第31話  貴族の邸

 ジョージに引き取られ、彼と共に馬車に揺られること丸二日。日暮れの刻限に漸く到着した場所は、フィンがこれまで見たこともないほど大きなお邸の前だった。

 お尻の痛みも忘れ、ポカンと目と口を開いたままジョージに促されて馬車を降りると、目の前の明かりが灯された玄関先には、パリッとした黒い服を纏った年配で細身の男性と、足首丈の紺色のワンピースにシンプルな白いエプロンという同じ服装をした女性たちが並び、頭を下げて二人を出迎えた。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「やあトーマス。私の留守中、変わったことはなかったかい?」

「はい。すべてにおいて滞りなく。それとお部屋の準備もできております」


 トーマスという名の男性の報告に満足そうな顔で頷いたジョージは、彼の後ろで未だ頭を下げたままの中年の女性に声を掛けた。


「ナタリア、また面倒を掛けるけどよろしく。さあフィン、行くよ」


 フィンは何が何だかわからないままとりあえず彼らにペコリと頭を下げたが、相手の反応を見る前に急かされ背を押されて邸へと入った。


「すごい…」


 邸内はもの凄く広かった。粗末な古い靴の底に感じるのは、ふかりとした絨毯の感触。蔓草をモチーフにしたような柄が描かれたそれが、孤児院で一番広い食堂三つ分くらいの広々としたロビー一面に敷き詰められている。

 しかも首が痛くなりそうなほど高い天井からはキラキラと複雑に光を反射する照明器具がぶら下がっていて、眩しいくらいに辺りを照らしているのだ。

 壁に掛けられている絵も、花が生けられた大きな花瓶も、おっとりと優しく微笑む綺麗な女性の彫像も、すべて初めて見るものばかり。

 あまりにも孤児院とは別世界過ぎて、フィンは怖いと感じた。


「君の部屋は二階の西側だ。まあせいぜい三月ほどだと思うが、あまり騒がしくしないこと。授業やレッスンは明日から。食事の時間はマナーの練習を兼ねる。外に出るのは禁止。庭は…私かトーマスに許可をること。―――おい、聞いているのか?」


 つらつらと一方的に説明をしながら先を歩くジョージの後ろを、身の置き場がなく、青白い顔色でカバンを抱えてついて行くフィン。返事をする余裕もないビクビクと怯える少女を、ジョージは機嫌の悪さを隠すことなく、不遜な態度で見下ろした。


「聞かれたら返事をしろ。これだから孤児院育ちは。…ったく、どうしてアマンダはこんな子供に執着するのか」


 大仰に吐き出された溜息に、フィンはビクッと肩を竦める。

 孤児院で接した時とは違い、フィンを手に入れたジョージは愛想笑いを取り払った。口調は上から押さえつけるようなものになり、馬車の中では最低限の会話しかせず、今も侮蔑を込めた目でフィンを見下している。

 おろおろするばかりのフィンに業を煮やしたのか、骨と皮ばかりの細い二の腕を鷲掴みにされ、引き摺られるように与えられた部屋へと向かった。


「さあ、入れ」


 ジョージが言った通り部屋は二階西側の角だった。すでに照明が点けられていて明るい室内は驚愕するほどに広く、内装は優美でお洒落な家具で設えられ、絨毯やカーテンは女性用らしい落ち着いた深紅色で揃えられている。

 恐々部屋に足を踏み入れ、室内をきょろきょろと見回していると、背後でジョージがナタリアに指示を出しているのが聞こえた。


「とりあえず夕飯前に風呂に入れて身綺麗にしてくれ」

「畏まりました」


 ナタリアが深く頭を下げて承ると、ジョージはフィンに声を掛けることなくさっさと退室していった。


「……」


 置いていかれた途端に心細さがぶり返してきた。


(帰りたい…)


 孤児院は唯一不出来な自分がいてもいい場所で、唯一帰りたいと思う”家”だった。決して居心地は良いとは言えないけれど、それなりに楽しかった思い出もある。

 郷愁にかられてしょんぼりと肩を落としていると、いつの間にかすぐそばにナタリアと呼ばれていた三十代半ばぐらいのメイドが立っており、冷めた目でフィンを見ていた。


「ではお嬢様・・・。旦那様の言いつけですので、食事の前に入浴いたしましょう」

 感情を感じられない平坦な物言いで脱衣室に案内されたフィンは、問答無用に着ているものを脱がされ、全裸で浴室に放り込まれた。


「あ、あの…」

「先に体を洗います。さあ椅子に腰かけてくださいませ」


 一緒に入ってきたナタリアによって全身を花の香りのする石鹸で満遍なく洗われ、ジューンに揃えてもらったとはいえ毛先がギザギザの短い灰色の髪は、少しぬるぬるとする液体を掛けられて揉み込まれ、何度も何度も湯で洗い流された。

 体や髪を洗い終えると、猫足の付いたバスタブに浸かり、額が汗ばむまで温まる。おかげでカサカサだった肌もぱさぱさだった髪もしっとりと潤い、柔らかくなった。


「こちらの下着をお召しください」


 風呂から出て濡れた体を拭われると、新品で肌触りの良い真っ白なシュミーズと膝丈のドロワーズを手渡された。

 さすがに下着の着用まで手伝われるのは恥ずかしかったので、しどろもどろになりつつも手助けを断って身につける。

 下着を着るとガウンを羽織り、鏡の前に座らされる。後ろからナタリアに髪の水気を丁寧に拭ってもらい、丁寧に丁寧に梳られ髪飾りでまとめられる。

 髪が整うと、今度は顔にケショウスイというものを塗られ、甘い匂いのするとろりとした乳白色の何かを、荒れの酷い箇所や鼻の付け根付近にうっすらと残るそばかすに擦り込まれた。

 それが終わると差し出されたのは長い靴下。膝小僧の上あたりで紐を結ぶようになっており、見られている緊張と戦いながらもたもたと穿く。

 その次は淡い紫色のシンプルなドレス。背中で紐を編み込むデザインのため、恐縮しながらナタリアの手を借りた。

 最後は花の刺繡が可愛らしい布の靴。遠慮気味に足を差し込むと、ナタリアが全身をチェックし、髪先の跳ねやドレスのシワなどを直して、やっと身だしなみが終わった。

 気疲れして空腹感などどこかへ行ってしまったフィン。しかしそんなことは関係ないとばかりに、ナタリアはフィンを急かしてダイニングへと向かった。

 慣れないドレスに四苦八苦しつつもナタリアとはぐれずに到着できたダイニング。けれどドアを開けた時にはもう既にジョージは食事を始めており、些か息の上がったフィンを、傾けたグラス越しに煩わしそうに睥睨した。





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