【14】 ビエルタン要塞教会

 爽やかな小鳥の声に亜希は目を覚ました。時計は午前六時を差している。ひとつ伸びをして、身体を起こす。昨夜は事態がめまぐるしく変化した。夜の教会に忍び込み、龍の紋章の本の謎解きの鍵になる片目のレンズを見つけたこと。ラドゥやメフメト、白装束の男達が龍の力を奪おうとしていること。月の光で本に隠された文字が浮かび上がり、道は示された。


 そして、亜希はエリックと共にドラキュラ伝説を辿る旅に出ることを決意した。後悔はしていない。串刺し公とあだ名され、恐れられた男、その彼が畏れた龍の力の真実を知りたい、今はその好奇心が勝っている。


 昨夜は本の謎がひとつ解けたことで、大喜びした。しかし、今日は遅いしもう寝ましょうとエリックが至極妥当な提案をしたのですぐに解散となった。また月は昇ります、というのが彼の意見だ。それに次の行き先も決まっていると言っていた。


 それでもベッドに入ったときには深夜二時をまわっていた。興奮冷めやらぬまま四時間ほどの睡眠だったが、意外に頭はすっきりしていた。

 朝食まで時間がある。今日は朝九時にロビーで待ち合わせ、その前に、もう一度ドラキュラ公が生まれた街を歩いてみたくなった。


 ホテルの裏口からシギショアラ旧市街へ向かう。カーブする石畳の階段を上れば時計塔が見えた。広場に出る。老夫婦が一組、若い女性が犬を連れて散策していた。昼間は観光客で賑わうが、早朝から出歩く人は地元の人間だ。亜希は街を見下ろすベンチに腰掛けた。


 教会から鳥が飛び立ち、朝日の射す方向へ向かってゆく。朝焼けに色づく雲は七色に輝いている。ここにいれば時間の流れを忘れてしまいそうだ。

 古い教会の脇を通って、もう一度ドラキュラ公の生家の前に立つ。彼はここで産声を上げた。再びこの街に戻ってきたとき、父の語る龍の物語を目を輝かせて聞いていた。彼が何を考え、どう生きたのだろう。それまで名前も知らなかった異国の英雄に思いを馳せた。


 ホテルに戻り、朝食のレストランへ向う。ビュッフェ形式で、焼きたてパンや新鮮な野菜が並ぶ。これでもかと盛りに盛ってテーブルを探していると、エリックとシュテファンが窓際の席から手を振っていた。亜希は手に持った皿のボリュームに赤面したが、バレてしまっては仕方が無い。彼らと一緒に食べることにした。


「アキ、おはよう」

 皿に盛られた食べ物を見て、エリックとシュテファンがにこやかに笑う。亜希は気恥ずかしくて、愛想笑いを返した。


「今日はここから西のフネドワラ城へ向かいましょう」

 日本の旅行代理店イーストトラベルと相談して決めた日程では、シギショアラから北上してモルドヴァ地方へ向かうことになっていた。西へ向かうとなれば寄り道だ。しかし、もう最初の行程は気にしないことにした。


「フネドワラ城はヤノシュの城だよ」

 ヤノシュ、誰だったかな。亜希は首を傾げる。

「トランシルヴァニア公フニャディ・ヤノシュは優秀な政治家であり、軍事家だった。ドラキュラ公は彼に師事していたことがあるんだよ」


 ルーマニアは三つの地域に分けられる。一番南の平野部がワラキア地方、ドラキュラ公はワラキアの君主だった。カルパチア山脈を境にトランシルヴァニア地方、ここにはルーマニア人の他、二割はハンガリー人が居住している。トランシルヴァニアは「森の彼方の地」という意味を持つ。北部はモルドヴァ地方で修道院群はこの北部にある。


「もしかして、龍の紋章の本にあった城の絵はフネドワラ城」

「そう、アキは勘がいい」

 本に描かれた版画はドラキュラ公ゆかりの地なのだ。これからは本に記された土地を巡り、ドラキュラ伝説を尋ねる旅だ。そこには一体なにがあるのだろう。思わぬ冒険に心が躍る。亜希は追加でデザートにヨーグルトとフルーツを取ってきた。濃い風味のコーヒーにはミルクをたっぷり入れた。


「アキは日本でどんな仕事をしているの」

 シュテファンは亜希に興味津々だ。

「システム開発、パソコンでシステムを作るのよ。プログラムとか」

 シュテファンはエリックほど日本語が得意ではないようなので、できるだけ平易な言葉を使って話す。


「アキはパソコンが得意なんだね」

「そう、でも今は仕事が無くて。でもそのおかげでこの旅行に来ることにしたわ。シュテファンは日本語が上手ね」

 亜希の言葉にシュテファンは目を輝かせた。日本の文化が大好きなのだという。忍者、侍、浮世絵、お寺や城に馳せる憧れの気持ちを興奮気味に語ってくれた。


「日本には織田信長という武将がいるね。私は彼が好きです。いつか日本に行ってお城やお墓を巡りたい。あ、アキの名前も織田だ」

「私の名前は織田信長と同じ織田という漢字だけと、オリタと読むのよ」

「漢字はいろんな読み方がある、難しいね」

 シュテファンはアニメや漫画も好きだと教えてくれた。そう言われると親近感が沸いてくる。


「この旅のことを話したら、是非行きたいといってね。アキと仲良くなれるのを楽しみにしていたんだ。日本のことを教えてあげてね」

 亜希はもちろん、と頷いた。


 ホテルをチェックアウトし、エリックのBMWに乗り込んだ。シギショアラの街を後にして、農村地帯を走り抜けてゆく。起伏のある畑が彼方まで広がっている。点在する農村の家はピンクやイエローなど明るいパステルカラーで塗られており、眺めていると陽気な気分になる。窓を開ければ芝の匂いを含む乾いた風が頬を撫でた。


 エリックが寄り道をしようと言いだして、ビエルタンに立ち寄った。ビエルタンには中世に作られた要塞教会と呼ばれる教会群が有名だ。丘の上に教会、その周辺を三重の城壁が囲んでいる。オスマントルコの攻撃に備えて作られたが、攻撃を受けることは無かったという。ゴシック建築の聖堂は保存状態も良く、世界遺産に登録されている。


「この城壁は三重に張りめぐさられているんだ」

 入場料を支払い、要塞教会へ続く屋根つきの階段を上る。丘の上に出ると、目の前には茶色い屋根にレモン色の壁の教会がそびえ立つ。入り口と高窓が三つ、その素朴な外観に要塞教会のいわれがよく分かる。後ろを振り向けば、時計塔が見えた。


「これは見張り塔でした。塔は教会を囲んで四方にあります」

 教会の中も外観通りの簡素な作りだ。漆喰の壁は剥がれ、埃っぽい空気に亜希は少し咳き込んだ。中央の祭壇には小さなイエスの像と周囲には宗教画が十字架を模して並ぶ。正教会の典型的な様式だという。


 エリックが頑丈な扉の錠前へ案内してくれた。木の扉に歯車が組み合わさった堅牢な錠前がついている。

「これは聖具室の扉です。この錠前、すごいでしょう。一九個の鍵が組み合わせてあります」

「どんな仕組みで動くのか全然見当がつかないわ」

 自分にも分からない、とエリックは笑う。


 帰りの売店でエリックが勧めてくれたのは、ビエルタン地方の主要な要塞教会のイラストマップだった。もしまたここに来る機会があればのんびり見学したい。絵はがきは上空からのアングルで教会の周辺に壁が三重に張り巡らされているのがよく分かる。亜希は絵はがきと教会マップを購入した。


「では、シビウに向かいましょう」

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