卒業式の歴史 ~限られた人の到達点から全員の感動へ~

 「卒業式=感動の涙」もちろん人それぞれであり、感動しないとおかしいという考えの押し付けは傲慢ですが、広くイメージが流布しています。

 実は、日本の学校教育が始まった当初の卒業式は感動とはあまり結びついていませんでした。今回は、卒業式が感動的な行事と位置付けられていく歴史を見ていきます。


1.卒業式のない時代

 明治時代に全員就学の学校制度が整備される以前、寺子屋や藩校などの教育機関はありましたが、子どもがいつ入るか・いつ出るかは特に決まっていませんでした。寺子屋では、おおむね7~9才頃に入学(登山"とうざん"や入門などとも言った)しますが、10才を超えて入学する人もいました。期間は1年未満で終える人も6~7年通う人もいたようです。

 この頃、卒業式はありませんでした。卒業式をするには、人々が一斉に入学して一斉に卒業するという制度が前提条件ですが、この制度自体が浸透していなかったのです。入学時期は初午(はつうま:立春後最初の午の日)または正月稽古始めが多かったようですが、指定日はありませんでした。

 また、そもそも義務教育ではないため、教育機関に通わない人も珍しくありませんでした。


2.小学校の卒業試験 

 1872年(明治5)に学制が出され、近代学校制度が始まります。当初の小学校は進級試験があり、半年ごとに行われる試験を合格することで次の「級」に進みます。下等第8級から始まり下等第1級で合格すると下等小学が終わり、上等小学も同じく第8級から第1級までありました。なお、試験の不合格者は1割未満と厳しい試験ではなかったようです。しかし、試験で不合格になり進級できない人よりも、学校に通い続けられず退学してしまう人の方が多い状態でした。そもそも学校というものが出来たばかりのため就学率を上げることが第一の課題でした。就学率は1884年地点でも50%程度であり、さらに在籍していても継続して通えていない子どもも3割以上いました。

 当時、卒業証書とは「下級小学第八級卒業候事(そうろうこと)」といったように各級の試験を合格した証明書のことを指し、学校全体を終えたことのみを示すものではありませんでした。証書の授与は試験を受けた当日に準備が整った級から行われました。合格に喜ぶ子どもがいれば落第に泣く子どももいる光景は、「集団が共に感動で涙する」現在の卒業式とは大きく異なるものでした。また、試験は半年に一度行われ、ほかに臨時試験もあったため、現在のように卒業=春という季節との結びつきもありませんでした。

 ただし現在と通じる点として、多くの子どもたちは着飾って試験に臨みました。成績優秀者は証書だけでなく商品も授与されるなど、子どもや保護者にとって晴れ舞台でした。「美服」がないために試験を受けない子どもまでおり、試験への過度な偏重は教育上問題とされるほどでした。


3.証書授与式典の独立 ~「卒業」の確立~

 第一次小学校令が出された1886年頃になると就学率の増加や試験科目の増加によって、試験当日ではなく別日に証書授与を行う必要が出てきました。これにより式典に向けた準備が可能になり、式典自体が大規模な行事となっていきました。式典では証書授与の他、科学実験や歌唱など子どもの学習成果披露もあり、就学奨励のため地域の人々に見せる役割や学校の力を対外的に誇示する役割もあったとされます。この時期の卒業式は盛り上がるイベントでした。

 また、85年の文部省通達により一等級の学修期間が半年から一年へ変更となり、現代と同じく「一年生」「二年生」という区切りになっていきました。これにより卒業が年1回となります。92年には文部省から全国的に学年は4月1日始まりにする通達があり、1900年小学校令施行規則において条文化されました。入学は4月で卒業は3月という現在と同じ設定となります。

 そして、全課程の修了のみを「卒業」、学年の修了を「修業」と区別するようになり、1891年の小学校教則大綱において全ての課程を完了した者に「卒業証書」を授与すること、各学年末に「修業証書」を任意に出してもよいことが記されました。卒業という言葉が現代と同じく学校の区切りを示すようになります。

 なお、1909年から1940年までは4月入学と別に9月入学の学年を置くことが可能で、ごく一部実施した学校も存在しました。しかし、必要な予算や業務の増加に対する懸念などから浸透しませんでした。


4.卒業式の定式化と「感動の場」化

 1891年の祝日大祭日儀式規定など学校儀式について様々な規定が出されるようになり、卒業式についても各自治体が形式を規定するようになりました。卒業式の娯楽要素はなくなっていき、1900年頃には卒業式が定式化します。式の雰囲気は厳粛になっていき、細かに決められた所作を規律正しく実施する卒業生の姿が評価されるようになります。

 また、記念写真や記念植樹など学校の記憶を形に留める活動も広まりました。学校という共同体の一員であること、そして卒業後もその学校の卒業生共同体の一員であることが大切にされるようになります。

 学校での様々な儀式は人格形成において重要とされました。卒業式は「愛情同情等の如き諸種のよき感情を養成」する場であり、感極まって涙することが理想的な姿とされました。学校の仲間のつながりが重要視され、在校生の送辞と卒業生の答辞が行われるようになります。もともと「答辞」は卒業生が校長などの祝辞に対する返礼として読んでいたものでしたが、次第に在校生の「送辞」に応えるものになっていきました。

 そして、感動の場を形成するのに重要とされたのが歌唱です。学校教育での「音楽」は1872年の学制当初は軽視されていましたが、79年に研究機関である音楽取調掛が設置、91年には祝日大祭日儀式規定に伴いそこでの唱歌について文部省訓令が出され、学校に歌唱が広まりました。歌唱が感情教育に有用と考えられていたことは、当時の教育法令にも見られます。


第二十四条 唱歌 初等科ニ於テハ容易キ歌曲ヲ用ヒテ五音以下ノ単音唱歌ヲ授ケ中等科及高等科ニ至テハ六音以上ノ単音唱歌ヨリ漸次複音及三重音唱歌ニ及フヘシ凡唱歌ヲ授クルニハ児童ノ胸膈ヲ開暢シテ其健康ヲ補益シ心情ヲ感動シテ其美徳ヲ涵養センコトヲ要ス

 出典:文部省『小学校教則綱領』1881年(太字は筆者)


 卒業式歌が次々と作られ、共同体として共に歌うことで卒業に関する観念や感情の規範性は補強されていきました。



5.戦後 「自発的」に創造する卒業式

 終戦後、様々な学校儀式が廃止され、入学式と卒業式が数少ない儀式となりました。卒業式は学校生活最大の節目として重視されるようになります。

  民主的な学級集団を目指す教育実践が盛んに展開される中、卒業式は権威に向けた形式的な儀式ではなく子どもたち自身が作りあげることが目指されるようになりました。1955年には、この頃教育研究に大きな影響をもっていた群馬県島小学校校長の斎藤喜博が「呼びかけ形式」の卒業式を行いました。ピアノ伴奏にのっての入場、子ども一人ひとりの思い出を語る台詞など現在各地の卒業式で見られる形式につながる実践が行われました。斎藤校長自身は62年には台詞形式をやめますが、映像や書籍で広められたこの実践は各地の卒業式に影響を与えたと考えられます。

 また、63年「高校三年生(舟木一夫)」などの卒業ソングや、79年開始の「3年B組金八先生」などテレビドラマで描かれる卒業式など、大衆娯楽を通して感動的な卒業式のイメージはさらに強化されていきました。


 こうした流れを経て、卒業式は学校の一大行事となり、卒業式=感動というイメージが広く定着することになりました。しかし、個人としてそのイメージに無理に合わせる必要はありません。

 100年前は感動する心情を育成すべきだという露骨な論調も多数ありましたが、現代は感情を強制するような文言は少なくとも学習指導要領などにはありません。ただ、名残はあるように思います。

 感動するもしないもそれぞれが意味づけして、感謝を伝えたい人に伝える日であればいいかなと思います。


(本文おわり。参考文献は以下URLに記載)

https://note.com/gakumarui/n/nf6c4a46c8c60

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