幕間ー泉の聖杯

 深い森があった。高い木立が枝を広げ、鮮やかな緑の葉を茂らせている。木漏れ日が大地に落ちて森の中を照らしていた。清らかな水が湧き出していた。いつしかそこは泉となり、長旅に疲れた旅人の喉を潤した。


 泉に水飲み場が造られた。白い大理石で、植物をデザインした緻密な彫刻が施された見事なものだった。近くの村人たちも泉に集まり、清らかな水の恩恵を受けた。ある日、水を飲むための杯が用意された。龍の紋章が刻まれた輝く金の杯だ。目映い黄金のその杯を盗もうとするものは誰一人居なかった。


 旅人が泉を見つけ、手酌で水を飲んでいた。側にいた村人の手にした金の杯を見て驚いた。

「何故こんな人気のない森の中にある金の杯が盗まれないのか?」

 旅人は尋ねた。

「これはワラキアの王ヴラド様が用意した杯です。盗むものはいません」

「しかし…」


 その杯を売れば一生遊んで暮らせる金になるだろう。

「この杯を盗んだものは手首を斬り落とされ、串刺しにされるでしょう。その者の村は焼かれ、村人は全員殺されます」

 ワラキア王の罰が恐ろしくて、誰もそのような不埒な真似をしないのだと旅人は理解した。ワラキアの治安は恐怖により守られているのだ。金色の龍の紋章の聖杯は、木漏れ日を受けて光り輝いていた。


 それから月日が経ち、度重なる戦乱で泉は破壊された。森に迷い込んだ一人のトルコ兵が木の根本に光るものを見つけた。近づけば、苔むした大理石の側の木の根に絡みとられた金色の杯だった。

 トルコ兵は狂喜した。これを売り飛ばせば戦わず遊んで暮らせる。厳しい戒律のある隊に戻る必要もない。トルコ兵は周りに誰もいないことを確認した。剣で木の根を切り裂き、杯を取り出した。泥を落とせば、見事な龍の紋章が刻まれた杯だった。


 杯を手に、駆け出したその瞬間、大地から突き出た無数の杭が身体を貫いた。一瞬のことで、痛みさえ感じないのは彼の最後の幸運だった。口から大量の血を吐き、トルコ兵は絶命した。手から零れ落ちた杯はころころと転がって木の根本にぶつかって止まった。


 森はまた静寂に包まれた。森からその杯を持ち出せたものはいない。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る