3.文化祭の歴史(1) ―運動会から始まった学校行事―

 文化祭という名称が定着するのは第二次大戦後とされます。それまでそういった学校行事はなかったのです。そこに至るまでの学校文化は、明治期、学校制度の成立当初から作られ始めます。

 そもそも日本の義務教育は明治時代から始まり、それ以前は全員が通う教育機関はありませんでした。ただ、明治の学校制度ができる以前、一部の人が通っていた江戸時代の「寺子屋」や「手習塾」は学校の“もと”になりました。

 寺子屋や手習塾では、地域の祭りへの参加や神様の肖像を掲げてまつる行事(例えば、学問の神様として著名な菅原道真をまつる「天神講」)が行われていました。つまり、教育機関が祭りや儀式をするという文化は古くからあったということです。

 明治時代に学校制度が作られて小学校が整備される際、全部0から学校を作り先生を集めるのは大変です。そのため、寺子屋や手習塾の建物や先生をそのまま使った学校が多数ありました。公的な決まりはない私塾だった寺子屋や手習塾と違い、学校では学ぶ内容の決まりが作られましたが、文化は引き継がれていくことになります。


 明治5年(1872年)の学制という法律からはじまった公的な学校制度ですが、最初に定着した学校行事は運動会でした。早くも1880年代には小学校で広く行われるようになりました。当初、学校には運動場や校庭というものがなく、運動会は近隣の河原や神社の境内などで行われ、その移動も含めた「遠足」のような行事でした。

 初代文部大臣の森有礼は、国民としての集団訓練や体力向上を目的として、小中学校における運動会を奨励しました。1890 年、第三次小学校令という法律で、校庭や運動場が各学校に整備されます。ただ、大臣の意図とは別の側面として、運動会は学校で行われる“地域の祭り”として盛り上がるようになっていきます。運動会を発端に、学校が子どもだけでなく地域のコミュニティを形成する場として機能するようになります。学校における“イベント”“お祭り”の始まりは運動会だったのです。


 現在の文化祭も校内の生徒だけでなく、様々な人を呼び込んで開催する学校が多いですが、そのように地域の人を学校に呼ぶイベントは運動会から始まりました。

 では、運動ではなく「文化的行事」のイベントを開くようになったのはいつなのか。次回に続きます。


(第4章へつづく)



【参考文献】

◆添田晴雄「江戸時代の『寺子屋』教育」『上方文化講座 菅原伝授手習鑑』、p.125-159、大阪市立大学文学研究科、2009年

◆小野雅章「小学校令施行規則 (1900 年 8 月) による学校儀式定式化の諸相」『教育學雑誌』45、p.25-43、2010年

◆今泉隆裕「祭礼としての運動会:運動会の宗教学序説」『桐蔭論叢』36、p.127-138、2017年

◆天野正輝「明治期における徳育重視策の下での評価の特徴」『龍谷大学論集』471、p.86-105、2008年

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