【10】 シギショアラ 山上教会

 狭い階段を上り、レストランフロアへ。観光客を喜ばせる演出か、壁にはドラキュラ公のイラストが描かれ、公の胸像や中世の甲冑がディスプレイされている。昼時とあって満席だ。エリックが店員に話しかけると、テラス席に案内された。


「このレストランはシギショアラで一番有名です。団体ツアーはほとんどこの店を利用します。席が空いていたのは幸運ですね」

「ここがドラキュラ公の生家」

 レストランの喧噪に歴史的意義を忘れそうになる。グリーンのオーニングテントの間からは時計塔が覗いている。


「そう、彼はヴラド二世がこの街に滞在中にこの家で生まれました」

 エリックが手渡してくれたメニュー表には、吸血鬼をイメージしたユニークな料理名が並ぶ。横のテーブルの欧米人はドラキュラワインを注文している。亜希は血のスープと名付けられたトマトスープに豚肉グリルのグラタールを注文した。

「私は正直、まだあなたを信用していません」

 亜希は勇気を出して切り出した。エリックは気分を害することなく穏やかな表情を浮かべている。


「何を信じたらいいのか迷っています。ブラショフのバーでラドゥという名の青年に会いました。彼はあなたが龍の紋章の本を奪おうとしていると言っていました。でもあなたは私に本を返してくれた」

「彼はどんな人でしたか」

 エリックが神妙な顔をして亜希に尋ねる。ドリンクが運ばれてきた。亜希にはレモネード、エリックの前にはソーダ水が置かれた。


「ブロンドで、とても綺麗な顔をしていました。物腰は優しいんだけど、どこか冷たい印象もあって」

「ドラキュラ公には弟がいました。二人は父ヴラド二世によりトルコへ人質に出されたことがあります。トルコで反抗的なドラキュラ公に対して従順で見た目も美しいラドゥは可愛がられ、スルタンにも寵愛されました。その後、トルコはワラキアに傀儡政権を打ち立てるためにラドゥを利用しました。ドラキュラ公は弟と争うことになったのです」


「兄弟で戦うなんて、残酷だわ」

「ドラキュラ公の死には弟ラドゥが関わっているとされています。彼が引き連れたトルコの軍勢と戦い、命を落としたと」

「ドラキュラ公は弟に殺害されたんですか」

 読んだ本には戦の最中にトルコ軍に囲まれて命を落とした、と書かれていた。思えば、戦国時代に兄弟で殺し合うのは日本でもよくある話だ。テーブルに料理が並んだ。


「本がこの国に戻ってきた。そしてラドゥという人物があなたの前に現れた。これは偶然でしょうか。さあ、温かいうちに食べましょう」

 赤いとろみがついたトマトスープは濃厚な味つけだ。スプーンを入れると、大ぶりの真っ赤なトマトがゴロゴロ入っている。酸味の中に感じるほのかな甘みのバランスが食欲を刺激する。グラタールは塩コショウのみのシンプルな味付けだ。添え物にチーズが練り込まれたママリガがついていた。


「亜希はスープがお気に入りですね」

 エリックはいつしか穏やかな表情に戻っていた。デザートに薄皮のクレープ、クラティテを注文した。中には生クリームがたっぷり入っている。皿に二つ載っていたので、エリックとシェアすることにした。

「この後、腹ごなしに丘の上の教会へ行ってみましょう」

 レストランカーサ・ヴラド・ドラクルを出ると、店の前にはまた別の団体客が集まっていた。


「シギショアラは小さな街だよ。歴史地区は半日もあれば観光できます」

 レストランから出て、街の突き当たりに黒い木造のアーチ屋根が見えた。山上教会の入り口だ。アーチの下には階段が続いて、小山の上まで登れるようになっていた。

「良い運動になるでしょう」

「そうですね、運動不足を解消しないと」

 亜希は奮起して一歩を踏み出した。石造りの階段を上っていく。大雑把に組まれた木の隙間から光が落ちて、電灯が無くとも足元は明るかった。


「はあ、疲れた」

 階段を登りきると、目の前にベージュがかった白い漆喰の教会が見えた。亜希は息切れしているが、エリックは平然としている。彼の方がいくつか年長のはずだ、亜希は自分の体力の無さを思い知った。


 ここは一六世紀に建てられたカトリック教会だ。西洋に見る装飾華美なものではなくずいぶん素朴な佇まいだと感じる。外見だけでは教会と分かりにくいが、長いステンドグラスの窓でそうと分かった。亜希が教会を見上げていると、子供達が一斉に階段から降りてきた。亜希を見て無邪気にハローと手を振る。亜希もぎこちなく手を振り返した。


「この上に学校があるんです」

 エリックも子供達に手を振っている。芝生に囲まれた教会の脇を通り、入り口へ回る。裏手には十字架が立ち並ぶ墓地が広がっている。墓碑は古いものと新しいものが混在している。立ち枯れた木や、曇天の空と相まって不気味な迫力があった。


 教会の入り口でカンパとして少額の入場料を支払った。スカーフを被ったおばさんが亜希に英語で日本人かと尋ね、日本語の説明書をくれた。かつてここを訪問した日本人が書いてくれたものだという。こんな場所で日本語ガイドをもらえるとは、思っておらず海外で見る日本語はどこか温かく懐かしい気持ちになった。


 教会の内部は高いアーチ型の天井、立派な柱、正面には金枠に納められた宗教画が十六枚、十字架状に配置されている。古い木の長椅子が並び、宗教画が描かれた漆喰の壁はところどころ剥げかけていた。エリックがこの壁画は一五世紀のもので、ほとんど破損しているが、当時の状態を復元していると教えてくれた。


 亜希は聖人の彫刻の側の椅子に腰掛ける。亜希とエリックの他に二,三人の観光客がいるのみで時折小さな祈りが聞こえてくる。宗教に拘りは無いが、ステンドグラスから漏れる優しい光に包まれていると神聖な空気を感じる。


「あれ、珍しい。地下への入り口が開いている」

 エリックが嬉しそうに手招きする。祭壇前に地下へ降りる煉瓦造りの階段が伸びている。

「気をつけて」

 亜希はエリックの背後について降りていく。十二段を降りたところで正面に地下通路が延びていた。奥の明かり取りの窓から光が漏れている。十メートルも無い、短い通路だ。床は煉瓦、壁には漆喰を塗り込めた形跡がある。ひんやりとした空気が漂い、気付けば階段を上ったときの汗はひいていた。


「ここは納骨堂ですね、昔はここに棺を入れました」

 かまぼこ型の穴の跡が上下二列で並んでいる。なるほど、欧米風の棺を横にして押し込める形をしている。納骨堂と言われて不思議とゾッとしないのは宗教観の違いとここがあまりにも古いからなのかもしれない。

「特別な人物の墓だったのでしょう。今は使われていません」

 外の墓地は庶民の場所なのだ。通路から階段を上って地上に戻り、教会を出た。


「少し休憩しましょう」

 教会脇のベンチは大きな欅の陰が差し、初夏の爽やかな風が吹き抜けていく。柔らかな木漏れ日が大地で揺れている。亜希とエリックは並んで座った。

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