#2-5

***



 数奇な運命だと思う。異世界で奴隷として買われて、これからその役目を果たしに行くのだ。元の体よりもずいぶんと幼い体で。


 怖くないと言えば嘘になるが、不安は口にすると調子に乗ることを少女は知っていた。だから毅然とした態度で、男の前に立つ。


 「来たわ」


 さもありがちな天蓋付きのベッドで王子バルディエスは腰に布だけを巻いて寝ころんでいた。そばには女中が二人。一人は大きな扇で風を送り、もう一人は膝をつき、水差しを乗せたトレー手にしている。想像に難くない王子の暮らしそのものだった。


 ―ベッドの支柱も、テーブルの脚にもバルボスレッグ*が。ゴシックかと思ったけどエリザベス様式に近いのね。


*バルボスレッグ…16世紀ごろイギリスで流行した家具に彫られた装飾。


 少女は部屋の中の家具の装飾を一通り眺めてから思った。どうもこの世界には謎が多い。


 「遅いぞ」


 バルディエスはベッドから飛び起きるとゆっくり少女に向かって歩いてきた。馬に乗っているときにはわからなかったが、バルディエスは意外と背が高い。それに目に付く左わき腹辺りにある橙の王家の紋章がやけに威圧的に感じた。


 「遅いって、あなたが先に行ったんでしょう」


 少女がバルディエスを見上げてそう言うと女中の扇を持っていた女中が「ヒッ」と声を上げた。いらついたようにその声に振り返ったバルディエスは顎で出ていくように女中に言う。軽く頭を下げて扇を持ったまま逃げるように部屋を出ていく。もう一人の女中が恐る恐る尋ねた。


 「バルディエス様、私はいかがいたしましょう」


 バルディエスはその女中のところまでズカズカと歩いていくと、足でその女中が持つトレーをひっくり返した。落ちた銀の水差しから、大理石の床に水が流れる。女中はそのトレーを拾い上げることもせずに部屋を出ていった。


 「おい、奴隷。片付けろ」


 少女はバルディエスに言われて床にこぼれた水を片付けようとしたが、道具がない。仕方がないのでテーブルに敷いてあったテーブルクロスを剥がして床の水を吸わせた。白い布に金の糸で刺繍がしてあった綺麗な布だったが、床を拭いたせいですぐに黒くくすんでしまった。少女は叱られるかと思ったが、バルディエスは何も言わずに少女が膝をついて床を拭くのを見ていた。


 「片付いたか」とバルディエスに聞かれたので少女は「ええ」とだけ返事をする。二人っきりの室内、急に静まり返るとお互いの緊張が伝わった。何かのきっかけで一気に加速して、もう少女には止められなくなるだろう。なんだか急に体が寒いような気がしてくる。バルディエスはただ少女を見つめたままだった。


 「夜はつけないのね、コッドピース」


 少女はバルディエスの股間を指さして言った。おそらく下着はつけていないだろう。そんなことは少女にはわかっていたが、どうせそうなる運命なのだから自分で火をつけて早く終わらせてしまおうと思った。だからわざと煽るように言った。


 「あんなものは今はいらんのだ。そうやって生意気な口をいつまで聞いていられるか、今夜は男の怖さを存分に味わうがいい」


 バルディエスが一歩近づくと少女は一歩足を後ろに引く。すぐ後ろには十分な広さのベッドがあった。何とか方向を変えたいが、その一瞬の隙が見当たらない。


 「お前は俺が買った奴隷だ。俺はお前を好きにできる」


 バルディエスがにじり寄る度に少女の心臓は破裂しそうなほど高鳴っている。興奮ではなく、恐怖が全身に走るため自然と体を退いてしまうのだ。


 「お前は運がいいぞ、初めてが俺なのだ」

 「いやっ…」


 バルディエスに押し倒され少女の視界には天蓋越しに継ぎ目なく白い天井が広がって、ぎゅっと目を閉じた。体は強張り手足はピンと張っている。そしてすぐ近くで男の息の音が聞こえた。その時、部屋の外から甲高い声が聞こえた。その声はどんどんと近づいてきて、一瞬静かになると、次の瞬間には勢いよく部屋の両扉が開いた。


 「バルディエスさまァー!」


 初めてその女性を目にした時、少女は彼女のことを隕石のような人だと思った。大気圏に突入するとその温度と勢いを増し、地表へと激突する。そして、地上にあった辺り一面のものを吹き飛ばすのだ。


 「ラ、ラナ…」


 少女に覆いかぶさったままのバルディエスがばつが悪そうに女性の名前を呼んだ。鮮やかなグリーンのドレスに煌めく宝石を身につけたその女性、ラナは王子と奴隷の、いざ情交を結ばんとする現場を目の当たりにし、しばしの硬直を見せている。ラナに続いて、老年の男性が「失礼いたします」と頭を下げてから入室し、扉をきちんと閉めた。


 二つのこぶしが震えるのがバルディエス越しに見えた少女は、するりと彼の腕の間に体を通して脱出する。ベッドから少し離れたところに移動してなるべく二人の視線から外れようとした。


 「バ、バ、バルディエス様!これはどういうことなのですか!?」


 怒りを爆発させたラナはバルディエスにカツンかツンとヒールを鳴らしながら近づいていく。耳に下がるドレスと同じ色の宝石が揺れる。エメラルドだろうか。


 「ラナ、お前がどうしてここにおるのだ!今朝方父親に呼ばれたというお前を俺が送り届けたのだぞ!」

 「私は片時もバルディエス様と離れるのが嫌で、こうして急いで戻ってきたのではありませんか!なのに!なのに!バルディエス様は私が留守にした途端に娘をこのようにお部屋に連れ込んで、いったいどういうおつもりなのです!?」


 端に移動していた少女を持っていた扇で指し示すラナ。弁解をしようにもラナの言っていることは事実なのだから、現場を見られたことを考えてもフォローのしようがない、と少女は思った。肝心のバルディエスは目を右へ左へと泳がせていて、使い物になりそうにない。


 「バルディエス様!何かおっしゃってください!」

 「それはだな、ラナ…」


 どうやら二人は恋仲のようだ。


 「おいそこのお前!手を前に差し出せ!」

 「手?」

 「早くしろ!こうだ!こう!」


 後ろ手を組んでいた立っていた少女は両手を言われたとおりに前に出した。その手には奴隷の印である黒い腕輪が嵌めてある。


 「見ろ、ラナ。こいつは奴隷なのだ。奴隷でありまだ子ども。俺がどうこうしようなどと思うわけないではないか!」


 必死の弁解も見られた現場が現場なだけ苦しい言い訳にしか聞こえない。


 ―この世界はモノガミー**なのかしら。それともこの女性が嫉妬深いだけか…。


**モノガミー…一夫一婦制。単婚。


 少女がそんなことを考えているとラナは大げさに驚いて後ろにおののいて見せる。


 「奴隷!奴隷ですって!?そんな、バルディエス様、奴隷などとそのようなことを―」


 言葉も途中で倒れそうになるラナを老年の男性が後ろから支える。慣れた連携のように見えた。全身の力を抜いたラナは「バルディエス様、バルディエス様」と名を繰り返し呟く。後ろで支える男性は「お嬢様、お気をしっかり」と励ましている。


 「そうだわ」


 パシンと扇を一つ叩いてラナは少女の方へ向き直した。


 「この奴隷がいるからいけないのよ。こんな奴隷は殺してしまいましょう」


 少女を見るラナの目は、まるで置物でも見ているように感情の感じられないものだった。


 「そうよ、それがいいわ!バルディエス様をたぶらかすこんな奴隷がいるからいけないのよ」


 扇をばっと開いて自分を扇ぐラナ。彼女にはきっと自分が家畜か何かのように見えているのだろうと少女は思った。この場合、命乞いをしたところで、この女性の心は動かせないだろう、と少女は思った。何とかしてこの部屋を逃げ出さなければいけない。少女は閉まる二枚扉を見つめて、タイミングをはかる。


 「ま、待ってくれラナ、誤解だ。こんな奴隷と何かあるわけないだろう。それにこの奴隷はたまたま今日、成り行きで商人から買ったばかりなんだ」


 「あら、バルディエス様、それではまた新しいのを変えばよろしいではありませんか。何なら私がバルディエス様に合うもっといい奴隷を選んで差し上げますわ」


 ラナは「さあ、ザリル」と老年の男性に声をかけると、華麗なポーズを取りながら自分を扇いでいた。風に美しく靡く髪と宝石のついたイヤリング。その冷たい艶は彼女の心を表しているようだった。


 「お嬢様」


 老年の男性ザリルが言った。


 「お嬢様は先週、奴隷を20人も廃棄なさったために、旦那様にしばらく如何なる奴隷であれ殺してはいけないと申し付けられておられたかと思われますが」


 ラナはばつが悪そうな表情を浮かべると「この奴隷だけよ」と言った。


 「旦那様からのお申し付けです。ここはご辛抱くださいませ」


 ラナはその場で「うー!」と地団駄を踏むと「そこの奴隷!」と少女に向かって指を立てた。


 「いつまでも何をしてるの!早く出ておいきなさいよ!」


 少女は口を開かずに3人の隣をすり抜け、ドアへを一目散に駆け出した。部屋を出るときバルディエスと一瞬目があったが、すぐに彼は目を逸らしてしまう。音がしないように扉を閉めると、静まり返った廊下に少女一人だった。すぐに部屋の中からラナの甲高い声が聞こえてくるが、内容はわからない。ただ叫ぶように話している声がドアを隔てた向こうから漏れ聞こえてくる。


 「ふぅっ」と小さく息を吐いてから少女は廊下の端を歩き出す。部屋にいたのはわずか30分ほどだったと思う。しかし、自身に降りかかった危険が30分では足りないものだったように感じた。


 ーこれが奴隷なのね。


 来た道を戻っていく少女は、行きよりも帰りの方がずっと疲れていた。それは今日1日の旅の疲れも一気に押し寄せて来たのだと思った。ふらつく足元でゆっくりと歩いていく。


 少女は誰もいないことをいいことに絨毯の上、廊下の真ん中を歩いてみた。柔らかい絨毯の感触が疲弊した足の裏を包むようで心地よかった。


 ーいい絨毯ね。


 少女は城の中を歩いて回ると、あまり美しいとは言えない古びた扉が少しだけ歩いているのが見えた。そっと中に入ってみると、そこには掃除道具や古びたテーブルなどが積んであり、物置だということがわかった。その埃っぽい部屋には高い位置に設置してある窓からの月明かりだけが差し込んでいる。少女はテーブルクロスの埃を叩いてから、そこを寝床に横になる。どうもあの地下の奴隷部屋へと帰る気にはなれず、その部屋で夜を明かすことにした。


 窓から覗く月に見守られながら目を閉じる。この世界には月も太陽もある。つまり地球か、もしくは同じような環境を持つ別の惑星かもしれない。少女は眠りに落ちる中で、明日の暮らしについて考えた。先ほどのラナのように、自分は何かあれば、すぐに殺されてしまうだろう。


  ーつまり、奴隷として暮らしていくのは、思ったよりも大変なのね。


 夜が満ちて朝日を待つ。



第3話へつづく。

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