【11】 シギショアラ 時計塔

「龍の紋章の本を持っていますか」

 亜希はエリックの顔をちらりと見やる。

「取り上げたりしませんよ」

「そんなつもりでは」

 あったが、心を見透かされて亜希は恥ずかしくなった。亜希はバッグから本を取り出し、エリックに手渡す。エリックは慎重な手つきでページをめくる。中世の荒削りな版画の独特な絵で龍が絡みついた太陽と月が描かれている。宗教的な雰囲気はあるが、抽象的でよく分からない絵だ。月は片方だけレンズがあるメガネのようなものをかけている。


「この本に書かれていることはすべて意味があります。しかし、実のところ、私にも意味が分かりません」

 エリックはページをめくる。大きな尖塔のある城の絵、その次のページから文章が綴られている。次をめくると文字が極端にかすれている。続いて山の上に築かれた城の絵、文章が続き、白紙に近い状態のかすれたページ。そのあとも中世の王宮、亜希が気になった修道院、最後は湖に浮かぶ小さな小島だった。白紙のページは定期的に現れる。


「この絵の場所はすべて存在します」

 エリックの言葉に、亜希は高揚感に鳥肌が立つのを感じた。修道院はルーマニアの北部に点在するものに似ているが、どれかを特定するものとは思っていなかった。

「そして、この空白のページも各場所の項目に一ページずつ、たまたまこのページだけ劣化したのではなく、法則があると思いませんか」

 亜希は何気なく本を眺めていただけで、まじまじと考えたことは無かった。そう言われると合点がいった。


「私の父は、いえもっと祖先代々から、この本の謎を解こうとしていました。しかし、その道半ばで盗難に遭ってしまった。今ここにあることは運命だと思います」

「謎解きをしていこうというわけ」

 亜希は自分が驚くほど興奮しているのが分かった。まるで宝探しをする子供のようにわくわくしている。エリックを完全に信じられるわけではないが、この本を手にしてから奇妙な出来事がたくさんあった。運命的なものを感じずにはいられない。

 エリックは目を輝かせている亜希の顔を見て微笑む。


「この本には封印された龍の力の謎が隠されています。謎を解くことで封印は解かれ、龍の力を得られるのはないかと考えます。本を狙う者たちの目的は偉大な龍の力です」

「龍の力って、一体どんなものなの」

 そもそも、龍という空想上の生き物について何も知らない。亜希の見た夢の中では赤い龍が恐ろしい嵐を巻き起こしていた。そういった天災のような力なのだろうか。


「それは私にもわかりません。しかし、ドラキュラ公はその力を一度手にしながら、それを畏れて自ら封印したとされています。そんなものがこの世に放たれたら。私はそうしたくはありません」

 エリックは真っ直ぐ前を向いた。その瞳には強い意志を感じた。この人は信頼していいのかもしれない、亜希はその瞳を見て思う。


「あなたは封印を守る立場なの」

「格好良く言えばそうです。ああ、そろそろ行きましょう。時計塔が閉館してしまう」

 山上教会を後にして、エリックとともに旧市街に戻ってきた。パステルカラーの古い町並の並ぶ路地を通り、時計塔へ向かう。入り口には入館は三時までと看板が出ていた。今は二時半、間に合って良かったと亜希は胸を撫で下ろす。

 シギショアラのランドマークである古い時計塔は一四世紀に建造され、市議会の議事堂としても使われていた。一七世紀に作られたからくり時計は今も動作しており、機械仕掛けの人形が時を知らせて観光客を楽しませる。塔の内部は歴史博物館になっていた。


「では行ってらっしゃい」

 エリックは何度も上がっているので留守番でいいらしい。亜希は鉄格子の扉を抜けて時計塔の中へ入る。上階へ登る黒木の急な階段を高齢者団体ツアー客が手すりに掴まりながらゆっくり登っているのでひどく渋滞していた。


 二階の博物館にはガラスケースに中世に使われた計量機器や医療器具などが展示されている。階段が団体でつまっているので、亜希はゆっくりと展示品を見学することにした。時計塔は外から見ても細長い塔なので中も狭い。次の階は木製の家具や絵画が展示されている。展示品はアンティークという共通項以外にジャンルは雑多で、とりあえず集めて置いた感じだ。次の階には金属製の器や食器などの生活用品が並ぶ。いよいよ階段は狭くなり、亜希も高齢者を見習って足を滑らせないよう踏みしめて登る。


 すると暗い部屋に出た。機械仕掛けの人形が並んでいる。からくり時計の裏側、ここは最上階だ。右手の扉を出れば、時計塔の周辺を巡るテラスがあった。ここは五階に相当する、見下ろせばかなりの高さに一瞬目眩を覚える。

「うわぁ高い」

 高所はあまり得意ではない。怖くて足がすくみ、お腹がぞわぞわする。真下が視界に入らないよう、壁に沿って慎重に歩く。古い木の床はミシミシと軋みを上げており、鳥肌が立つ。


 見渡せば、青空に白い羊雲がぽっかり浮かび流れてゆく。中世のオレンジ屋根の統一感のある街並みのコントラストが美しい。

 亜希はへっぴり腰でカメラを構えた。すぐ横を物怖じしないブロンドの若い女性が談笑しながら通り抜けたので、それだけで肝を冷やした。どこを切り取って撮影しても絵画のようになる風景だ。手すりに海外の大きな都市の名前と距離が刻まれた真鍮のプレートがついていた。東の方角にはTOKYOの文字を見つけて嬉しくなった。


 西側には山上教会が見えた。欅の緑に囲まれて屋根と塔だけが覗いている。のんびりとした時間が流れる素朴で温かい街だ。亜希はルーマニアという国にひとかたならぬ愛着を抱き始めていた。


 狭い階段を降りるときはさらに角度が急に思えた。先程のご老人一行は無事に降りられたのだろうか、すでに姿は見えなかった。塔から出ると、ガシャンと音がして背後で係員が扉の鍵を施錠しているところだった。木陰に佇んでジュース売りの若者と談笑していたエリックが手を振る。


「いかがでしたか」

「高くてすごく怖かったわ。でも眺めは最高」

 時計塔から三時を知らせる鐘が鳴り響いた。エリックが亜希の手を引いた。

「からくり人形を見に行きましょう」

 時計塔の真下の石造りの門を抜けて文字盤の正面に立つ。観光客もみんな楽しみに時計塔を見上げている。文字盤右側の仕掛け窓から人形が出てきて、明るい音楽とともに踊り出した。


「わあ、かわいいですね」

 先ほど裏で見た仕掛けが実際に動いているのを見るのは感慨深かった。人形は五分ほど踊ったあとに時計塔の中へ消えていった。いつの間にか緊張感が解け、旅を満喫している。亜希はそれに気がついて思わず苦笑する。


「さて、ホテルへ案内しましょう」

 エリックについて石畳の階段を降り、裏通りを抜けるとホテルの入り口が見えた。オープンテラスのレストランは休憩中で、夕方五時からオープンと看板が出ている。フロントでパスポートを出してチェックインを済ませる。


「夕食はどうしますか」

「できれば案内してもらえますか。一人ではちょっと心細くて」

 シギショアラの街並みは治安に不安を感じるところはないが、ブラショフにいた白装束やラドゥに出会うのが怖い。しかし、彼らに怯えてホテルのレストランで食事を済ませるのも悔しい気がしていた。


「もちろん、シギショアラはライトアップもきれいです。良いレストランもありますから、一緒に行きましょう」

「では、夜七時に」

 約束を交し、エリックと別れた。まだ三時過ぎで日も高いが、ちょっと気疲れしてしまった。海外旅行に来たのだからめいっぱい観光したいという貧乏性な気持ちに押されつつも、約束の時間まで少し眠ることにした。

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