4.文化祭の歴史(2) 江戸~明治時代 席書から学芸会へ

4.文化祭の歴史(2) 江戸~明治時代 席書から学芸会へ


 前章は「イベント」「お祭り」としての学校行事の始まりが運動会であることを述べました。今回は「文化的行事」の歴史を見ていきます。


 文化的行事は、日頃の勉強の様子や成果を見てもらうことから始まりました。江戸時代の寺子屋や手習塾では祭り的な行事があったことは前回述べましたが、学習の成果を披露する行事もありました。例えば、席書(せきがき)という子どもの書道の成果を多くの人に見てもらう行事があり、子どもたちは晴れ着で参加しました。子どもたちの立派な学ぶ姿を見せることは、子どもに晴れ舞台を用意して意欲を高めるというだけでなく、寺子屋や塾の宣伝も兼ねていたとされます。


 明治になり学校制度ができると、児童の作文・習字・図画などを展示する「教育展覧会」が席書を踏襲する形で開かれるようになります 。さらに、明治10年代になると、教育展覧会において、各地で理科の実験会が開かれるようになります。明治時代になり西洋の近代科学が盛んに導入されるようになったため 、学校で習う理科の内容は子どもだけでなく一般の大人も知りませんでした。そこで、一般の人々がそれまで知らなかった化学の実験を披露することが、新しくできた学校教育というものの意義を人々に納得させる効果的な手段になりました 。


 また、各小学校の代表が試験で競い合う「比較試験」という行事が行われました 。各地域で名称は「学業競技会」「奨励試業界」「集合試験」など様々でしたが、各学校の名誉をかけた一大行事であったようです。しかし、過度な競争が児童の心身に悪影響を及ぼすなどの理由で、こうした試験を行う行事は廃止されていきます 。また、初期の学校は小学校から卒業試験が存在しましたが、明治33年(1900年)の小学校令改正により廃止されました。

 明治30年代、こうした競争的な試験行事に変わり、学習の様子・成果を発表する行事が「学芸練習会」「学業練習会」などの名称で行われるようになり 、明治40年頃から「学芸会」という名称で広まり始めます 。行われたのは唱歌・図画・朗読といった今でも発表がイメージしやすいものから、国語・算術・歴史・英語・理科実験など通常の教科学習まで様々なことでした。

 文化祭のようにそれに向けて特別なことをするわけではなく、普段の学習の延長線上に「学芸会」という行事があったのです。まだこの頃の文化的行事は、運動会のように地域が盛り上がる花形行事ではなく、比較的地味なものでした。

 ところが大正時代になると、「学芸会」という行事が普段しない特別なことをする場となっていきます。そして、戦後に学校のイベントと言えば運動会と文化祭とイメージされるほどになっていきます。次回に続きます。


(第5章へつづく)


【参考文献】

◆菱田隆昭「近世寺子屋教育にみる学習意欲の喚起」『日本学習社会学会年報』9、p.7-11、2013年

◆佐々木正昭「学校の祝祭についての考察:学芸会の成立」『人文論究』57(1)、p.52-70、2007年

◆宮川秀一「明治前期における小学校の試験」『大手前女子大学論集』20、p.223-246、1986年

◆文部省編『学制百年史』帝国地方行政学会、1984年


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