第32話  教師

 フィンがこのケーマス子爵家の邸に来てから半月ほどが経ったが、ここの生活は決して穏やかなものではない。

 昼夜問わずレッスン尽くめの毎日で、勉強に次ぐ勉強の日々。食事中もテーブルマナーの時間として、カトラリーの上げ下ろしから食べ方飲み方、会話の繋げ方まで、それはそれは厳しく叩き込まれる。

 フィンがほんの少し息を吐けるのは、トイレの中とベッドの中だけ。入浴中は初日以降もずっとナタリアがついてくるので、フィンは洗われる仔猫のようにされるがままになるほかないのだ。

 とにかく気が休まらない。いつでもどこでも監視され続け、注意を受け続け、フィンの精神はぼろぼろに疲弊しきっている。

 辛く苦しい日常。しかもつけられた家庭教師がこの世で一番苦手で恐れている人物であるために尚更だ。


「フィン! なんですかその姿勢は!」

「っ!」


 キツい叱責と同時にピシリと音がして、背中に衝撃が走る。びりびりと痺れるような痛みに思わず顔を顰めると、今度は淑女にあるまじき表情だと言って顎をギリリと掴まれた。


「相変わらず飲み込みが悪いですね。本当になんて不出来な子供なのでしょう」


 短鞭を手のひらでぴしぴしと弄びながら、間近から見下ろしてくる侮蔑を孕んだサファイア色の眼差しは、孤児院で何年も浴びせられていたもの。常に彼女は言葉と視線でフィンの頭を抑え込み、体に苦痛を与えることで心を削いできたのだから。

 甦る痛みの記憶に恐怖するフィンの顎に、長めに整えられた爪の先が食い込み、薄皮を破って血が滲む。


「その歪んだ顔。なんて醜いのかしら。それに枯れ枝のような貧相な体つきもみすぼらしい灰色の髪も本当にみっともない。その上いくら教えても何一つ満足に覚えられない粗末な頭だなんて…。あなたには生きている資格がありませんね」


 心を殺す言葉が次々にフィンの耳に流し込まれる。彼女が孤児院に赴任してきてからずっと聞かされていた、体の内側から腐っていくような感覚に陥る毒の言葉の数々を。

 血の気を失いカタカタと震えながら涙を流すフィンに満足したのか、彼女はこれまで見たこともない優しい微笑みを浮かべ、そっと耳元で囁いた。


「なぜあなたは生まれてきてしまったのかしら? 誰からも必要とされていないのに。誰にも愛されないのに。ねえ?」


 息がかかるほどの距離で見上げるアマンダの双眸は愉悦に歪んでいる。しかし楽し気なその目の奥に潜む仄暗い闇を見取り、フィンは目の前が絶望に塗り潰されてゆくのを感じた。



 *



 アマンダとの望まぬ再会は、フィンが彼の邸に来た翌週半ばの昼下がりに訪れた。


「フィン。君の養子先が決まった」

「え…?」


 サロンで寛ぐジョージ…いや、この屋敷に来た次の日に、その名前は愛称のようなものだから呼ばないようにと注意され、本当の名を教えられた。

 ジョージ改め”ジョルジュ・ケーマス”に呼ばれたフィンは、習い始めたばかりの所作を観察されつつ、恐る恐る出されたカップに口を付けようとした瞬間、予期せぬセリフを聞かされた。

 てっきりジョルジュの家の養女になったとばかり思っていたフィンは、意味が解らず目を丸くして彼を凝視した。


「先方は名家というほどではないものの、一応伯爵位を持つ家だ。それに伴う教養やマナーが必要となるので、今日から教師をつけることにした。トーマス、彼女を呼んできてくれ」

「畏まりました」


 彼の後ろに控えていたトーマスが、恭しく礼をして部屋を出て行くのを目で追っていたフィンに、ジョルジュは手本のような上品なしぐさでお茶を飲みながら話を続ける。


「君の家庭教師となる彼女は昔、王太子の婚約者候補でもあったから、勉学も礼儀もすべて完璧に身についている。君も知っている人物だから気心が知れてていいだろうし、そもそも彼女が自ら立候補している」


 聞いた覚えのある経歴に、どくりと嫌な予感が胸を占める。カップを持った手が震え、無作法にもカチャカチャと耳障りな音を立ててしまった。


(大丈夫。きっと違う人よ。だってあの人は修道院から赴任してきたんだもの)


 孤児院をやめたとしても、修道院へ戻るだけ。フィンを追ってここへ来るはずはないと、必死に自分に言い聞かせる。

 しかし現実は非道なもので、トーマスが連れてきた家庭教師は、修道服こそ着ていなかったものの、まぎれもなくシスター・アマンダその人だった。


「ごきげんよう、ジョルジュ様。お呼びと伺いましたわ」

「ああ。フィンにあなたを紹介しようと思いましてね。さあお座りください」


 流れるような所作で挨拶をした貴婦人は、落ち着いた深緑色の襟の詰まったドレスに身を包み、以前はウィンプルで隠してあった艶やかな黒髪を、今は高い位置で結い上げ纏めている。

 愕然とした表情で固まるフィンを楽し気に一瞥したアマンダは、トーマスの引いた椅子に優雅な物腰で腰を下ろした。


「ジョルジュ様、わたくしの我儘を聞いてくださり、ありがとうございます」


 メイドがお茶を淹れる横で、アマンダはジョルジュにお礼を言って頭を下げる。


「あなたのたっての頼みですからね。無下には出来ません。それにこちらとしてもありがたい申し出でしたから」


 親し気に話すアマンダを注視してしまっていると、視線に気が付いた…否、わかっていて無視していたアマンダが、突然フィンに話し掛けてきた。


「フィン、驚く気持ちはわかりますが、そんなに不躾に見詰めるものではありません」

「…ど、して?」


 緊張でぎゅっと窄まった喉から、どうにか声を絞り出して問い掛ける。掠れて聞き辛いその質問に、アマンダは予め答えを用意していたようにスラリと返答した。


「”どうして?”ですって。ふふふ、決まっているでしょう。あなたがいるからよ」

「わたし…?」


 当たり前だと言わんばかりに告げるアマンダに反し、フィンには意味が解らない。確かに執拗にいびられてはいたけれど、孤児院を出、修道院を退所してまでフィンを追ってくる彼女の執着心が理解できなかった。

 青白い顔で困惑するフィンの様子に、アマンダはにやりと口角を吊り上げる。


「わたくしの人生を変えたのだもの。わたくしもあなたの人生を変えてあげるわ。―――ぐちゃぐちゃにね」





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