応にアルファが弾かれたように立ち上がった。

「あれは……っ!」

 しかし。その後に続けたい言葉を発することは出来なかった。そうじゃないと言えなかった、そんな自分を自覚してアルファは歯を食い縛る。

「確かめたいことがあります」

 静かな口調で切り出したのはタウだった。三対の視線を浴びたまま、思考を纏めて口にしていく。

「ただ、そのための知識が足りません。ですからおふたりに一緒に来ていただきたいんです」

「それ、で。……なんか、分かるの?」

 赤い瞳が縋るように瞬いた。それに少しの微笑みを返して、

「少しは力になれると思います。……姉さんくらいの天啓が得られるのであれば、もっとはっきり言えるんでしょうけど」

「あんなん何人も居られてたまるか」

 タウが続けた言葉をゼータがぶっきらぼうに遮った。眼鏡の向こうからの視線が横を見た、それに反発するように顔を背ける。そんな動作に思わず笑ったデルタを睨み、ゼータは腕を組んで背もたれに寄りかかった。

「協力、というより任せる形になるけどいいのかな」

 くすくすと笑みの残滓を残したままのデルタに、タウも戯けた仕草で手を振った。

「こうなったら他人事じゃありませんから」

 そして柔らかかった表情を引き締め、はっきりと告げる。

「なのでオプセリオンに行きましょう」

「オプセリオン、ってあの海辺のとこ?」

 アルファが首を傾けるのに頷いて返し、

「詳しく調べるなら伝手が要ります。ここから目指すならあの街が一番です」

 述べたタウの隣で、ゼータがわずかばかりの溜め息を吐いた。



「ふむ」

 潮風に磨かれ年月を重ねた白亜の神殿、その一室で唸ったのは深い紫の髪の怜悧な美女だった。輝石をあしらった扇子を片手に持ち、考えを巡らせるように弄ぶ。開いていたそれをぱた、と閉じ、口元に当てて客人たちを見据えた。

「ある程度目処が付いたら、なあ」

「お邪魔しちゃってごめんね?」

 応えたのは応接用のソファに座っていたデルタだった。あっけらかんとしたその口調に、神官長イオタ・ルートはしかし気を悪くした様子もなく口の端を上げてみせた。

「何、構わんよ。むしろ聖霊の思し召しかと思ったさ」

 手元の書類にペンを走らせ、処理済みの山に乗せたイオタ。その彼女の後ろに居るのはいつもの屈強な護衛官、ではなく。

「また嫌味な言い方しやがってよ」

 外套を脱いだゼータが壁に寄りかかって眉根を寄せていた。頭を掻いた拍子にズレたヘアバンドを舌打ちしながら直す、そちらを振り向きもせずイオタはペンを置いて手を組む。

「嫌味とは酷い言い様だな。本音だとも」

「……それは、うちらが王立騎士団だから?」

 中身の減っていないカップを手にしたアルファの問いかけに、イオタは紫水晶の瞳を眇めた。

「そうとも。……王都で何かあったとは聞いている。その具体的な内容が流布していない状況で、王族直下の騎士が動いているとなれば気にならないはずが無いだろう」

「それはま、そうだよね」

 お茶菓子のチョコレートをひとつ口に放り込んで、デルタが見たのはゼータの方だった。仏頂面を崩さないままの護衛官は、しかし深々と息を吐いて言葉を押し出す。

「だからさっきあいつが言っただろ」

「第二王女の件で至急調べなくてはならないことがある、としか聞いていないが?」

 イオタが体重を掛けた革張りの椅子がギ、と軋んだ。

「わざわざガンマを手伝いに貸し出してやったのだぞ」

「……あーもう、タウが戻ってきてから聞けよ知らねえよ!」

 元々弁の立つわけではないゼータが投げ出すのは早かった。そこに便乗してデルタも両手を広げてみせる。

「言い出した当人だからさ。そっちの方が分かりやすいと思うんだよね、事情」

「……」

 口を開きかけたイオタが視線をずらした。この場の誰より張り詰めた雰囲気を隠しもしない、口数の極端に少なくなった少女を見据えれば、ややあってから視線に気がつき顔を上げる。

「……なに?」

「いや、何。……私に訊きたいことがあるのでは、と思ってな」

 アルファの紅玉が瞬いた。ちら、と窺った先の茶髪の少年は、軽い仕草で頷いてみせる。

「気になってるなら、訊いといた方がいいとは思うよ」

 二つ結びの髪をふい、と揺らして頷いた、スカートを握り締めた少女がイオタを睨んだ。

「あんたは、……姫様のことどう思う?」

「ユプシロン様、か」

 見極める、というには真っ直ぐすぎる表情に、若い神官長は手の中の扇子をぱたり鳴らす。

「伝聞でしかないがな。立派な方なのではないか、祝福の証に相応しくあらんとされているのだから」

 そこまで言って、量るように騎士達を見やった。またそのふたりとも近しいのだろう、とイオタ個人が判断している背後の護衛官が止める様子もないことに、続く言葉を考える。

「……まあ、神官ならば誰しも気になるのは確かだろうな。六柱教の唯一神の寵愛を賜る王族、と言いつつも銀糸は久しく現れていなかったのだし」

「そんなもん、だよな」

 口を挟んだのはじっと扉を見つめていたゼータだった。そのまま誰とも目を合わせることなく、独り言の声色で投げかける。

「いくら国教っつったって、直接王族とやりとりすんのは王宮に常駐してる連中と、あとは大神殿のじーさん達だろ」

「それはな。だから私としては正直、口煩いじい様方が文句をつけない程度には評価される姫君なのだろうな、ぐらいのものさ」

 付け足すならば、と扇の先が騎士を指した。

「お前達を従える度量は、個人的に評価している」

「……うーん、何とも言いがたい評価だね?」

 指された先の少年が、身分証代わりのベレー帽を弄びながら苦笑した。



 さほど埃臭く感じないのは手入れが行き届いているからか、と部屋に入ったタウは思った。先に部屋に入った浅黒い肌の巨漢が奥のカーテンを開けると、昼の日差しが中を照らす。

 部屋中の棚にきっちりと並べられた資料の類いを見回して、タウはガンマに向き直る。

「それで、どの辺りに置いてますか」

 端的な問いに戸惑う様子もなく、ガンマは部屋の奥を示した。足をそちらへ運んだ眼鏡の神官の前に現れたのは、小さくもしっかりとした木製の机と椅子だった。

 戸惑うタウの横をすり抜けたガンマは、同じ装丁の古ぼけた本を三冊、机の上へ丁寧に並べる。軽々と扱われていたそれらが立てた重たい音は、護衛官の体躯が見かけ倒しではないことを示していた。

「……帳面、は」

「用意してあります」

 勧められるまま椅子に腰掛けながら、タウは傍らに立つガンマを見上げる。

「いろいろありがとうございます、助かります」

「……いえ」

 小さく首を横に振った大男に微笑んで、タウはコートのポケットから手帳を取り出した。ペンホルダーから外した万年筆と重ねて机に置き、右手で並べられた内の一冊を取る。

 並べられた王族の伝記のうち、最も古い年代が表紙に記された物だった。年を経て茶褐色に変じたページをめくり、古めかしい文体を無言で辿っていく。その一文を押さえ、左手の万年筆で手帳に短く書き留めた。

「……後は」

「そうですね」

 読み込む時間はないと判断したのだろう、ある程度流し読みする目線を上げないままタウは眼鏡を押さえた。

「……聖女ヴィアレスタに関する伝承や、お伽噺が載った物があれば」

 隣の人影がすっといなくなった、そのことにも構わずタウはメモと本とを見比べる。手を伸ばして次の巻を開き、再び内容に目を通しながら意識無く言葉を零す。

「神が束ねた銀の光、これが王族の銀糸を指すとして」

 伝記を次々と辿って、自身の記憶と相違ないことを確認した神官は考え込んだ。

「……とすれば、ユプシロン様が持っているのはやはり」

 傍から聞けども意味を察してとれない呟きを、そのままさらさらと手帳に書き留める。そのタウの元へガンマが戻ってくると、手元に差した影に気づいて顔を上げた。

「ありましたか」

「…………こちらを」

 机に追加で置かれたのは、打って変わって様々な色とサイズの書籍だった。各地から収集されたのであろうそれらに再び礼を告げたタウは、一番厚いものを探して目次のページに目を落とす。

「ガンマさん」

 寓話集から気にかかった話を選んだタウに呼ばれ、直立不動で控えていたガンマの目が向いた。

「思い当たれば、でいいんですけど。銀の品物が出てくる物語って何があります?」

「……銀、ですか」

 しばし考えたガンマが口にしたいくつかの題名と、自身が繰る手元を見比べて相違ないことを確かめ、タウは頷く。

 そのまま近隣の地誌に手を伸ばし、ぱらぱらとめくっていた中で黄褐色の目が瞬いた。

「これは」

 それは、とある地聖霊の祠に関する記述だった。古めかしく読みにくい文章を指先で辿り、訝しげに唸る。

「聖女が……、いやこの語順だと、……聖女を封じた? そんなまさか」

 戸惑い巡る思考に沈みかけた、その瞬間。

「……っ!」

 冷水のような悪寒を浴びせかけられ、顔色を変えて息を呑む。

 がたりと立ち上がり部屋を飛び出したタウの常ならぬ姿に、ガンマも迷わずその背を追いかけた。



「……む」

 イオタが呻いた、その背後でゼータがイヤリングを外した。それが緊急事態の証と知るデルタは礼儀として外していたガンホルスターを素早く腰から下げ直して立ち上がり、一拍空いてアルファも跳ぶように立った。

「何っ!?」

「まだ分かんねえよ」

 言い返したゼータがイオタに尋ねる、その前に両開きのドアが突き開けられる。

「ゼータっ!」

 駆け込んできたタウの横を、ガンマが巨躯に見合わぬしなやかさで抜けた。主の元へ参じた彼と入れ替わったゼータは、廊下を走ったのだろう息を切らすタウを支える。

「すみま、せ」

「いいから」

 白いコートの肩に触れる彼女の代わりに、尋ねたのは少年騎士だった。

「どうするのかな」

「場所を変えよう」

 短く答えたイオタは部屋の出口へ足を向けていた。その背に付き従うガンマは、既に武装である手甲を身につけていた。

 部屋の入り口に鞘に収めたまま立てかけられていた大剣を背負い、アルファがデルタを見上げた。デルタ自身もさして背が高いとは言えないが、アルファを見下ろし頷くと開いたままの扉を潜る。

「……なんなの?」

「さぁね。けど神官の直感……、天啓には従っとくもんでしょ」

 そのふたりを追って、右腕に括っていた短杖たんじょうを握ったタウが廊下へ姿を現した。殿のゼータは未だイヤリングを握り締めたままだ。

「あんた武器は?」

「お前ここでそれ振り回せるか」

 訊いたアルファの大剣を指して、ゼータは前を急かした。廊下を四つの足音が駆け、中庭に開けたピロティ状の渡り廊下へ出る。

「こことて歴史のある建造物なのだ、むやみやたらと被害を食うわけにはな」

 追いついてくるやいなやそう言い放ったイオタに、顔を曇らせていたタウが抑えつけた声音で続ける。

「アルファさんとデルタさんは、……無理しないでください」

「それってどういう」

 デルタが尋ねる言葉を遮って、不意に生温い風が吹いた。中庭へ出て大鎌を喚んだゼータの起こしたものとは違うそれに連れられ、黒々とした雲が空を閉ざす。

 快晴の青を食った黒雲からぽつぽつと落ちた雫は、みるみる大雨へ変じていく。

「……イオタ様」

「ああ」

 頷いたイオタを屋根の下に置いて、ガンマは既にずぶ濡れとなった緑髪の護衛官に並んだ。

「説明しないの」

 誰ともなく問うたアルファに返ってきたのは、

「すみません」

 短杖を構えたタウのその一言だけだった。一時も惜しいとばかりに言葉を連ねていく神官に口を噤んで、少女はただ幕のような雨を見やる。

 空気が張り詰めていく。いつとも知れなかったその時は、悪寒に押され叫んだタウの声が告げた。

「――盾を!」

 護衛官たちの頭上に現れ出でた光の薄氷は、鏡のように天からの光を跳ね返す。直後鼓膜を殴りつけた轟音に、しかしゼータは足を踏ん張り堪えた。遥か頭上でゴロゴロと唸る稲光を眩しげに見上げた、眇めた緑の瞳が最初にそれを捉える。

「あいつ」

 背後から照らされた黒いシルエットが、奇形の翼を背負った人の姿だと気づいたことがきっかけのように掲げ、振り下ろされた。

「阻め」

「帳を」

 下を指し示した銀の杖に従って迸る稲妻が建物全体へ降り注ぐのを、許すまじと雨を飲み込んで氷色の壁が地より生え出でた。それを成すため地面を殴りつけた勢いのまま、屋根のある場所へガンマが転がり込む。

彼には影響を及ぼさず雷のみを避けさせた影色の帳が引いた瞬間に、

「――アルファ!」

 まだ雲の下にいるはずの声に呼ばれ、アルファは反射的に駆け出した。頬を打つ雨粒を掻き分けて、水溜まりと泥と氷が入り混じる地面を蹴って振り仰ぐ。

 周囲に雷が落ちる瞬間に真上へ飛んだ、人影に肉薄したゼータは大鎌の長い柄を勢いよく振り回した。翼の片方を叩き切られた人影は、バランスを崩し銀光を引いて落下する。

「あっ」

 その姿を瞳に映して見開いて、アルファは手を伸ばした。彼女の体を受け止める為に伸ばされた腕を。


「……それ、じゃまぁ」


 無造作に振るわれた杖が薙いだ。

「うあっ」

 言葉通り退かす為の衝撃にたたらを踏んだアルファの背を、駆け寄った少年が支える。デルタは目の前の女性がふわりと足から着地し、外れたフードから零れる濃紺と銀の長い髪を払う様子を注視していた。

「……だれ」

 不意の呟きは、

「っあんた誰なのッ!」

 直後に爆発した。涙目のアルファと、片手をホルスターの銃把に添えたデルタの前で彼女はガクン、と首を傾げた。

「だれ、って」

 騎士が見知った整った顔が、にたりと笑う。

「分かるでしょお、オヒメサマ、よ」

「ほう」

 臨戦態勢のまま庇うガンマの後ろで、イオタが扇子で指し示す。

「近頃の姫君とやらは、気品の代わりに禍々しい気配をお持ちのようだな?」

 不快そうに歪んだ表情のまま、彼女は杖で地面を打ち鳴らした。曇った輝石が怒り唸り放たれた衝撃波を、光の障壁と回転した鎌の曲刃が掻き消す。

「撃てねえなら下がってろ」

 衝撃波を凌いだゼータが、手首を翻して大鎌を彼女の喉笛に突きつけた。一動作で刈り取れる状態のまま吐かれた台詞にデルタが唇を噛む。その隣へ、眼鏡に付く雫を袖で防ぎ拭いながらタウは歩み出て短杖を掲げ、凍り付いた。

「……アナタ」

 彼女の昏い目が、見開かれたままタウを見据えていた。無造作に前へ歩き出した彼女にゼータが舌を打ち、

「おい」

 声をかけるとぐりん、と振り返り、不気味な瞳で射貫く。

「……アア、そう。アナタたちなの」

 たじろいだゼータが武器を下ろした、その様子にクスクスと笑って彼女はぐるりと周りを――彼女の関心を引く四つの顔を見回した。

「ネ、ちいさな騎士サマ?」

 一歩近づき手を差し伸べた先は、幼い顔に険しい表情を貼り付けて彼女を睨む少女だった。

「そんなにオヒメサマが大事なのなら、どうして」

 言葉が切れ、アルファが息を呑む。

「どうして、妾を置いていった?」

「……あ」

 哀しげな『姫』の顔に青ざめたアルファは、しかし一発の銃声で呼び戻される。

「いい加減にしなよ」

 彼女の足下へ銃弾を撃ち込んだデルタが唸った。

「ハァ?」

「馬鹿にするのも大概にしてって言ってるんだけど」

 俯いたアルファの背を叩き、正面を睨み据えるデルタの様子に彼女は吹き出した。腹を抱えてひとしきり哄笑を響かせた彼女が、嘲りを残したまま叫ぶ。

「何ソレ、ネェ。信頼、敬意、そんなに誰かを信じてるの?」

 背筋を凍らせる怖気と共に、彼女は声を叩きつけた。

「バッカみたい!」

 銀の杖を抱きかかえ、鳥籠に似た意匠を撫でてふたりの騎士を、金糸の神官を、そして緑髪の護衛官の顔を覗き込む。

「アンタたちもみーんな、バラバラに壊れちゃえばいいのに」

「……っ」

 咄嗟に腕を振ったゼータから離れ、跳び退った彼女がもう一足跳ぶと、直前までいた場所に氷の花が咲いた。

「貴様の事情は知らんが、これ以上神殿を荒らされるわけにはいかんのだ」

 この場に置いて唯一冷静にことを見ていたイオタの言に、忠実な護衛官が俊敏に距離を詰め拳を振るった、が。

「ヤーだぁ」

 再び翼を抱いて宙を舞った、姫君の姿をした彼女が口角を吊り上げた。

「神殿も、……それからそこのアンタたちも。グチャグチャにしたいのよアタシ」

 杖を振るい呼んだ、叩きつける雨粒と暴風を盾にして、

「だからバイバイ。ちゃんと追っかけてチョウダイね」

 その声だけを響かせ残し、消え失せた。



 全員が濡れ鼠の惨憺たる有様に、空気の重さが拍車を掛けていた。

「……とにかく」

 神官のコートを脱いでガンマに持たせたイオタが、黒のワンピース姿で溜め息を吐いた。

「湯を用意させるから全員着替えろ。話はその後だ」

「そう、ですね」

 応えたタウはその通り、時間を置いて再びイオタの執務室へと集まった面々の前で口を開いた。

「……今デルタさんが話してくださったことと、先程の出来事からして。ユプシロン様に何事か起こった結果、現在の神殿襲撃事件が起きていると考えられます」

 一度区切り、ソファに腰掛けるタウは手帳から顔を上げた。荷物を宿に置いていたために借りた訓練着姿のデルタは、王宮での一連の騒動を語った喉を潤したカップを机に戻す。

「あれは姫だけど、でも姫じゃない。こういう類いの話だとオレらは完全にお手上げだね」

「……なあ」

 眉間に皺を寄せ、こちらも訓練着を身につけたゼータが唸ってタウを見た。

「あいつ、こいつらだけじゃなくて俺とタウにも何か因縁つけてきやがったよな」

「でしたね」

 隣からの声に同意して、タウは眼鏡を直した。そこに執務机からイオタが投げかける。

「貴様らふたりと言えば、クライスムートの一件くらいではないのか?」

「……関係、あるんですかね」

「それってこの前のあれ?」

 デルタに頷き、タウは手帳の記述を辿りながら返す。

「ところで、あの杖のことなんですが」

 言われた対象にはすぐ思い当たったらしい。デルタはああ、と声を零して対面に向き直った。

「直接見たので確かだとは思うんですが、あれはヴィアレスタの聖杖ですね」

「……聖女由来のやつ、だとは思うよ。名前までは覚えてなかったけど」

 頭を捻って出した、といった様子のデルタにゼータが顔をしかめた。

「あれが聖杖ってか。どっちかって言えば前の黒い奴らみてぇな感じしたぞ」

 どさ、とソファに勢いよく寄りかかったゼータは、ふと黙りこくったままの少女を見た。無言の視線に気がついたアルファは顔を上げると、不躾な表情の腐れ縁に噛みついた。

「なに」

「……いや」

 歯切れの悪さはお互い調子が狂っている証拠で、だからこそアルファはらしくもなく弱々しい声を聞かせた。

「……うちのせいなのかな」

「はぁ?」

 通常ならすぐさま反駁される相槌にも反応はない。

「ひとりぼっちにしないって言ったのに。約束守れなかったから、姫さまは姫さまじゃなくなっちゃった、のかな」

 小さな手のひらに、大剣をも軽々と振り回す力が加減なく込められて握り締められていた。自然と静まり返っていた室内に、溜め息がひとつだけ響く。

「知るか」

 短く吐き捨てられた台詞に対面の肩が震えて、ゼータは再びはっきりと言葉にする。

「俺も誰も知るわけねーだろそんなの。お前がそれを質問出来んのも、お前が謝りたいのもここにいる奴じゃないんだよ」

「…………」

 隣で雫が零れるのをデルタは見た。

「お得意のうるっせえ声で直接言ってやりゃいいだろうが」

「……しつれー、な」

 歪んだ視界に斜め前からハンカチが差し出されて、受け取ったアルファは涙声の零れる口にそれを押しつけた。

「焚きつけたからには責任取ってくれるんだよね?」

 大袈裟なほどに戯けて肩を竦めた少年騎士に、応えたのは眼鏡の神官だった。

「他人事じゃない、と言ったでしょう。……いえ、もう当事者なんですよ」

 苦笑した顔を真剣なものに戻し、タウは手帳のページをめくる。

「元々ヴィアレスタ様のことについて調べるつもりではあったんです」

 視線を動かした先にいたガンマが頷いた。

「……確かに」

 巨躯の護衛官が机の上に置いたのは、資料室から持ってこられた一冊の本だ。厚いそれをタウは手元に引き寄せながら話し続ける。

「生来の銀糸が失われた、という記録を見た覚えはありません。おそらく過去起きたとしても、今回のように憚られて残されなかったのではと考えました。ですから」

 寓話集の目次、広く親しまれる『聖人記』という題目を指で押さえて、顔を上げたタウは示した。

「銀糸を失った最古の人物の記録から当たろうと思ったんです。……この失った、という記述はユプシロン姫のそれとは異なる、初めて生まれつきの銀糸を持たなかった王族のこと」

「すなわち、聖女ヴィアレスタ」

 言葉を継いで、イオタは頬杖をつく。

「手がかりというには随分希薄だが、期せずして当人の手には由縁の杖というわけか」

「はい」

 言葉を切らして眼鏡を押さえた手の下で、ふと表情を陰らせたのは隣の人物だけが気づけるものだった。

「……現状、ユプシロン様に起きている異常に聖杖が関係している可能性は高い、と思います。ただ、……それを解決しても当初の問題がどうにかなる、とは……」

「でも」

 ハンカチを握り締めて、充血した目を瞬いて、

「ほっとけないもん、何かしたい」

「そうだね、これ以上姫の姿で神殿にケンカ売られても困るし」

 きっぱり言い切った少女の隣から送られた目配せに、イオタが顔をしかめた。

「……他の神殿には姫君を騙った不届き者とでも言っておく」

「さっすがイオタさん、話が早い」

 デルタがウィンクをひとつ飛ばす。呆れた顔のゼータが髪を掻き、隣を見やった。

「言ったからにはお前が仕切れよ」

「任せてください」

 嬉しげな顔でひとつ咳払いをし、タウは寓話集の別のページを開いた。

「手がかりの目星は付いています」

 指し示されたのはこの地方由来の寓話。

 “銀の笛の悪魔”だった。


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