【15】 シビウ 福音教会

 ビエルタンからシビウまで約八十キロ、一時間強のドライブだ。亜希は車の後部座席で窓を開け、風景を楽しみながらのんびりと過ごす。エリックの運転は安定しており、適度な揺れと穏やかな陽気にうたた寝を始めた。本を狙うラドゥたちも密かに追ってきていることを忘れてはいけないが、今はただ心地よい眠りに誘われている。


 ハンドルを握るエリックと助手席のシュテファンはルーマニア語で会話している。そういえば、彼らはルーマニア人なのだ、と再認識する場面だ。

 農村から都市へ風景が様変わりしてきた。BMWは古い街並みの狭道へ入っていく。建物の間の狭い駐車スペースに車を停めた。


「シビウに到着しました」

 エリックの声で亜希は目を覚ました。口を開けて眠っていたらしい。喉が渇いている。バッグからミネラルウォーターを取り出し、水分を口に含む。

 シビウはドイツ語でヘルマンシュタットと呼ばれ、一二世紀にドイツ人の入植者により作られた都市だ。中央ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ商業都市として発展し、一六世紀にはその勢いはウィーンに匹敵するほどだったという。


「まずはランチにしましょう」

 午後一二時をまわったところだ。駐車場から広場に向かうと、正面に高い時計塔が見えた。時計塔はどの街でも中央にあるのが中世からの作りなのだとエリックが教えてくれる。広場には噴水が湧き上がり、光を反射する水しぶきに子供が戯れている。


 広場に面したオープンテラスでランチにする。ルーマニアにはこのようなオープンテラスの店が多い。屋外で食事をする開放感や、そこでするおしゃべりを楽しむのはいかにも欧米という感じだ。亜希はフレッシュサラダにひよこ豆のスープ、サルマーレを注文した。飲み物はいつものレモネードだ。


「この町には大きな教会がふたつあります。正教会とカトリックの福音教会です」

「正教とカトリックが同居しているんだ」

 この国の宗教観も日本と同じく、案外おおらかなのかもしれない。

「ええ、でもケンカはしませんよ」

「ドラキュラ公は正教からカトリックへ改宗しましたよね」

「そうです。アキ、あなたはよく勉強していますよ」

 シュテファンもすごいね、と亜希を褒めてくれた。付け焼き刃ながらドラキュラ公について知っておいて良かった。


「ドラキュラ公は三度王座についている。それは二度、王座を追われたということです。三度目の即位にはハンガリー王の力添えが必要だった。そこで、ハンガリー王の妹と婚姻を結ぶことになり、正教からカトリックへ改宗したのです」


 ドリンクが運ばれてきた。ガラスの瓶にたっぷり入ったレモネードが置かれる。中には輪切りにしたレモンが浮かんでいる。フレッシュで素朴なレモネードは亜希のお気に入りだ。


「当時、宗教の力は絶対でした。カトリックへの改宗で民衆はドラキュラ公を非難します。しかし、それは王座につき、国を守るという目的のため理にかなった行動だった。それが理解できない民衆により、悪魔と非難されました」

「ドラキュラ公は合理的な考え方を持っていたのね」

「そう、今なら理解できますが、当時の感覚では異端者です」

 異端者という言葉の意味がわからず、シュテファンがエリックに尋ねている。


 ひよこ豆のスープはきのこやじゃがいも、マカロニなどが入って具だくさんだ。トマトベースの爽やかな酸味がある。スプーンでさらえば丸いひよこ豆がぽこぽこ浮かんでくる。真っ赤なトマト、レタスにオニオンベースのドレッシングがかけられたシンプルなサラダに、サルマーレはルーマニア風のロールキャベツだ。


「この店のサルマーレは美味しいですよ」

 エリックもお墨付きのようだ。サルマーレは挽肉やみじん切りのタマネギを混ぜたタネを酢キャベツで包み、ブイヨンで煮込んだ料理だ。大きな皿に四つ、そしてママリガが添えてある。


「味がよく染みて美味しい」

「うちでも良く作るよ」

 シュテファンの母は料理が得意だという。作り方をたどたどしい日本語で亜希に説明してくれた。一生懸命に話してくれる姿を見ていると、自分もルーマニア語を覚えないと、という気持ちになる。


 賑やかな食事を終えて、広場に近い正教会へ向かう。両側に尖塔が立ち、アーチを組み合わせた縞模様のインパクトが強い外観だ。教会内へ足を踏み入れた途端、思わず驚嘆のため息が漏れた。天井に並ぶ明かり取りの窓、両側のステンドグラスから差し込む自然光が教会内を神々しく照らしている。壁全体に色鮮やかなフレスコ画が描かれ、天井からは金色のシャンデリアがぶら下がる。正面の見上げるほどのイコノスタシスは、金枠に縁取られた宗教絵が描かれていた。ドーム内に響く祈りの声が荘厳な雰囲気を醸し出している。


「こんなすごい光景、見たことがない」

 亜希は震える声で呟く。あまりの美しさに目の前に天国が垣間見える気がした。エリックとシュテファンは祭壇の前で十時を切っている。亜希は仏教徒だが、祈りの場というのはどんな宗教でも共通の特別な雰囲気があり、神聖なものだと実感した。


 廊下を隔てる柱が支えるいくつものアーチ、天井の円窓、二階のドームと上部のアーチが折りなす立体感と、変化に飛んだ建築は見事だ。その壁面すべてに金色をふんだんに使ったイコンが描かれており、光を反射する光景に圧倒される。これまでの教会はカトリック教会でどこか質素な趣だったが、正教会は仰天するほど派手で煌びやかだ。


「つい見とれてしまって、本当にすごいわ」

 亜希が教会を出ると、エリックとシュテファンは外で待っていた。二人はこのような教会建築を見慣れているのだろう。

「もう一つの教会はシンプルですが、地下にドラキュラ公ゆかりの人物の墓があります」


 シビウにドラキュラ公のゆかりの人物の墓があるとは知らなかった。ガイドブックには載っていない情報だ。

「ミフネア悪徳公、ドラキュラ公の息子です」

「串刺し公に悪徳公か、親子でひどい言われようだわ」

 亜希は苦笑する。

「一族の他の者に池で溺れて死んだので、溺死公と呼ばれる人もいるそうです」

 それも酷い話だ。死因が戒名になっているようなものか、と妙に納得する。

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