5.文化祭の歴史(3) 大正時代~戦後 演劇中心の学芸会

 前回は、明治時代の学校では、普段の学習成果を披露する場として「学芸会」という文化的行事が広まっていった、しかしそれは学習を発表する地味なものであったことを述べました。今回は、文化的行事が派手なイベントになっていく歴史を紹介します。


 大正時代(1912-26年)は「新教育運動」や「自由教育運動」と呼ばれる、教師中心の画一的な詰め込み教育を批判し、子ども中心の教育を目指した実践が流行しました 。

 学芸会も様々な活動が行われるようになります。例えば「活人画」、これは衣装を着た演者が歴史的場面など一場面を切り取ってポーズをとる、いわば演劇の止まっているバージョンです 。また、「唱歌劇」も行われるようになります。演劇が大正時代に流行した新しい芸術なのに対し、音楽は明治期の学校教育でも行われていました 。新しいものを取り入れる際、まずは今までのもので意義づけて徐々に取り入れたのです。

 そして、大正8年(1918年)に「学校劇」と名付けられ、演劇が中心として行われる学芸会が広まっていきます 。次第に規模も大きくなり、保護者の来客も増え、2日3日にわたって開催する学校も出てきます。

 しかし、大規模になり過ぎたことで、まるで興業・見世物のようになっている、教育本来の目的が失われているという批判も出てきます 。大正13年(1924年)には文部大臣の訓示で、学校劇に対する注意喚起がなされる ほどでした。

 昭和に入り、演劇を行う学芸会は運動会と並ぶ学校そして地域の大行事として地位を獲得します 。第二次大戦下では、国威発揚に資する時局に適応した演目が推奨されました。大戦末期には戦争の激化に伴いあまり行われなくなりますが、学童集団疎開先でも学校劇上演が行われることもありました 。それほどまでに学校に欠かせないものとして広まっていたと言えるでしょう。


 戦後すぐは学習指導要領において、演劇が国語科に位置づけられていました。しかし、昭和43年(1968年)の学習指導要領から国語科での「演劇」も文言が消えました。練習時間の確保が難しくなり、学芸会での演劇を取りやめるところも増えていきました 。

 また、戦後から中学・高校では「文化祭」という名称が使われるようになり、「学芸会」は小学校の行事となっていきます。現代の小学校でも、かつてほど演劇ばかりではなく学芸会・音楽会など名称や内容は様々ですが、そうした文化的行事を8割以上の学校が行っています(ベネッセ調査2010)。

 なぜ、戦後の中学・高校では学芸会ではなく文化祭を行うようになったいったのか、次回に続きます。


(第6章につづく)


【参考文献】

◆佐々木正昭「学校劇についての考察」『教育学論究』4、p.17-25、2012年

◆南元子「児童劇・学校劇における岡田文部大臣の訓示・通牒の意味とその影響:所謂「学校劇禁止令」(1924) について」『子ども社会研究』12、p.70-84、2006年

◆鈴木和正「近代教育制度と大正新教育運動 ―教育学における諸概念の検討を中心に―」『教育研究実践報告誌』1(1)、p.33-42、2017年

◆佐々木正昭「学芸会についての考察 ―学校における演劇教育の意義とあり方―」『甲子園大学紀要』44、p.23-39、2017年

◆ベネッセ教育総合研究所『第5回学習指導基本調査(小学校・中学校版)』2010年:https://berd.benesse.jp/shotouchutou/research/detail1.php?id=3243

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